#025
「レイジ少年、それではよろしく頼む」
差し出されたコーダの右手を、レイジは少し戸惑いながら見つめた。
線の細い整った手。握り返すと、思っていたよりずっと冷たかった。
——秋空の下だ。いや、きっとこの人は根っからの冷え性なのだろう。
そんなどうでもいい推測で、緊張を紛らわせる。
「とりあえず、下に降りませんか? ここじゃ風が強いし、動けませんし」
「それもそうだな。情報の共有もしておきたい。では場所を移すとしようか」
言うが早いか、コーダは袖からワイヤーを飛ばして骨組みに固定すると、そのままレイジの身体をひょいと抱き上げる。
不意のことに、レイジの声が裏返った。
「え、な、何するんですかっ——」
次の瞬間、視界が一気に傾く。
鉄塔の上から、夜空と街の灯がぐるりと反転した。
胃がふわりと浮く感覚。風が耳を裂く。
——デジャブだ。
つい先ほど、似たような落下を経験したばかりなのに、今度は自分から飛び込んでいるという事実が笑えない。
それでも隣のコーダは、まるで夜風に身を任せるように静かだった。
この高さでその顔が崩れないのが、逆に恐ろしい。
地面が迫る。レイジが思わず息を詰めたその瞬間——
コーダは腕をひねり、ワイヤーを引いた。
ぎゅん、と衝撃が足裏から抜け、二人はふわりと地面に降り立つ。
まるで羽があるみたいに、軽やかに。
「怖かったか?」
「魂が抜けそうになりましたけど、なんとか飛ばずに済みました」
レイジが息を吐くと、コーダはワイヤーを袖に仕舞い小さく笑った。
その笑顔は、鉄塔の上よりも少し柔らかい。
冷たさの中に、微かに人間らしい温度を感じた。
彼女はレイジをそっと地に下ろすと、軽い調子で言った。
「レイジ少年、珈琲は飲めるか?」
「……はい? いや、急にどういう流れですかそれ」
レイジは呆れたように眉を上げた。
だが、緊張と高揚の入り混じった胸の鼓動が、まだ静まる気配はなかった。
* * *
アークレーンの大通り沿いに、古びた純喫茶がある。
普段はただ前を通り過ぎるだけの店だが、コーダの一声でレイジは初めてその重い扉を押して中に入った。
深夜といっても店内には数組の客が残っており、古いランプが柔らかく光を落としている。
レイジとコーダは窓際の奥まった席に向かい合って座った。
外の冷たい風とは対照的な、店内の温度にほっとする。
レイジが落ち着かず小声で「ホットで……」と呟くと、ホール係の男性が一瞬だけ冷たい視線を投げた。
深夜に女性騎士と少年が並んでコーヒーを頼む光景は、たしかに異様だ。
視線の理由はそれだけで説明がつく。
注文が通ると、コーダは「さて」と切り出した。
テーブルの上にある紙ナプキンを一枚取ると、制服の胸ポケットから高級感のあるペンを抜き、手慣れた調子で何かを描き始める。
「まず、捜索対象だ」
紙の上には簡素な似顔絵とメモ。コーダは淡々と説明する。
「リコッタ・グランハイド。王都南部の領主の令嬢、年は七つであまり賢くはない。基本的に内気な性格だから、本来はひとりでふらふらとどこかへ遠出するような子ではない」
毒舌交じりの輪郭に、レイジは内心で苦笑した。
だがその次に描かれた丸っこい線を見て、思わず口をはさんでしまう。
「えっと、この絵のブタは何ですか? どういう関係が?」
「ブタではない。リコッタ嬢だ。芸術センスの欠片もないな、キミは」
レイジは心の中でツッコミを入れつつ、コーダはすぐに表情を引き締める。
話を続けると、その調子はさらに理詰めになった。
「結論から言えば、『一人で遠くへ行けるか』がキーだ。私の管理下を離れたタイミングで誘拐された線もある。この近辺は人攫いが出る場所だからな。そっちに転べば話は厄介だ」
“人攫い”という言葉が、レイジの胸をざわつかせる。
脳裏にすぐさまレイチェルの顔が浮かんだ。
あのとき、間一髪で救えなければ、彼女は確かに「誰かの商売道具」になっていただろう。
令嬢が金品目的で誘拐されれば身代金相場が違う。
相手はプロで、手口も巧妙に違うはずだ。
レイジの胸に、ある計算がこみ上げる。
報奨金、謝礼、――もし協力すれば、その端をつかめるのではないか。
だが同時に、重たい現実が胸の奥に沈んでいく。
これは“誰かの命”がかかった話だ。
好奇心や「ドロップ理論」で割り切れるようなことじゃない。
レイジは紙ナプキンの端を指先でつまみ、息をゆっくり吐いた。
――それでも、何か言わなければ。
口を開いた瞬間、胸の奥の焦りが思考より先に出た。
「それ……ここでのんびりしてて大丈夫なんですか? 最悪、命がかかってるんじゃ」
声は静かだったが、どこか刺のある響きを含んでいた。
コーダはその言葉にわずかに視線を上げ、落ち着いた口調で答える。
「そうかもしれないな。だが、足を使うのは現場の役目だ。私は既に部下たちに聞き込みと捜索を任せている。指揮官に求められるのは、焦りではなく分析だ。冷静に状況を整理し、最も的確な指示を出すこと――それが私の仕事だ」
その声は理路整然としていて、どこまでも冷静だった。
まるで感情の揺れを一切見せない氷のような声。
だが、レイジの中では違う温度が流れていた。
“早く動かないと”。
胸のどこかがざわついて、足を止めているのがもどかしい。
——この人は、ヘルマンとは違う。
同じ小隊長でも、彼は戦場に立って剣を振るう現場指揮官。
コーダは逆だ。戦場の外で全体を俯瞰する“参謀型”。
そして、その違いこそが彼女の強みであり、同時に自分が補える隙でもある。
レイジはそう直感していた。彼女が頭脳なら、自分は足になる。――最適な組み合わせだ。
コーダはナプキンをさらに広げ、木の枝のような線をいくつも描き足していく。
「この……広葉樹の枝みたいなのは何ですか?」
「説明を聞いていないのか? 人攫いだ」
「いや、絵描かないほうがいいですよ。完全に木です」
淡々としたやり取りの最中、ちょうどテーブルに湯気を立てたカップが二つ置かれた。
ソーサーの上のスプーンが、レイジのぼやけた虚像を映す。
香ばしい匂いが漂うのに、味覚よりも心拍の方が勝っていた。
カップを手に取っても、落ち着くどころか焦りが増していく。
――動かないと。
だが、指揮官の判断を覆せるほどの根拠は何もない。
時間だけが、静かに二人の間を流れていった。
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