#029
コーダが細い糸を手繰り、レイジはその横で歩幅を合わせながら、深夜の路地を進んでいた。
人気のない通りには霧がかかり、靴音だけが石畳を打って響く。
「それ、絡まったりしないんですか?」
何気ない疑問だった。
だが、よく考えればその糸は、縦横無尽に走り回る標的を正確に追跡している。
普通の道具でそんなことができるはずがなく、もはやチートじみた精度だ。とレイジは内心で苦笑した。
「ないな。切れることもなければ、絡まることもない。私の意思で自由自在だ」
コーダの声は自信に満ちているというより、当たり前のことを淡々と述べているようだった。
「便利なんですね。流石、魔力操作のプロフェッショナル」
「キミも鍛えればこれくらいのこと、すぐにできるようになる。その歳で魔圧撃が使えるのだから」
その褒め言葉に、レイジは少し居心地が悪そうに頬をかいた。
「あんまり修行とかは得意じゃないんですよね。剣の師匠がいるんですけど、めっちゃ強くて毎日ボコボコですよ」
苦笑混じりの言葉に、コーダはふと目を細めた。
それは懐かしい記憶を思い出すような表情。やがて、わずかに口元が緩む。
「いい師を持ったな」
それだけ言うと、糸を引く手が止まった。
「……そろそろ近いな」
レイジが顔を上げると、路地の先にひときわ大きな建物が見えた。
外壁は蔦に覆われ、窓ガラスはあちこち割れている。
まるで長い間、誰にも使われていない古い講堂だった。
「あの中でしょうか?」
「糸は中まで続いているな」
コーダの声が静かに響いた。
夜風がわずかに揺らぎ、講堂の影が不気味に歪む。
レイジはごくりと唾を飲み込み、その古びた建物を見上げた。
屋根の隙間から吹き込む風が、低くうなるような音を立てる。
嫌な予感が、肌の奥で小さくざわついた。
胸の奥に沈んだ直感が告げている――中には、何かがいる。
「中に奴がいるとして、どうするんですか? また逃げられるかもしれません」
自分でもわかっていた。怖気づいているわけではない。
ただ、状況を確認しておきたかった。
だが、コーダは一瞥もくれず、淡々とした声で返す。
「次は捕捉するさ。始める前から弱気になるな」
その声音には一切の迷いがなかった。
まるで結果はすでに決まっているかのように。
「行動に移す前に、まず成功のイメージをしろ。そうすればおのずとそのイメージに沿って身体は動くものだ。……これを」
そう言って、コーダは腰から小さなナイフを取り出した。
革のケースに収められたそれは、装飾の施された柄を持ち、夜目にもわかるほど洗練されている。
レイジは受け取る手を一瞬ためらった。
「……これで戦えと? こんな小さいの扱ったことないんですけど」
言い訳めいた声を口にした瞬間、コーダの冷たい視線が突き刺さった。
その無言の圧に、レイジは思わず口をつぐむ。
この状況で“武器がある”というだけでも、ありがたいことだと分かっている。
「無くすなよ。今貸してやるだけだ」
「わかりましたよ。やればいいんでしょ」
渋々言い返しながら、革のケースを外し、ナイフを引き抜いた。
刃は短いが、手にした瞬間にわかる。
これは飾りではない。重みも、冷たさも、確かに“命を奪う道具”だ。
レイジは深く息を吸い、逆手に持ち替えて構えた。
コーダが何も言わず、ただ視線だけを講堂の入り口へと向ける。
――行け。
その無言の指示を、レイジは痛いほど感じ取った。
仕方ない、と小さく息を吐く。
そして足を一歩、講堂の暗闇へと踏み入れた。
木の扉が軋む音が、夜の静寂を裂いた。
中はひどく冷えていた。
空気が淀み、古い木材と湿気が混ざった匂いが鼻をつく。
もちろん電気など通っていない。
明かりはなく、月の光だけが入口付近をわずかに照らしていた。
数歩進むだけで、その光は背後に置き去りとなり、世界は闇へと沈む。
足元を探るように歩くたび、靴底が古い床板を軋ませた。
視界の端に、白く光る糸が見えた。蜘蛛の巣だ。
無数の巣が天井から垂れ下がり、まるで薄い幕のように空間を覆っている。
虫の死骸がいくつも絡まっているのが見え、思わず息をひそめた。
数歩進むと、足先に冷たい感触が伝わってくる。
見下ろすと、床に水が溜まっていた。
反射する月明かりが揺れ、濁った光を散らした。
靴が一センチほど沈み、波紋が広がる。
静かな講堂に、わずかな水音が不気味に響き渡った。
(この先に……やつがいるのか?)
胸の奥で鼓動が速まる。
息を潜め、壁伝いに歩を進める。
指先が触れる石壁は、長い年月の湿気でひんやりと濡れていた。
やがて、視界の先に重厚な観音扉が現れた。
講堂という構造上、この先は大ホールへと続いているのだろう。
レイジは喉を鳴らし、扉の前に立った。
息を整え、両手を押し当てる。
――ギィ、と鈍い音を立てながら、扉が少しずつ開いていく。
隙間から月明かりが漏れた。
天井の一部が崩落しており、外の光がそのまま差し込んでいる。
崩れた瓦礫と木片が散乱する中央――そこに、黒衣の影が立っていた。
黒衣の男。
まるでレイジがここに来ることを知っていたかのように、男はホールの中央に佇んでいた。
ゆっくりと顔を上げたその瞳に、言葉を超えた敵意が宿っている。
——来る。
男がマントを翻した。
次の瞬間、月光を反射して銀の大剣が抜かれる。
空気が一気に張り詰めた。
床を蹴る音が、爆ぜるように響く。
一瞬で距離を詰められた。視界が揺れる。
「くっ——!」
咄嗟にナイフを構え、振り下ろされた剣を受ける。
衝撃が腕を痺れさせた。
力任せの剣撃はナイフでは受け止めきれず、辛うじて剣筋を逸らすのが精一杯だった。
そのまま反撃に転じる。
刃に魔力を流し込み、細かく、鋭い衝撃波を放つ。
ナイフゆえにリーチはないが、代わりに動きは速い。
切り返しの速さで勝負するしかない。
短い刃を握りしめながら、レイジは歯を食いしばった。
ここで退けば終わる。
コーダの言葉が頭をよぎる――“成功をイメージしろ”。
ならば、勝つしかない。




