#033
コーダとの出会い、巨大な蜘蛛との戦い、そして——救えなかった幼い少女。
あの夜から、二日が過ぎた。
胸の奥に残った後悔は、まるで石のように重く、どれだけ眠っても痛みが和らぐことはなかった。
思い出すたび、あの小さな体の感触が、まだ冷たく指先に残っているような気がする。
(もう、二度と同じことは繰り返したくない)
そう心の底で呟きながら、レイジは薄暗い部屋の中で静かに息を吐いた。
今、彼とレイチェルはカリナの家の一室を間借りして暮らしている。
隣の簡素なベッドでは、レイチェルが小さく寝息を立てていた。
毛布から覗く顔はまだ幼く、無防備そのものだった。
安易に拾った命。その言葉の意味が、今になって重くのしかかる。
(責任を取る、なんて……簡単に言えることじゃない。この世界は、僕がいた場所よりずっと——命が軽い)
小さく首を振って、レイジはその思考を断ち切るように立ち上がった。
レイチェルの髪をそっと撫で、少しはだけたブランケットを直してやると、彼女の寝息がわずかに落ち着く。
その様子を確認してから、レイジは着替えを整え、ヘルマンとの朝の修行に出る支度を始めた。
強くならなければ。
守ると決めたのなら、なおさら。
鞄を肩に掛けたとき、布の擦れる音でレイチェルが目を覚ました。
細いまつげの隙間から、ぼんやりとした瞳がこちらを見上げる。
「ごめん、起こしちゃったね」
レイジは小声で微笑む。
「僕、ヘルマンと朝練に行くけど……レイチェルも、見に来る?」
少女は重たそうなまぶたをゆっくりと閉じ、首を横に振った。
そしてブランケットを頭までかぶると、小さな身体が再び布の中に沈み、寝息が戻ってきた。
レイジはその背中をしばらく見つめる。
カリナの家に身を寄せてから、レイチェルは一度も外へ出ようとしない。
無理もない。
家族を失い、スラムで一人さまよった末に人攫いに遭い、身売りされかけたのだ。
恐怖が染みついてもおかしくない。
だが——このままでいいのか。
外の世界には危険が満ちている。
けれど、そこにこそ本当の「自由」もあるはずだ。
守ることと、閉じ込めることは違う。
レイジの中で、その境界がゆっくりと形を取り始めていた。
(僕は……どうすれば、いいんだろう)
窓の外では、夜が明け始めていた。
淡い光が差し込み、部屋の埃を金色に照らす。
レイジは息を整え、ドアノブに手をかけた。
朝の冷気が指先に触れた瞬間、決意の輪郭がほんの少しだけ固まった気がした。
* * *
朝の光が淡く差し込む訓練場に、ヘルマンの声が響いた。
「お前、木剣はどうした?」
レイジは気まずそうに視線を逸らし、靴先で砂をこする。
もじもじと口を開きかけては閉じるその様子に、ヘルマンは苦笑を噛み殺した。
年の割にはしっかりした子だと思っていたが、こうして見ると年相応の子供でもある。
(まあ、子供が物をなくすのは珍しくもないが……ここはきちんと叱っておくべきか)
保護者として、物を大切にすることは教えておく必要がある。
そう頭の中を整理していたところで、レイジがようやく口を開いた。
「ひ、昼間外で遊んでたら、川に落としちゃって……」
声は小さく、語尾が少し下がっている。
バツの悪さが全身から伝わってきた。ヘルマンは思わず口元を緩める。
あの落ち着いた少年が、遊びに夢中になって木剣を流すとは。
意外ではあったが、少し安心もした。子供らしい無邪気さを失っていない証拠だ。
(そういえば俺も、昔は似たようなことをしたな……)
遠い記憶の中で、弟子時代の自分が、かつて木剣を折って師に叱られた日のことを思い出す。
剣は魂なのだ、剣が折れれば心が折れると。懐かしい感覚が胸の奥に広がった。
「木剣を持って遊んでいたのか? 危ないやつだな」
軽く咎めるように言うと、レイジはむっとした顔で言い返した。
「自衛だよ。アークレーンも子供にとっては危ない場所も多いんだから」
「……そりゃ、そうか」
理屈は通っている。むしろこの年で「自衛」という言葉を使うこと自体、尋常ではない。
やはりこの少年は、ただの子供ではないのだ。
「ま、それはそれで丁度いい」
「なにが丁度いいの?」
「そろそろ実戦形式に移行してもいいと思っていたところだ。今日からこれを使って訓練するぞ」
ヘルマンは腰に差していた片手剣を抜き、そのままレイジへと投げ渡した。
金属音が軽く鳴り、レイジは両手で慌てて受け止める。
その小さな腕には、剣の重みがずしりと伝わったようだった。
刃を見つめる少年の表情は、恐れと興奮が入り混じっている。
「これ、本物? 切れるよね……」
「もちろんだ。練習用の木剣とは重さが違うだろ」
ヘルマンは腕を組み、静かに語りかける。
自分がかつて教えられたように。
「刃物を扱うときは、自覚しておかなければいけないことがある。なにかわかるか?」
レイジはしばらく考え込み、少し首を傾げながら言った。
「えっと……危ない道具ってこと」
「そうだ」
ヘルマンは頷き、声の調子を落とす。
「この剣は、簡単に人の命を奪える凶器になる。でもな、俺たち騎士団はこの剣を、“命を守るため”の剣だと思っている。剣の重さってのは、命を扱う重さでもあるんだ」
その言葉に、レイジは小さく息をのんだ。少年の瞳が、ほんの少しだけ真剣さを帯びる。
ヘルマンはその変化を見逃さなかった。
かつての自分が師から教えられた言葉を、今こうして伝えることになるとは思わなかった。
(この子は、きっと理解する。自分の中で咀嚼して、いつか“誰か”へ伝えていく。そういう目をしている)
朝の光が二人の間に差し込み、淡く靄を透かしていた。
剣の刃がきらりと光り、少年の小さな手の中で、その重みだけが確かな存在として息づいている。
ヘルマンはその様子をじっと見つめていた。
恐る恐る柄を握りしめるレイジの姿に、初めて刃物を手にした日の自分を重ねる。
守るための剣。その意味を理解するには、まだ幼すぎるかもしれない——そう思いかけた時だった。
「ねえ、ヘルマンは、“守れなかった命”を経験しているの?」
ふいに投げかけられた声は、驚くほど低く、静かだった。
レイジは顔を上げ、まっすぐにヘルマンを見ている。
その眼差しには、単なる興味ではなく、どこか確信めいた色があった。
まるで、彼の過去を知っているかのように。
ヘルマンの胸の奥で、かすかな痛みが走る。
この少年があの事件のことを聞くはずがない——そう思いつつも、その問いは核心を突いていた。
イリュドの街では、飢えで命を落とす人も珍しくない。
きっと彼は、そうした現実を目にして胸を痛めたのだろう。
そう、ただそれだけのこと。自分の過去を知っているはずがない。
「……あるさ」
短く答えると、吐く息が白く朝の空に溶けていった。
記憶の底に沈めていた痛みが、言葉とともに浮かび上がる。
「だから俺は騎士になったんだ。前に言っただろ、放浪していたって。あの旅の中でな……自分がいかに無力か、嫌というほど思い知らされた。誰かを守る力が欲しかった。やりたいことを叶えるには、騎士になるしかなかったんだ」
語りながら、自分でも少し感情が混じっているのを感じた。
風の音だけが二人の間を流れる。
レイジは黙ったまま、剣の刃先を見つめている。
その瞳に映る光は揺らいでいたが、どこか大人びた陰があった。
(この歳で、もうそんな顔をするのか……)
思わず息を呑む。
ほんの一瞬、年端もいかぬ少年ではなく、何かを背負った青年のように見えた。
ヘルマンは、ほんの少し躊躇してから口を開く。
「レイジ、お前はセンスがある。将来、騎士にならないか? 十五になれば訓練院に入れる。俺がその時に官僚クラスまで昇っていれば、推薦状を書いてやる」
それは、思わず出た言葉だった。
指導者としてではなく、一人の大人として、この子に未来を示したかった。
剣を教えるだけではなく、“道”を見せてやりたい——そんな気持ちだった。
「騎士……」
レイジは小さく呟く。
その声音には、憧れでも拒絶でもない、複雑な響きが混ざっていた。
「うん、考えておくよ」
短い返答。
だがその一言の奥に、ヘルマンには迷いが見えた。
まるで何かを決めているようで、決して近づこうとはしていない。
ヘルマンは軽く頷き、少年の表情を静かに見つめ続けた。
その迷いの理由を、いつか聞ける日が来るのだろうか——そう思いながら。
朝の陽光が少しずつ強まり、二人の影が長く伸びていった。
剣の刃がその光を反射し、どこか寂しげにきらめいていた。




