04:『交際相手が猫の次は子供拾ってきた』
「ヘルマン? ちょっとこっちへ」
外科医のカリナは帰宅早々、思わず足を止めた。
数時間前まで病院で担当していた子供の患者と、自分の交際相手が並んで茶を啜り、談笑している光景など想像すらしていなかったからだ。
少年——レイジは、彼女の姿に気づくと慌てて立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。
「カリナさん、お邪魔しています」
その丁寧さが逆に、胸の奥をざわつかせる。
挨拶もそこそこに、カリナはヘルマンの耳を容赦なくつまみ、玄関の外へと引っ張り出した。
「今から説明しようと思ってたんだよ」
頭を掻きながら言い訳を探すヘルマン。
しかし、彼の行動パターンなど手に取るようにわかる。カリナは一目で察した。
「レイジ君の家が燃えちゃったから、さっきのお礼も兼ねて家に上げたんでしょ?」
「そ、そうだな。七割くらいは合ってる。あとはあいつに剣術を教えるからしばらく同居するから」
あまりに軽い口調に、カリナは呆れを通り越して言葉を失った。
次に出たのは、思わず漏れた声だった。
「いやいやいや。レイジ君の事情は知ってるけど、相談しなさいよ! この前のノラ猫とは違うのよ? それに私もあなたも仕事が不規則なのに、誰が面倒みるのよ」
「わかってる、わかってる。レイジは年の割にしっかりしているし、放ってはおけないだろ?」
まったく、この人は。ため息が自然と漏れる。
年上で頼れるところもあるが、こういうときは子供のように直感で動き、後先を考えない。
だからこそ憎めないのだと自覚しつつ、カリナは頭を抱えた。
ヘルマンは本来、騎士団の独身寮に住む身である。
しかし、寮に交際相手を連れ込むわけにもいかず、逆にカリナの家に仮住まいしている形だった。
にもかかわらず、猫やら子供やらを巻き込む行動——カリナの頭の中で、さまざまな想像が駆け巡る。
事故や怪我、生活の不便さ……不安材料は尽きない。
居間に戻ると、少年レイジは背筋を伸ばして待機していた。
整った姿勢に、年齢以上の落ち着きが漂う。
カリナの目には、ただの子供ではない、どこか大人びた印象が映った。
ここがスラム街でなければ、一人でも生きていけそうな雰囲気だ。
「突然押しかけてすみません。もしかして、ご迷惑でしょうか?」
礼儀正しく頭を下げる少年に、カリナは一瞬戸惑った。
表情は平静を装っていても、胸の奥では先行きへの不安が渦巻く。
「違うの。大丈夫よ、ちょっと突然で……そう、驚いただけ」
そう言葉に出してみるが、心の中では小さな警鐘が鳴り続けていた。
子供を一人迎え入れるということの重みを、肌で感じているのだ。
「改めて、お世話になります」
レイジの丁寧な頭の下げ方を見つめながら、カリナは深く息を吸った。
小さな胸に、責任という名の覚悟が静かに芽生える——面倒を見る以上、この子を最後まで守らなければ。
* * *
レイジがカリナ宅に居候して二日が過ぎた。
生活用品を整えたり、朝食や洗濯の世話をしたりと慌ただしい時間が過ぎ、ようやく剣を握る時間が訪れた。
早朝の広場。
まだ空気はひんやりとしており、照り付ける朝日が背中を暖める中、ヘルマンとレイジが対面で立つ。
ヘルマンが木剣を投げ渡すと、レイジは慣れない手つきで両手に握りしめ、ぎこちなく構えた。
視線と足運びを観察する——素人そのものだ。
だが、あの魔圧撃を放った少年が、今この場に立っている。
常識的に考えれば、ここで何か起こせるはずがない。
しかし、直感はヘルマンに警告していた。この少年、簡単には測れない。
「今日は初日だし軽くな。お前は本気で来てもいいぞ」
まだ血の滲む右手を庇い、左手で木剣を握るヘルマン。
対面のレイジは両手で木剣を構え、瞳を真っ直ぐに向けている。
その真剣な視線に、ヘルマンは僅かに胸が引き締まるのを覚えた。
レイジが石畳を蹴り、距離を詰める。
ヘルマンは左手で振り向けられた木剣の軌道を軽くずらす——反応は正確で、少年の体勢はすぐに崩れ、木剣が床に転がった。
スッと首元に木剣をあてがい、静かに釘を刺す。
「もし実戦ならお前はここで終わりだ。意外と正面から突っ込むタイプなんだな」
その瞬間、レイジは左腕で木剣を弾き、自分の剣を拾うと、小さく振り上げた。
「魔圧撃——!」
小さな斬撃が飛び、ヘルマンは反射的に身をかわした。心臓が一瞬跳ねる。
「危ねぇ!」
レイジはわざとらしく口角をあげ、楽しげに言う。
「実戦だったから一撃入ってたかもね」
——言う通りかもしれない。
ヘルマンは、形式的な訓練が意味を持たない可能性を瞬時に理解した。
実戦を想定するなら、初歩の動きや模範演技など、些末なことに過ぎないのだ。
目の前の少年は、すでにそれを理解している。
胸中で、ヘルマンは静かに覚悟を決めた。
――この子を甘く見てはいけない。
だが、導く価値があるのも確かだ。
あの魔圧撃を見た限り、潜在力は常識の枠を超えている。
正しい方向へ導ければ、この少年は国を守る剣士にもなり得る。
だが、誤れば破滅の種にもなる——その責任を、今、自分が負わねばならない。
「よし、決めたぞ。お前が一人でも生きていけるよう、徹底的に実戦形式で訓練しよう」
ヘルマンの声は静かだが、どこか強い決意を帯びていた。
胸の奥で小さく、血の滲む右手を握り締める。
過去の戦場経験が、自然と体に力をこめさせる。
「実戦って。僕、超初心者なんだけど……死なないかな」
レイジの声は少し震えていた。
子供らしい不安と、しかしどこか好奇心も混ざった声色だ。
ヘルマンは微かに笑みを浮かべ、肩の力を抜くように言った。
「安心しろ! 死なない程度に適度に経験を積ませるから。じゃあ、行くぞ」
言い切った瞬間、ヘルマンは背筋を伸ばし、二っと歯を見せて笑う。
その笑みは、少年を鼓舞すると同時に、自分自身への決意でもあった。
視線の先に立つレイジの瞳に、ほんの少しの迷いを見逃さない。
足取りを踏み出す。
背中を見せながら歩く自分の姿は、導き手としての象徴でもある——子供の目には、ただの頼れる大人に映るだろう。
「へ?」
レイジの戸惑う声が、初めての実戦訓練への緊張と期待を同時に表していた。
ヘルマンはその小さな声を聞き流すことなく、少年の背中に視線を注ぎ、今日から始まる試練の一歩を心の中で刻んだ。
* * *
慣れた足取りでヘルマンが歩き出す。
レイジは慌てて追いかけ、凸凹コンビは街を抜ける。
石畳の感触、軒先を抜ける風、遠くの市場の喧騒——街の匂いすら新鮮に感じられた。
しばらく歩くと、広場にプレハブ小屋が並び、整った制服の人々が行き交っている。
無駄のない動きに、静かな緊張感が漂っていた。
「ヘルマン、ここは?」
「俺の職場。つまりは騎士団の拠点だ」
騎士団。
その言葉に、レイジの胸が高鳴った。
ヘルマンのように強くたくましい騎士がここにいる——もしかすると、他にも憧れるような騎士がいるかもしれない。
期待と緊張が入り混じり、身体の奥が小さくざわつく。
ひと際大きなプレハブ小屋にヘルマンが顔を出すと、茶色い三つ編みを下げた小柄な女性が笑顔で顔を出した。
「あれぇ? 隊長、今日は夜勤ですよね。もしかして、早く働きたくて10時間もフライングしちゃったんですか?」
「そんなわけねぇだろ。用事が済んだらすぐ帰るよ。それに、何度言ったらわかるんだ。俺はまだ”小隊長”だ」
「私にとっては隊長ですよ」
女性の軽やかな口調に、レイジは肩をすくめる。
ヘルマンの表情とは対照的で、どこか安心感を覚えた。
レイジが恐る恐る中を覗くと、女性が気づいて近寄ってきた。
「うわー、かわいい子! 隊長の子ですか?」
「ど、どうも」
勢いに思わずのけぞる。口の中で言葉が詰まり、顔が熱くなる。
奥からヘルマンの冷めた視線が刺さり、空気の緊張が増すのを感じた。
「俺の初弟子のレイジだよ。剣術のセンスがある。鍛えてやろうと思ってな」
「そうなんですね! じゃあ私の弟弟子だ。ミカだよ、よろしくね」
ミカは得意げに三つ編みを揺らす。
レイジは目を丸くし、言葉の勢いに圧倒される。
いきなり“弟子”になった自分に、戸惑いと興奮が入り混じった。
「お前はいつから弟子になったんだよ」
「隊長の部下なんですから、私も立派な弟子ってことですよね?」
「調子のいいやつだな」
ヘルマンは腰を落としてプレハブ奥の収納棚をガサゴソと物色し始める。
レイジはその背中をじっと見つめた。
この世界の大人は、自分が考える以上に自由で、そして何よりも強い。
今日から、自分も少しだけその世界に踏み込む——そんな覚悟が胸に芽生えていた。
「あった!」
ヘルマンの声が広いプレハブ内に響き、レイジは思わず振り向く。
普段の冷静な表情とは違い、少年のように弾む声がどこか心地よい。
ミカの背後を覗くと、ヘルマンが両手で何かを持ち上げている。
光を受けてきらりと反射するそれは、水晶玉だった。
レイジの目が輝く。
剣術以外のものであんなにも喜ぶ姿を初めて見た。
普段の厳しさの奥に、無邪気な一面がある——思わず微笑みがこぼれる。
「占いでも始めるの――?」
つい口に出した言葉に、ヘルマンは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに口角を上げ、レイジの好奇心を受け止める。
レイジは胸の奥で小さな期待を感じた。
今日から始まる新しい生活——騎士団、剣術、そしてこの奇妙で少し不思議な大人たちとの時間。
すべてが初めてで、どれもが刺激的だった。
これからの日々の冒険が、わくわくとした光景のように映っていた。