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#034

 朝の広場に、甲高い金属音が澄んで響いた。


 冷えた空気を裂くように、レイジの片手剣が振り下ろされる。


 まだ身体に馴染まぬ重みを両手で支えながら、彼は懸命に軌道を保った。


 だがヘルマンは、あくまで軽やかだった。


 木剣のひと振りで受け止め、そのまま手首の返しで弾き飛ばす。


 次の瞬間には、レイジの手中から剣がこぼれ落ちていた。金属が乾いた音を立て、地面に転がる。


 木剣の先端が喉元に突きつけられたのは、その一秒も経たぬうちだった。


「いつもながら、実戦だったらここで終わりだな」


 ヘルマンは口の端を吊り上げ、歯を覗かせる。


 そして、木剣を下ろすと同時に、少年の頭へと大きな掌を落とした。


 ぐしゃ、と乱暴に撫でられ、レイジの髪がくしゃくしゃになる。


「初めて使うのに勝てるわけないじゃんか!」


「はいはい。まずは片手剣を片手で持てるようになるんだな。……しばらくは筋トレメニュー追加だ」


 その一言に、レイジは肩を落とした。


 まただ。無意識の言い訳が、結果的に自分の首を締める。最近、この流れが多すぎる。


 ――センスがある、なんて言ってくれるけど。


 どうせ慰めだ。チートのひとつでもあれば、少しはマシなのに。


 ぼやくように心の中で呟きながら、レイジは汗を拭った。


 タオル越しに肌へ伝わる熱気と、喉を潤す水の冷たさが心地いい。


 身体は疲れても、こうして汗を流す瞬間だけは、妙に達成感があった。


「俺はまだ仕事があるから拠点に戻るぞ」


 そう言って、ヘルマンは木剣を背に立てかけながら振り返った。


「それより、最近――あの子、大丈夫か?」


 あの子。もちろん、カリナ宅に身を寄せているレイチェルのことだ。


「うん。元気は元気。でも、外に出たがらなくて」


「無理もないな。心の傷が癒えるには時間がかかる。無理に連れ出さずに、少しずつ慣れさせていけばいい」


「わかってるよ。それに、生活費だってちゃんと稼いでくる」


 ヘルマンが片眉を上げる。


「そういえば、あの金はどっから持ってきたんだ?」


 レイジは一瞬、言葉に詰まった。視線が泳ぐ。


「人助けだよ。親切にした御礼にって、少し貰ったんだ。イリュドじゃ助け合いで感謝してもらえるんだね。僕びっくりしちゃったよ」


 口の端に無理な笑みを作る。


「また今度、謝礼を払うから手伝ってほしいことがあるって言われてて」


 ――咄嗟についた嘘。


 非公式に騎士団から仕事を請け負った、なんて言えるはずもない。


 少なくとも、この人の前では。


 ヘルマンの背が小さくなっていくのを見送りながら、レイジは唇を噛んだ。


 朝の光はもう差しているというのに、肌を撫でる風はまだ冷たい。


 胸の奥で、何かが引っかかったままだった。


 帰り道、彼はふと、朝錬へ向かう途中に見かけたカリナの姿を思い出す。


 夜勤明けだったのだろう。髪は乱れ、目の下には濃い影が落ちていた。


 いつもなら軽く手を振るのに、その朝は言葉を交わす間もなくすれ違った。


 ――声をかけるべきだったかもしれない。


 そう考えつつも、レイジは小さく首を振る。今さらだ。


「……朝飯、ないかもな」


 独りごとのように呟き、歩を進めた。


 帰る家は、二人暮らしには広すぎるほどだった。


 元の世界で言うなら二部屋と居間の2DK。


 カリナ曰く「将来を見越して」らしいが、その“将来”が誰とのものなのか、レイジは聞けずにいる。

 ――ヘルマンと、結婚しないのか。


 ふと頭をよぎった疑問に、彼は小さく苦笑した。


 どちらかが奥手なのか、それとも……ヘルマンのことだ。恋愛なんて、きっと一番苦手な類だろう。


 そんな他愛もない考えが途切れたのは、玄関の前に立った瞬間だった。


 背筋を、氷のような感覚が撫でた。


 ぞくりとする。誰かに見られている――。


 反射的に振り返るが、通りには誰もいない。


 風が道端の雑草を鳴らすだけ。


 だが、足元に視線を落とした瞬間、呼吸が止まった。


 ――血。


 玄関前の石畳に、赤黒い染みが点々と残っていた。


 まだ乾ききっていない。


 時間にして、数時間前。夜明け前の出来事だ。


「……まさか」


 最悪の想像が、脳裏をかすめる。


 次の瞬間には、扉を乱暴に押し開けていた。


 視界に飛び込んできた光景に、息を呑む。


 部屋が――荒らされていた。


 帰宅しているはずのカリナの姿は見当たらない。


 リビングの家具は転倒し、食器は粉々に砕け、壁には引っかき傷のような跡が残っている。


 まるで猛獣が暴れたあとだ。


「レイチェル! レイチェルは――!」


 叫びながら、寝室へ駆け込む。


 シーツは乱れ、窓は半ば開け放たれていた。


 しかし、そこにいるはずの少女の姿はない。


 静寂の中で、レイジの喉から声が漏れた。


 怒りとも、悲しみとも、恐怖ともつかない叫びだった。


 彼の声が木造の家を震わせ、静かな朝を無残に切り裂いた。


 * * *


 アークレーンの騎士団拠点。


 ヘルマン隊が駐屯するプレハブ小屋の中は、夜勤明けの兵たちの疲労と、紙とインクの匂いで満ちていた。


 ミカはデスクに向かい、山積みになった報告書の束を前に頭を抱えていた。


「ダメだ……絶対終わらない。期限、ちょっとくらい伸ばしてもらえないかな……」


 口からこぼれたのは、戦場では決して吐かない“弱音”だった。


 自分で決めたはずなのに——“もう二度と逃げない”と。


 それでも、この書類の山だけは別問題らしい。


「たぶん、延ばしてもらえるっすよ。俺、後出し得意なんで。何度も経験あるっす」


 軽い声に顔を上げると、イチがコーヒーカップを片手に、いつの間にか隣に立っていた。


 気づかなかったほど、集中していたらしい。


「あ、イチくん……おはよう。って、当たり前みたいに期限超えちゃダメっすよー」


 冗談めかして返すが、ペン先は一文字も進まない。


 そのとき、小屋の扉が開き、朝の光とともにヘルマンが入ってきた。


 瞬間、空気が張り詰める。


 彼の姿を見ただけで、背筋が伸びるのはもはや反射だ。


「隊長、おかえりなさい。朝練、どうでした?」


「今日も充実していたな。……あいつを鍛えてると、昔を思い出すんだ。一心不乱に剣を振ってた頃がな」


 その口調に、どこか懐かしさが滲んでいた。


 ミカはすぐに“あいつ”の名を思い浮かべる。


「レイジくん、きっと強くなりますよ。騎士団に入ればいいのに」


「さすがにまだ子供だ。けど……俺が官僚になったら推薦してやるさ。その時は、ミカ、お前のライバルになるかもな」


 ミカは思わず笑った。


「流石にそのころには、私も小隊長くらいにはなってますよ! 王都じゃ同期がどんどん昇進してて、もう焦ってるくらいです」


「期待しているよ」


 ヘルマンの穏やかな声。


 その一言に、胸の奥が少し熱くなる。


 いつかこの人みたいになりたい——そう思ってから、もう何年になるだろう。


 今なら、期限の相談をするチャンスかもしれない。


 そう思って口を開こうとした、その時だった。


 バンッ、と扉が乱暴に開いた。


 息を切らした若い騎士が、真っ青な顔で立っていた。


 ——カリナが、何かトラブルに巻き込まれたとの報告。


 一瞬で場の空気が凍る。


 ヘルマンの表情が変わった。


 焦りと、不安、そして恐怖が入り混じる。


 何も言わず、彼は踵を返して走り出した。


 ただ、その背中が語っていた——理性よりも先に、心が動いたのだと。


「あー……行っちゃいましたね、小隊長」


 イチが息をつき、肩をすくめる。


「わ、私も行く! ごめんイチくん、報告書、代筆お願い!」


「はぁ!? ……高くつきますよ? にしても隊長、焦ってましたね」


「そりゃそうでしょ。カリナさんのことだもん」


「たぶん、“例のトラウマ”もあるんすよ」


「トラウマ……?」


「ミカちゃん、去年入隊だっけ? そりゃ知らないっすよね」


 イチは声を潜め、わずかに真面目な顔になる。


「八年前の紛争地帯で、惚れた女を見殺しにしたらしいっす。酒の席でポロッと話してたんで。たぶん、今でも後悔してるんすよ」


 ミカの胸に、ひやりとしたものが落ちた。


 ヘルマンの背中を思い浮かべる。あの、迷いを許さない背中。


「……ありがとう」


 短くそう言い残し、ミカは駆け出した。


 報告書も、疲労も、すべて頭から消えていた。


 ただ、あの人の力にならなければという一心で。

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