#027
令嬢が姿を消した大通りから一本外れた細い路地。
石畳はところどころ割れ、灯りもほとんど届かない。
かすかに湿った風が鼻を刺す。酒、油、そして人の怯えが混ざったような、嫌な匂いが漂っていた。
この辺りに足を踏み入れると、空気そのものが変わる。
笑い声も、馬車の音も遠くに霞んで、聞こえるのは足音と、自分の呼吸だけだった。
(……まあ、治安のいい場所ではないよな)
胸の奥で小さな不安が膨らむ。
それでも、どこかでコーダが見ているという確信が、ぎりぎりの心の支えになっていた。
いざというときは、あの人がすぐに飛んでくる——そんな予感があるだけで、ほんの少しだけ勇気が出る。
レイジは通りすがりの人影に声をかけた。
「すみません、少しお聞きしたいんですが——」
しかし、振り向いた相手は怪訝な表情を浮かべ、足早に去っていく。
二人、三人と続けて声をかけても、結果は同じだった。
(……ダメか)
思い返せば、初めてこの街で聞き込みをしたとき——火事現場を探していた、あの黄昏時はまだ運が良かったのかもしれない。
今は夜。しかも、子供の姿をした自分が「人を探している」と言っても、警戒されるのがオチだ。
ため息を吐き、レイジは踵を返して大通りに戻った。
そのとき、頭上の闇を裂くように、細い音が響く。
見上げれば、月明かりを背にコーダが民家の屋根からワイヤーを滑らせて降りてきた。
銀髪が風を切り、地面に着地するまでの一連の動作は、まるで訓練された獣のようだった。
「少年、どうした?」
コーダの声には、咎めるよりも呆れが混ざっている。
レイジは頭をかきながら、正直に打ち明けた。
「よく考えたら、深夜に子供が“人を探してる”って声かけてたら、怖いですよね。避けられてる気がします」
「言い訳をするな」
淡々とした一言。だがその後、少し間を置いてコーダは言葉を続けた。
「……とはいえ、聞き込み手段に工夫は必要だろうな」
そう言って、彼女は胸ポケットから例の紙ナプキンを取り出す。
白地に走る、あの“芸術的”な線画。
「ええ……余計わからなくなりますよ?」
「いいからこれで聞き込みしてみるといい」
レイジは渋い顔でそれを受け取った。
指先に触れた紙は、まだ温かかった。
彼女がさっきまでそれを握っていた温度が残っている。
「了解です……けど、絶対逆効果ですよ」
わざとらしくため息を吐き、肩をすくめる。
そして、紙ナプキンをポケットにねじ込み、再び暗い路地へと足を踏み入れた。
背後で、コーダの視線がわずかに動いた気がした。
レイジは振り向かずに呟く。
(ほんと、指揮官ってのは人使いが荒いな……)
のそのそと裏通りに戻ると、さっきよりも人の気配が薄れていた。
通りの端では、酔い潰れた男が路上に転がり、別の影が薄めた酒をすすっている。
生きているのか死んでいるのかも判別がつかない——そんな光景が、夜の冷気とともに肌を刺した。
(……これじゃ、聞き込みどころじゃないな)
レイジは苦笑まじりに息を吐き、さらに奥へと足を進めた。
路地の突き当たり、小さな川を跨ぐ石橋が見える。
月明かりに濡れた石畳が白く光り、その中腹に、人影が一つ座っていた。
川面を見下ろすような姿勢。
全身を包んだマントで詳細は見えないが、男だ。
大柄で、酔っているような様子もない。
(……聞いてみるしかないか)
レイジは慎重に距離を詰めた。
靴音が水音にかき消される。
その静寂の中で、喉が乾くような感覚を覚えながら、声を絞り出した。
「すみません、つかぬことをお伺いしますが——”この少女”を探してるんです。見かけたり、何かご存知じゃないですか?」
紙ナプキンを差し出す。
男の視線が、わずかに動いた。
レイジの顔と、ナプキン。
その“往復”はほんの一瞬。だが、次の瞬間には空気が変わった。
風が止み、世界が張りつめる。
男の体が、爆ぜたように動いた。
腰を上げるより早く、片足がレイジの腹部を捉える。
「——っ!?」
視界がぐるりと反転する。
気づけば、夜空が見えた。
蹴りの衝撃で体が宙を舞い、地面に叩きつけられる直前で、反射的に受け身を取る。
着地と同時に、木剣を抜いて構えた。
呼吸よりも早く、訓練された動きが体を走る。
(なにが起こった⁉ あの絵で……? まさか、手がかりを掴んだとか、そんなオチじゃないよな⁉)
皮肉にも、あのナプキンを見た直後に襲撃されたのだ。
息を整える間もなく、敵はもう動いていた。
男はレイジに背を向け、橋の対岸へ走り出している。
橋桁を蹴り、信じられない速度で距離を取っていく。
「逃がすか——!」
木剣を両手で構え、魔力を一点に集中させる。
血管を走る熱が、剣の先端へと収束するのを感じた。
「——魔圧撃!」
振り抜いた瞬間、空気が爆ぜた。
剣先から放たれた青白い衝撃が一直線に伸び、夜の静寂を裂いていく。
石畳の上を滑るように走った光が、駆ける男の背へと迫る。
だが、男の動きは速かった。
背後に殺気を感じたのか、足を止めて踵を返す。
マントの裾が大きく翻り、その内側から金属の光が覗いた。
次の瞬間、そこから“ぬるり”と剣の柄が現れた。
人間が携行できるとは思えないほどの厚みと長さを持つ大剣が、闇を裂いて姿を現す。
(どうなってんだよ、あのマント……異空間収納でもしてるのか?)
心の中でツッコミを入れながらも、レイジの体はもう次の動きに備えていた。
男が腰をひねり、唸るように大剣を一閃。
——衝撃波が弾かれた。
レイジの放った魔圧撃が、あっさりと大剣に弾かれて跳ね返ってくる。
空気がうねり、音が遅れて鼓膜を叩く。
「うそだろっ⁉」
反射的に身を低くし、石畳を転がる。
直後、さっきまで立っていた場所に青白い衝撃が炸裂した。
地面が抉れ、破片が顔に当たる。
(コーダさん……どこ見てるんだよ! 戦闘始まってるんですけど!?)
周囲を探るが、彼女の姿はない。
——やはり、指揮官は“見る側”なのだ。
現場の泥は、兵がかぶる。
レイジが木剣を構え直すと、男が踏み込んできた。
石畳が割れるほどの踏み込み。
その勢いのまま、巨大な剣が振り上げられる。
息を飲む暇もなく、剣が落ちる。
レイジは木剣を交差させて受けた。
腕に伝わる衝撃が骨を震わせる。
「ぐっ——!」
だが、刃の質量が違いすぎた。
金属と木が噛み合う鈍い音のあと、木剣が悲鳴を上げる。
——バキン、と乾いた音。
レイジの手の中で、木剣はあっけなく真っ二つに折れた。
破片が宙を舞い、夜気の中でひらひらと落ちる。
男の影がその背後に立ちはだかる。
(マズい……! 武器がない!)
喉の奥が乾く。
それでも、目だけは死んでいなかった。
レイジは残った木の柄を握り直し、わずかに体を沈めた。
次の一撃が、いつ来ても対応できるように。




