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#032

 まもなく夜が明けようとしていた。


 街全体が朝もやに包まれ、鉄の匂いを含んだ冷たい風が頬を撫でる。


 レイジは人気のない鉄塔の足場に腰を下ろし、ただ、ぼんやりと白み始めた空を見上げていた。


 胸の奥に残るのは、うまく言葉にできない虚しさ。


 指先には、まだあの少女——リコッタの、冷たい肌の感触が残っている。


 その感触が、まるで罰のようにいつまでも離れなかった。


 一筋の涙が、無意識のうちに頬を伝う。


 何に泣いているのか、自分でもよくわからない。ただ、そうするしかなかった。


「……ここには入るなと言ったはずだが」


 風の音に混じって、よく通る声が背後から届いた。


 振り返ると、コーダが足場の上に立っていた。


 僅かな明かりに照らされたその姿は、どこか静かで、いつもの威圧感はなかった。


「コーダさん……」


 声を出した瞬間、胸の奥が詰まった。


 何を伝えたいのか、自分でもわからない。ただ、謝りたかった。


「キミは十分に役割を果たした」


 コーダはゆっくりと鉄骨を渡り、レイジの隣に立つ。


「私の指示に従い、窮地を乗り越え、結果に辿り着いた。それだけで立派なことだ」


「でも、間に合いませんでした」


 レイジは顔を伏せる。


「僕が言い訳ばかりして、行動が遅かったからかもしれない。もっと早く動けていれば、助かったかもしれないんです」


 しばしの沈黙。風が二人の間を抜けていく。


「気持ちは理解できる」


 コーダの声は、いつになく穏やかだった。


「どんなに噛み砕いても、消化できないものは残る。だが——その感覚を忘れるな。痛みを覚えてこそ、人は成長する」


 レイジは唇をかみしめる。


 コーダの言葉は慰めではなく、ただの事実として響いた。だからこそ、胸に重く刺さる。


「それに今回は、キミの失敗ではない」


 コーダは空を見上げながら言った。


「結果に対して責任を取るのが指揮官の役割だ。キミは、命令に従って戦い、果たすべきを果たした」


「……はい」


 短く答える声は、かすれていた。


 金のために戦い、誰かを救えず、何かを失った。


 その事実を受け止めるには、少年にはまだ早すぎた。


「少年、これを」


 コーダは小さな包みを差し出した。


 中にはいくつかの紙幣が入っている。


「受け取れません。僕は、失敗しました」


「違う」


 コーダはきっぱりと首を振る。


「言っただろう。結果に対して責任を取るのは私だ。お前は仕事をこなした。それだけで十分だ」


 レイジはしばらく迷い、そして黙って頷いた。


 報酬をポケットにしまいながら、喉の奥がひどく乾いているのを感じた。


「コーダさん。……お願いがあります」


「なんだ?」


「僕、子供ですけど借金の返済と二人分の生活費を稼がないといけません。僕の実力、見ましたよね。僕を——これからも使ってくれませんか」


 その言葉に、コーダの目がわずかに細まった。


 冷静に、しかしどこか寂しげに。


「今回はイレギュラーだったのだが……そういう方法も、あるかもしれんな」


 腕を組み、彼女は少年を一瞥した。


 朝もやの中で、二人の影がゆっくりと淡く溶けていった。


 夜の冷気がまだ地表に残り、鉄塔の足元では薄い霧が渦を巻いている。


「——また連絡する」


 コーダの声が、霧の向こうで静かに響いた。


 短く、明瞭で、どこか冷たくも温かいその言葉は、約束というより“命令”に近い。


 だがレイジは、その響きの中に微かな信頼の色を感じ取っていた。


「はい」


 レイジは小さくうなずく。


 返事の声は掠れていたが、確かに届いた。


 コーダがワイヤーを鉄骨に伸ばし、霧の奥へと消えていく。


 その背中を見送りながら、レイジは胸の奥に、形のない重みを感じていた。


 自分の中で何かが変わった——そう直感した。


 成り行きで掴んだ剣。


 それはただの武器ではなく、今や自分の生き方そのものを突きつけてくる。


 この世界で生きるということは、想像していたよりもずっと冷たく、残酷で、そして——現実だった。


 レイジはポケットの中の包みを握りしめ、朝もやの向こうに消えていく光を見つめる。


 その光が、まるで遠い未来のように淡く揺れていた。


 * * *


 王都騎士団本部——その最上階。


 夜明けの光が薄く差し込む廊下を、コーダは無音の足取りで進んでいた。


 磨き上げられた大理石の床に反射した、制服の裾が静かに揺れる。


 重厚な観音開きの扉の前に立つと、彼女は一瞬だけ呼吸を整え、片手でその扉を押し開けた。


「戻ったぞ」


 感情の起伏を感じさせない、乾いた声。


 報告というより、ただの事実の宣言だった。


「コーダ。入るときはノックをしなさい。僕がもし中で着替えていたらどうするつもりだ」


 白髪の初老の男性がデスクから顔を上げる。


 仕立ての良い制服に身を包み、薄い笑みを浮かべたその男の瞳には、常人とは異なる光が宿っていた。


「どうもしない。興味もないな。……これを」


 コーダは淡々と答え、懐から一束の紙を差し出す。


 男はそれを受け取り、指先で軽く弾くようにページをめくった。


 《被験体No.3——感情の誘発実験結果》


 数秒の沈黙の後、男の口角がにやりと吊り上がった。


「……素晴らしい。涙を、か。目の前で“死”を体験し、やりきれぬ感情を味わったわけだ」


 両手を広げ、紙束を空へ放る。


 報告書の白い紙片が舞い、窓から射す光を受けて一瞬だけ輝く。


 そして男は、狂気を孕んだ笑い声を上げた。


 その響きが、静まり返った室内を不快に震わせる。


「仕事は終えた。私は通常任務に戻る」


 コーダは踵を返しながら、冷ややかに言い放つ。


 男はその背中に声を投げかけた。


「待て、待て。どうやってこの“シナリオ”を描いたのだ?」


「簡単だ。少年を鉄塔から落として関係を作り、糸で傀儡を操った。——ただそれだけだ。悲劇の脚本なんて、演じる者がいれば簡単に成り立つ」


「偽りの心の傷……いいじゃないか。人の感情など、いくらでも歪められる。今後も定期的に頼むぞ」


「ああ。私にとっても、使い勝手のいい駒が手に入った。存分に利用させてもらう」


「構わないさ」


 男は満足げに笑う。


 コーダは再び重厚な扉へ歩み寄り、無駄な視線も残さず取っ手を引いた。


 金属が軋む音が室内に響く。


 外へと出る刹那——背後から、囁くような声が追いかけてきた。


「ああ、早く会いたいよ。……僕のレイジ」


 コーダの眉が、わずかに動いた。


 それでも振り返らない。


 心の奥に冷たい波が一瞬だけ広がり、すぐに沈んでいく。


 ——相変わらず、気色の悪い奴だ。


 彼女はその言葉を胸の内で吐き捨て、静かに扉を閉じた。

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