#026
レイジは両手でカップを包み込み、ゆっくりと口をつけた。
焙煎された豆の香りがふわりと鼻腔を抜ける。
暖かさが手先に伝わり、夜の冷えがふっと和らいだ気がした。
コーダは無造作にテーブル隅のシュガーポットを手に取り、小さなトングで一粒、カップに砂糖を落とす。音もなく静かな所作だが、どこか几帳面さが滲む。
「次のターンだが、やはりキミの言った通り、誘拐や何かしらの事件に巻き込まれた線へ本格的にシフトしよう」
コーダは手元のナプキンへ簡単に周辺の地図を書き込むと、指で辿りながら続ける。
トングが再び動き、砂糖がひとつ、またひとつと落ちていく。
「例えば、この近辺で最近動いている組織や危険人物はいるか?」
問いかけと同時に、コーダはカップにもう一つの砂糖を加えた。
レイジは考え込み、素直に口を開く。
「そうですね……思いつくのは、『片手剣のバロック』っていうやつです。この辺りで注意人物として噂になってて、騎士団も警戒しているらしいです。実は僕の家族も別件で人攫いに捕まったことがあって……この辺、栄えてますけど危ないと思います」
バロック――その名はレイジの頭にも引っかかっていた。
鋭い噂話の断片、街角で交わされる小声。
コーダは紙ナプキンに短くメモを走らせる。
「なるほど、『片手剣のバロック』……人攫い、か」
コーダは呟くように言い、また砂糖を一つ加える。慎重な調整だ。
「聞き込みは、しているんですか?」
「もちろん部下を手配して動いている。しかし、ここ(イリュド)での聞き込みは難しい」
その言葉を聞き、レイジの脳裏に病院で目覚めた初日の光景が浮かぶ。
焼けた孤児院の場所を問えば無視され、冷たい視線が返ってきたあの記憶だ。
誰も信用してくれないという現実が、胸の奥にざわりとした感触を残す。
「だいたい読めました。つまり、現地人の僕に聞き込みさせると」
自分の立場を逆手に取る形で、レイジは言った。
コーダは短く笑みを漏らした。
「賢くて助かる。騎士団が声をかければ皆、警戒して口を閉ざす。まさにキミにしかできない仕事だ。キミの目線で街を歩けば、見えないものが見えてくる」
その言葉に、レイジの胸の鼓動が少しだけ早くなる。
役割が与えられた実感。怖さと、どこかで小さな誇りが混じる。
コーダは最後に一粒、砂糖を加えた。
カップの中で五つめの白い粒が溶け始める。
レイジは呆れ顔で呟く。
「って、一体何個砂糖入れるんですか」
コーダは無表情のまま答えた。
「愚かだな。たくさん入れないと、苦いだろう」
その一言に、レイジは思わず小さく笑ってしまった。
深刻な計画と、夜の喫茶店のほんのりした甘さ。
二つの温度が混ざり合い、彼は覚悟を新たにカップを手に取った。
* * *
二人は喫茶店を出て、アークレーンの街を歩いていた。
街灯がぼんやりと石畳を照らし、湿った夜気の中で靴音だけが響く。
騎士団本部から少し離れたこの地区は、人通りも少なく、どこか陰のある静けさを纏っていた。
「リコッタ嬢を見失ったポイントまで移動してきたわけだが——」
コーダが立ち止まり、周囲を一瞥する。
その視線の鋭さに、レイジは思わず息を飲んだ。
彼女は夜の街を“現場”として見ている。
雑踏も、灯りも、全部を情報として計算しているようだった。
「さて、周辺でキミはこの似顔絵をもとに聞き込みをする。強引に連れ去っていれば、騒ぎになっているはずだ」
差し出された紙ナプキンには、あの独特すぎる筆跡で描かれた人物画。
……いや、人物と言っていいのかすら怪しい。
レイジは鼻の付け根にしわを寄せ、そっと紙を押し返した。
「似顔絵は結構です。だいたいの見た目を教えていただければ……」
「なぜだ? 似顔絵がある方が効率がいいだろう」
(いや、むしろ逆だよ……)
あの絵を見せたら、困惑される未来しか見えない。
「芸術的すぎて一般人には理解できませんよ。髪の色と背丈を教えてください」
「そうなのか……。ブロンドヘアーで、身長は君より少し低いかな。レイジ少年、これを」
コーダが懐から取り出したのは、小さな金属製の器具だった。
レイジはそれを受け取り、しげしげと眺める。形状がどこかヘッドセットを思わせた。
曖昧な記憶の奥で、騎士団員たちが似たものを装着していた映像がかすめる。
「なんです? これは」
「魔導式の通信装置だ。騎士団では任務中の指示や連携に使用している」
言われるままに装着してみると、ひやりとした感触がこめかみに伝わる。
体内で何かが反応した気がしたが、しかしそれだけだった。
「これでいいんでしょうか?」
「それでいい。魔力に反応して特定の相手に念を飛ばすんだ」
「……で、どうやって使うんでしょう?」
「装着しているだけで使えるはずだが?」
「何も聞こえないんですけど」
「おかしいな。君の声も聞こえない」
「便利そうなのに、故障でしょうか?」
互いに首を傾げたまま、微妙な沈黙が落ちる。
せっかくのハイテク機器も、動かなければただの金属だ。
「仕方ない。私は少し遠くからキミを見ておくから、何か情報があれば合図をしてくれ」
レイジは苦笑しつつ、通信装置を外してコーダに返した。
魔導式だろうが最新型だろうが、結局は使う人間次第——そう心の中で呟く。
彼の視線の先では、街灯の下でコーダの銀髪がほのかに光っていた。
その背を見送りながら、レイジは息を整える。
——ここからが本番だ。自分の足で情報を掴まなければ。




