#031
意識が遠のいていく。
冷たい感覚が足先から這い上がり、音も光も、世界そのものが遠ざかっていくようだった。
――次の瞬間、瞼の裏がふっと明るくなる。
気づけば、あたりは白一色の空間。
上下の感覚もなく、まるで現実から切り離されたような静寂に包まれていた。
「……どこだ、ここ……?」
声が妙にくぐもって聞こえる。
ふと前方に、何かが立っているのが見えた。人影だ。
その姿を見た瞬間、レイジの呼吸が止まる。
「どうなってるんだ……目の前に……僕?」
そこに立っていたのは、自分自身――少年の姿をした“レイジ”だった。
輪郭は淡く揺らぎ、まるでこの白い空間そのものに溶けていくように見える。
幻なのか、記憶なのか、それとも――。
声をかけようとした瞬間、もう一人のレイジが唇を動かした。
「……エディアナナイシュ」
なにを言っているのか、理解できない。掠れた声だった。
その言葉とともに、幻影は左手をゆっくりと持ち上げ、レイジの方を指さす。
目線より少し下――腹のあたり。
嫌な予感がして、レイジはおそるおそる視線を落とした。
白い服の腹部には、ぽっかりと、拳よりも大きな穴が開いていた。
「――うわあああああああ!」
叫びが反響し、白い世界がひび割れる。
視界が一瞬で崩れ落ち、再び闇が押し寄せた。
* * *
全身に悪寒が走り、現実の光景が一気に押し寄せてきた。
息を吸うたびに肺が焼けるように痛い。
ぼやけた視界の先――巨大な蜘蛛が、まるで獲物の息を確かめるかのように、低く身を沈めてこちらを伺っている。
レイジは反射的に腹部へ視線を落とした。
シャツの中央に、ぽっかりと不自然な穴。
けれど皮膚は裂けておらず、白い肌がそのまま残っている。
痛みも、血も、ない。
――妄想か? それとも、現実……?
判断がつかない。頭の中がぐらぐらと揺れる。
だが、いまは思考よりも、生き延びることが先だった。
足元に落ちたナイフが、月光を反射して光った。
レイジはその輝きに導かれるように手を伸ばし、最小限の動作で拾い上げる。
指先が震えている。けれど、足はもう勝手に動いていた。
(とにかく、この大蜘蛛を倒して――令嬢を解放しないと)
地を蹴り、低く滑り込む。
スライディングで蜘蛛の足元に潜り込み、すれ違いざまに衝撃波を叩き込んだ。
刃の軌跡が光の帯となって走り、二本の脚を一瞬で切断する。
甲高い金属音のような悲鳴。
ぐらりと体勢を崩した蜘蛛は、レイジの動きを捉えられずにいる。
押している――そう感じた。
肺が焼けても、心臓が軋んでも、足は止まらない。
脳裏に、かつて見た師・ヘルマンの姿がよぎる。
正確で、無駄がなく、何より速い剣筋。
レイジはその動きを、頭の中でなぞりながら再現していた。
(ヘルマンなら……もっと速く、強く、確実に急所を狙う)
自分の中に渦巻く恐怖と痛みを押し殺し、レイジは歯を食いしばって再び踏み込んだ。
筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼けるように熱い。それでも止まるわけにはいかない。
「うおおおおおっ!」
叫びとともに、全身の魔力を刃に流し込む。
刃の先端から放たれる魔圧撃は、空気を裂きながら連続して飛び出した。
十発、二十発。数を数える余裕もなく、ただ反射で放ち続ける。
飛び交う斬撃が、巨体の大蜘蛛を細かく切り刻んでいく。
闇の中で、血と体液が舞い、月光を受けて淡く輝いた。
一拍――。
呼吸が途切れた。
力を使い果たしたのか、膝がわずかに揺れる。
魔力の残量などわからない。ただ、全身が鉛のように重い。
気づけば、目の前の大蜘蛛はもう動かなかった。
床に散らばるのは、まだ温かい肉片と、黒い液体の水たまり。
鼓膜が痛むほどの静寂が訪れた。
レイジは深く息を吐き、慎重にあたりを見渡す。
五秒……いや、もっと長く感じたかもしれない。
次の目的地を定めるように、ゆっくりとステージの袖へと足を進めた。
高い天井からは、まるで漁網のように蜘蛛の巣が幾重にも垂れ下がっている。
そのうちいくつかは、重さに耐えきれずレイジの目線の高さまで降りてきて、ゆらゆらと揺れていた。
月明かりが反射し、糸が銀色に輝く。
そして――その一つに、彼は気づいた。
糸の繭の中に包まれた、小さな人影。
かすかに見える金髪と、幼い輪郭。
(……子供? まさか、本当に令嬢か)
胸の奥がざわつく。
レイジはナイフを構え直し、刃先に魔力を集中させた。
軽く振り抜くと、見えない斬撃が空を走り、天井から伸びる太い糸を一瞬で断ち切る。
ふわりと、白い繭が落ちた。
レイジは両腕を伸ばしてそれを受け止める。
衝撃とともに繭が弾け、中から少女が転がり出た。
軽い。あまりにも軽すぎる。
腕の中で動かない少女を見下ろした瞬間、レイジの喉が凍りついた。
――呼吸を、していない。
胸が静まり返っている。
レイジは思わず息を呑み、心臓の鼓動が一瞬遅れて打った。
戦いの余韻が一気に吹き飛び、代わりに冷たい焦りが全身を満たしていく。
(嘘だろ……まだ、間に合う……はずだ)
レイジは震える指先で少女の頬に触れた。
冷たい。まるで、何時間も前に凍りついたような体温だった。
そこには、生命の気配というものが、まったく感じられなかった。
喉がひとりでに鳴る。何か言葉を発しようとしたが、声にならない。
ただ静寂だけが、広いホールに満ちていた。
――その沈黙を、ワイヤーが切り裂いた。
滑車が擦れる金属音が上空から響き、レイジは顔を上げる。
次の瞬間、コーダが月明かりを背にして舞い降りた。
着地の衝撃を殺しながら、そのまま息ひとつ乱さず状況を把握する。
「……少年、状況を説明しろ」
その声音は冷たく、感情を削ぎ落とした指揮官のそれだった。
レイジは震える喉を押さえ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「蜘蛛は倒しました……コーダさんの探していた令嬢、リコッタ・グランハイドはこの子ですか」
言葉に抑揚はなかった。報告というより、確認に近い。
しかし、返答はなかった。
コーダはほんの数秒、少女の顔を見下ろしたまま沈黙する。
それだけで、レイジはすべてを理解した。
「……そうか」
息をひとつ吐くと、コーダはいつもの無表情に戻る。
「残りの網も落としてもらえるか」
レイジは腕の中の少女を、ゆっくりと床に寝かせた。
あまりにも軽く、まるで中身のない人形のようだと思ってしまい、胸が締めつけられる。
「……了解です」
短く答えると、レイジはナイフを構え、天井に視線を移す。
魔力を刃に込め、先ほどと同じ要領で斬撃を放った。
糸が次々と切れ、ぶら下がっていた白い繭が落ちていく。
だが、床に転がる音はあまりにも軽かった。
それは、魂のこもった肉体が持つ“重み”の音ではない。
乾いた、空洞を叩くような音。
レイジは目を伏せた。
何も言葉が浮かばない。
背後で、コーダが通信機を取り出し、低い声で誰かと話しているのが聞こえた。
短く、正確な報告。感情の欠片もない。
「部下を招集した。まもなく騎士団が到着する。キミは一旦ここを離れろ」
言葉を切ったあと、少し間を置いてから、彼女は静かに言葉を足した。
「……ご苦労だった」
レイジは顔を上げることもできず、「わかりました」とだけ呟いた。
その声は、掠れていた。
講堂を出る足取りは重く、床に残る水の音が、妙に耳についた。
扉を開けた瞬間、冷たい夜風が頬を撫でる。
けれど、その風さえも、今の彼には何も感じさせなかった。




