幕間
イリュド南部、ミレナ地区。
王都からそう遠くもないはずなのに、ここはまるで別世界だ。
通称《不幸通り》。
その名のとおり、うっかり迷い込んだ者は身ぐるみを剥がされると噂される、ならず者の巣窟。
誰も好き好んで、こんな場所に店を構えようとは思わない。
——この店のマスターを除いて。
北部から流れてきた避難民。戦で全てを失い、手元に残ったのは酒の知識だけ。
それでも生きるため、彼は勇気を振り絞って、この通りで酒場を開いた。
いつもは酔っ払いと盗人の区別もつかない客たちが、夜を騒がしくしてくれる。
だが、今夜は違った。
店内はやけに静かで、カウンターの照明だけがぼんやりと揺れている。
理由は明白だった。
カウンターに肘をつき、不快な音を立ててナッツを咀嚼している男——騎士団の所属らしい。
どうせ職務中のサボタージュだろう。
騎士団の肩書きを盾に、何をしても許されるとでも思っている。
その態度が客足を遠ざけていることなど、本人は知る由もない。
「おいマスター、ビールのおかわりだ」
「承知しました」
表面上は穏やかに答えたものの、内心では舌打ちを飲み込む。
そんな時——。
扉が、乱暴に開かれた。
乾いた金属音が空気を裂く。
マスターの手が思わず止まる。
見覚えがあった。
あの顔、あの姿勢。
記憶の底から、ある名が浮かび上がる。
——『片手剣のバロック』。
妙に安っぽい異名だが、実力は折り紙つき。
隻眼、腰に片手剣。
その風貌だけで、いくつもの死線を越えてきたことが伝わってくる。
バロックは無言のまま、真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。
靴音が、やけに重く響いた。
距離が詰まるごとに、マスターの足が震える。
まるで獣に睨まれた小動物の気分だった。
しかし、カウンターの騎士団員は、まるで別の世界の人間のように微動だにしない。
ナッツを口に放り込み、咀嚼しながら呟く。
「遅いな」
その言葉を聞いた瞬間、マスターの心臓が跳ねた。
——自分に言ったのか?
慌ててビールを注ごうとするが、違った。
「下見は念入りにしておくのが、俺のやり方だ」
低く響く声。
バロックはまっすぐ歩を進め、騎士団員の二つ隣に腰を下ろした。
「コーヒーをくれ」
意外な注文だった。
この界隈で酒を飲まずにコーヒーを頼むなど、ほとんど聞いたことがない。
——だが、彼がそう言うなら出すしかない。
「か、かしこまりました」
マスターは騎士団員にビールを出し、震える手で豆を挽き始める。
刃の音が、やけに大きく響く。
その間にも、二人の会話が耳に入ってきた。
「対象を見つけた。……俺の獲物もな」
バロックの声は、冷たい金属のように響く。
対する騎士団員は鼻で笑った。
「自分で見つけたみたいに言ってんじゃねえよ。俺の情報提供がなきゃ、動けなかったくせによ。さあ、いつ動く? 俺はいつでも構わねえ」
マスターは息を止めた。
今の一言だけで、何か取り返しのつかない話をしていると察した。
この通りで長く生き残るコツは一つ——“聞かないこと”。
彼は心の耳を閉ざし、ただ湯の沸く音に集中する。
沈黙。
焦げる香りと、微かに混じる鉄の匂い。
コーヒーを差し出すとき、マスターは目を合わせないようにした。
目が合えば、何かを悟られてしまう気がした。
カウンターの端では、騎士団の男が下品に笑い、
割れた顎を濡らしながらビールを流し込んでいる。
——やれやれ。
ここは本当に、命の軽い街だ。




