#023
ある日の深夜、レイジはどうにも胸の奥がざわついていた。
焦燥、というよりも、追い詰められている感覚に近い。
病院で目を覚ましてから、すでに一か月と少し。
あの日、命を拾ってくれた医師ヴァネッサに「三ヶ月以内に分割で完済する」と大見得を切った医療費の請求は、未だ一円も減っていなかった。
先日、軽い気持ちで始めた“宝箱理論”の探索。
街のどこかに落ちている幸運を拾い上げるつもりだったのに、結局は――レイチェルという少女を拾う結果になった。
それ自体を後悔はしていない。
むしろ、あのとき助け出せなければ今も胸にしこりが残っていただろう。
だが、現実は甘くない。
三ヶ月で完済――あの約束は、自分の首を絞める縄になりつつあった。
レイチェルを修道院に預けて見て見ぬふりをする、という選択もできた。
それを選ばなかったのは、自分の意地でもあり、あの子の涙を二度と見たくなかったからでもある。
連れ帰った夜、カリナとヘルマンに事情を話し、頭を下げた。
最初は猛反対された。子供同士でどうにかなる問題ではないと。
それでも食い下がった。
レイジは自分が働いて二人分の生活費を稼ぎ、レイチェルが安心して暮らせる場所を見つけるまで面倒を見る――当面は生活費を貸し付けてもらう形となったが、その条件でようやく同居の許可を取りつけた。
そして今、彼はようやく理解しつつあった。
どんな世界でも、「生きる」ということは金がかかる。
食費、寝床、衣服、道具……生きるための全てが、数字で圧し掛かってくる。
「責任を取る……か」
レイジは財布を開いて中を覗いた。
底に残った硬貨が、乾いた音を立てて転がる。
——たったこれだけで、明日をどうやって繋ぐ?
思わず、天井を見上げて息を吐く。
この世界で目覚めてから、自分は剣も魔法も使えるようにはなっていない。
少なくとも、「生きるために足掻く」という意味では、どんな騎士よりも人間らしいのかもしれない。
「……なんとかして金、稼がないとな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼした言葉が、狭い部屋の中に吸い込まれていく。
彼とレイチェルの部屋に家具と呼べるものは、ベッドと小さな机がひとつだけ。
薄暗い灯の下、少年は机に突っ伏したまま、現実という壁の高さを噛みしめていた。
ふと顔を上げると、窓の外に鉄塔が見えた。
電波塔か、それとも監視用か。用途はわからない。
ただ、鉄骨で組まれた無骨な姿だけが、夜空に黒い影を落としている。
この街に高層の建物はほとんどない。
あの頂からなら、きっとアークレーンの全景が見渡せるだろう。
——アークレーンを一望。
頭の中で、パッと何かが弾けた。
次の瞬間、レイジの脳内には都合のいいファンファーレが鳴り響いていた。
追い詰められると現実よりもゲームの理屈で動く、それが彼という少年だ。
「そうだ、ドロップ理論……モンスターを倒せば、金貨が手に入る。金策の王道じゃないか」
言葉にしてみて、少し笑ってしまう。
RPGでよくある、モンスターが財布も持たずに金貨を落とす“あの理屈”。
もちろん、現実の魔獣がそんな都合のいい真似をしてくれるはずもない。
下手に挑めば命を落とすのがオチだ。
なら——狙うのは別だ。
懸賞金、もしくは協力の謝礼。
鉄塔の上からアークレーン全体を見張り、事件が起きた瞬間に駆けつける。
華麗に悪人を捕らえて騎士団に突き出せば、報奨金のひとつやふたつ……。
想像が広がるほどに、胸の奥が少しだけ熱くなった。
こうして考えている時間だけは、自分が“何かを掴める気”がするのだ。
レイジは机の脇に立てかけてあった木剣を手に取る。
剣身の削れた部分を軽く撫で、肩に担いだ。
夜風が吹き抜ける。
ひんやりとした空気が肌に触れ、寝静まる少女を一瞥すると、レイジは小さく息を吐く。
「よし。……試してみるか」
そっと扉を開け、月明かりの下、バルコニーから外へ出た。
その背中はまだ頼りない。それでも、どこか楽しげでもあった。
* * *
見上げた鉄塔は、目測で五、六十メートルほどだろう。
高層マンションにも匹敵する高さ。
街のどこからでも見えるその構造物を前に、レイジは小さく息を吐いた。
——頂まで行かなくても、途中からなら街を見渡せる。
そう判断すると、鉄塔の根元に張られた金網へと手をかける。
そこには何やら注意書きの看板がぶら下がっていたが、読むことはできなかった。
(いまだにこの世界の文字、読めないんだよな)
苦笑いを浮かべながら、金網をよじ登る。
鉄塔は記憶の中の電波塔や送電塔に近い造りだった。
トラス構造の鉄骨が月明かりを反射して、夜気の中に鈍く光っている。
中央に取り付けられた梯子を、一定のリズムで上っていく。
金属の冷たさが掌を刺し、息が徐々に荒くなっていく。
およそ数分後。
中腹あたりに差しかかったところで、レイジはひと息つき、横の足場へとひょいと身を移した。
強風が吹きつけ、全身を揺らす。
思わず鉄骨に手をかけ、身体を支える。
視線を上げれば、遠くに広がる街の灯。
なるほど、こりゃ見えるわけだ。
アークレーンの繁華街や大通りには街灯が等間隔に並び、人の往来もはっきり確認できる。
だが一本裏に入ると様子は一変する。光は途切れ、通りを歩く影はまばら。
あの暗がりで薬の取引が行われていたとしても、きっと誰も気づかない。
思っていたよりも、細部までは見えない。
風の勢いで身体が煽られ、足場がきしむ。
わずかにバランスを崩せば、そのまま真っ逆さまだ。
——気をつけないと。
そう思った、まさにその瞬間。
なぜか視界が一瞬揺らいだ。
「——あ、終わった」
軽い声が、夜風にさらわれた。
次の瞬間、足元の鉄板が遠ざかっていく。
体が、空を切りながら落ちていた。




