03:『捨て猫を拾うときは最後まで責任を持て』
肩で息をするほど呼吸が荒くなる。
実戦でここまで息を切らすのは、いったい何年ぶりだろうか。
剣士ヘルマンは血に濡れた片手剣を軽く振り払うと、腰の鞘へ静かに納めた。
視線は斬り裂かれた魔獣の肉片へ向かう。
痙攣もない。完全に沈黙していた。周囲の気配を探るが、追撃の兆しもない。
これで安全は確保されたと見てよいだろう。
しかし、安堵の直後に胸中へ冷や汗が流れ込む。
先ほどの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
夕暮れ時から妙に後をつけてきた少年――その少年が、今しがた魔獣に向かって放ったのは紛れもなく《魔圧撃》だった。
規模こそ拙い。
だが、飛ぶ斬撃の軌跡は見間違えようがない。
《応魔七式》のひとつ、熟練の騎士ですら習得に年月を要する上級技。
あれを、あの歳の子供が?
「坊主、ケガはないか」
尻もちをついたままの少年に右手を差し伸べる。
だが少年はそっとその手を押し返し、自力で立ち上がった。
その仕草に一瞬むっとするも、ふと痛みに顔をしかめた。
忘れていた――自分の右腕は魔獣の牙に抉られ、咬合痕が生々しく残っていたのだ。
「それはこっちの台詞。おっちゃんこそ、大丈夫? 僕、病院に知り合いがいるから、治療した方がいいんじゃない?」
思わず苦笑が漏れる。怪我人を気遣う立場が逆転している。
だが、今は腕よりも確かめるべきことがある。
「ああ、そうだな……だがそれより、お前。どこで《魔圧撃》を?」
「なにそれ」
瞬間、背筋に戦慄が走った。
驚愕。あの斬撃は偶然ではない。
だが少年の言葉に嘘は感じられない。
まるで呼吸するように――意識もせず、《応魔七式》を放ったというのか。
あり得ない。
常識では説明できぬ現象を前に、ヘルマンの胸はざわめきを抑えきれなかった。
* * *
少年に案内された病院は、騎士団とも連携している医院だった。
設備や腕は確かだが、院長の性格だけが少々難あり――それもまたヘルマンにとっては慣れたものだ。
それよりも、扉を開けた瞬間に聞こえた声が胸を刺した。
「ヘルマン!? ひどい怪我じゃないの。いったい何があったの?」
駆け寄ってきた女性は、カリナ。
彼にとって内縁の妻とも呼べる存在だ。
どうやら少年が言っていた「知り合い」とは彼女のことだったらしい。
心配そうに眉を寄せる彼女の姿に、言い訳の一つもできず、ヘルマンは苦笑をこぼして処置室へと押し込まれた。
応急処置を終え、包帯を巻かれた右腕をさすりながら廊下に戻る。
待合のソファには、例の少年が足を投げ出して寝そべっていた。
退屈を持て余したような態度だが、目を閉じきれず何度も廊下の方を気にしていたのを、ヘルマンは見逃さなかった。――待っていてくれたのだろう。
「大丈夫? 結構ひどい怪我だったけど」
少年が軽く顔を上げて声をかける。
「大人をなめんなよ。唾つけてりゃ治る」
わざと大げさに笑ってみせた。
だが包帯の隙間から血がじわりとにじみ出ている。
プライドが、無理にでも強がらせた。
「そっか、頑丈そうな身体は伊達じゃないね」
「――改めて礼を言う」
ヘルマンは姿勢を正し、真剣な眼差しを向ける。
「そんな。よくわからないまま動いただけだよ」
「お前が声をかけてくれなければ、この腕の代わりに首を抉られていた。本当に助かった。名前は?」
「……レイジっていうみたい。おっちゃんは?」
「ヘルマン・クロス。騎士団の小隊長だ」
自分の名と立場を口にした瞬間、改めて実感する。
目の前の少年は、偶然ではなく確かな力を持っている――それも、国家にとって計り知れないほどの力を。
「ねえ。えっと、ヘルマン。関わったついででなんなんだけど、僕この街のこととか色々知りたいんだよね。よかったら教えてくれない?」
少年の提案は、ヘルマンにとっても都合がよかった。
この少年――レイジと腰を据えて話してみたい。そう思っていた矢先だった。
病院の裏手には、花壇の手入れも行き届いた庭が広がっている。
夜気に晒されたベンチに並んで腰掛けると、隣で空を仰ぐ少年の横顔が目に映った。
年相応に見える仕草と、時折垣間見せる大人びた言葉遣い。
その不思議な落差が、ヘルマンの関心をさらに引き寄せていた。
「レイジと言ったな。さっきの話に戻るが――お前、《魔圧撃〈マナスティル〉》をどこで教わった?」
「僕、そんなの教わったことないよ」
即答。
悪びれる様子もなく、心底不思議そうに首を傾げる少年に、ヘルマンは眉を寄せた。
ならば試すしかない。
ぎこちなく左手に片手剣を握り直すと、正面に立つ大木めがけて大振りを放つ。
刃先から奔った衝撃波が、鋭い音を立てて幹を抉った。
「これが《魔圧撃〈マナスティル〉》だ。……あの時みたいに、やってみろ」
片手剣を差し出すと、レイジは両手で受け取り、どうにか剣を構えた。
姿勢は覚束ない。足運びもめちゃくちゃだ。だが――
「えいっ!」
無造作に振り抜かれた刃先から、小さな衝撃波が飛び、大木の梢を切り落とした。
葉の塊がはらはらと舞い落ちる光景に、ヘルマンの呼吸が止まる。
あれは間違いなく《魔圧撃》。
規模こそ小さいが、原理を理解していなければ不可能な技だ。
なのに、目の前の少年は平然と、まるで当たり前のようにやってのけた。
「……お前、剣を握って何年だ?」
声が自然と低くなる。
「うーんと、十五秒くらいかな」
あまりに無邪気な答えに、ヘルマンは言葉を失った。
冗談や嘘を言っている目ではない。少年の瞳は澄み切っていて、そこに曇りはなかった。
——だからこそ、危うい。
その純粋さは、正しい導きを得れば英雄に化けるが、一歩でも踏み外せば破滅の道へと転がり落ちるだろう。
才能と狂気は紙一重。その両極を、ヘルマンはかつて幾度となく目にしてきた。
「そうか。……剣を握ったことはないってことでいいな?」
「その解釈で概ね間違ってないかな」
無邪気に返す声が、逆に背筋を冷やす。
ヘルマンは確信した。
この少年を放っておくことはできない。
導く者を誤れば、国を揺るがす厄災となる可能性すらある。
だからこそ、自分が正しい道へ導かねばならない——そう強く心に刻んだ。
そのとき、不意に脳裏をよぎったのは、まだ顔すら知らぬ己の息子の面影だった。
錯覚にすぎないはずなのに、目の前の少年が不思議と重なって見えた。
「お前、あの焼けた孤児院に住んでいたと言ったか?」
「そうみたいなんだよね。燃えちゃったし、僕も困ってて」
思いのほか淡々と語る声に、胸が締めつけられる。
「……これは提案なんだが、俺の元で剣を覚えてみないか。お前が知りたい情報も、俺が知っている範囲なら教えてやろう。子供が一人で生きていくには、大人の助力が必要だろう」
少年は一拍置いて、目を輝かせた。
その返事にヘルマンは、胸の奥で小さく嘆息する。
我ながら安易な判断だったかもしれない。
まるで捨て猫を拾うようなものだ。
だが——拾った以上は、最後まで責任を持たねばならない。
そう自らに言い聞かせ、ヘルマンは少年を見据えた。