#022
割れた窓の音に驚いたのか、子どもたちが数人、興味津々といった顔で窓際へ駆け寄ってきた。
レイジは息を殺し、窓枠の上部に足をひっかけたまま動かない。
数秒のうちに彼らの視線が通り過ぎるのを待ち、タイミングを見計らって静かに跳躍した。
足音を殺し、少し離れた庭の芝地に着地する。
——レイチェルは大丈夫か。
胸の奥に、針のような不安が残っていた。
割れた窓の向こうをもう一度そっと覗く。
レイチェルが床にへたり込み、肩を震わせているのが見えた。
安堵と同時に、どうにもやるせない感情がこみ上げる。
助けに入るべきか、それとも——。
一瞬迷ったが、結局レイジは茂みに身を潜めた。彼女の立ち上がる力を、信じてみたかった。
時間がゆっくりと過ぎる。
十分、二十分……。やがて、修道院のシスターが部屋に入ってきた。
レイチェルの傍にしゃがみ込み、優しげな声をかける。
だが、その優しさには、どこか冷たい棘のような響きがあった。
「悪いことをしたら、神様はちゃんと見ているのよ」
「みんなが優しいからって、甘えちゃだめでしょ」
——悪いこと?
レイジの眉がわずかに動く。
悪いのはあの子供たちのほうだろう。
なぜ、彼女が責められている?
嫌な予感がして、レイジは再び窓辺から覗き込んだ。
シスターがゆっくりと立ち上がり、指をまっすぐこちらへ向ける。
まさか、見つかった——。
思わず身をかがめた瞬間、シスターの声が鋭く響いた。
「あなたが窓を割ってみんなを怖がらせたっていうのは、注目されたかったからなの? 怪我でもしたらどうするつもりだったの!」
レイジは息を呑んだ。
——違う。
あの窓を割ったのは、自分だ。
レイチェルは何もしていない。
なのに、黙って全てを背負わされている。
申し訳なさが胸を締めつけ、同時に熱いものがこみ上げた。
怒りだった。
あの子どもたち、そしてこのシスター——誰もが彼女を、都合のいい“悪者”にしている。
拳を握る。
茂みの中で、手の甲に力がこもるのを感じた。
声を出したい衝動を、歯を食いしばって飲み込む。
——今はまだ、出るな。
彼女の前で怒りをぶつけるのは違う。
だが、この理不尽だけは、きっと忘れない。
シスターに叱責されるレイチェルの肩が小刻みに震える。
目には大粒の涙が溜まり、言葉を返せないまま俯いている。
もともと口数の少ない子だ。
感情を言葉に置き換える余力すら、今は残っていないのだろう。
「責任を取る」——その言葉が、レイジの胸の中で反芻される。
大人には責任を取る義務がある。
ここで保護者を名乗る者が、その役割を果たしていないのなら、誰かが代わりに立たねばならない。
答えが、静かに浮かんだ。
レイジは拳を強く握りしめる。
血が掌にじんわり滲むような冷たさを感じながらも、決意は固かった。
日が落ち、修道院の庭は闇に溶けていった頃、正門の前で軽く戸を叩く音が響いた。
数十秒の間、内側の様子を窺うように少しだけ視線が下り、かすかに扉が開かれる。
「こんばんは。レイチェルに会いに来ました」
声は中に向かって明るく投げられた。
胸の奥の高鳴りを隠すための作り笑顔だが、その目は揺れていない。
扉越しのシスターは困惑をにじませ、「ええ。元気にしています。ただ今日はもう遅いから、明日お祈りのない時間に来て下さい」と、早口で促す。
「いえ、明日では遅いんです。今日、会わせてください。――というか、引き取ります」
言葉を切り出した瞬間、相手の表情が変わる。シスターの声が硬くなる。
「引き取る、ですって?」
「ええ。ここでは信用が置けません。僕が連れて帰ります」
扉越しに嗤うような空気が漏れる。年端のいかない少年に何ができる、という含みだ。
「あなたのような子供に、何ができるというの?」
シスターの声は厳しい。だが、問いの先にあるのは単なる懐疑ではなく、完全な見下しだった。
「わかりません。でも、ここにいるより彼女のためになると思う。事実を自分の目で確かめず、他人の言葉だけで子供を叱るような大人の元には置けません」
シスターの口調が鋭くなった。
「な、何を言うの! 私が間違っているとでもいうの?」
「さっき、レイチェルを叱ってましたね。確か『あなたが窓を割ってみんなを怖がらせた』って」
レイジは躊躇なく返す。声は冷静だが、熱が帯びている。
「でも、おかしくないですか? ガラス片は部屋の内側に落ちていました」
シスターの眉が一瞬、揺れる。言葉を探してごまかすように首を振る。
「内側、ですって? それじゃあ、まるで――」
「まるで、外側から割られたみたいに見える? そうです。窓は外から割られました。僕が割ったんです」
扉の向こうで、わずかな沈黙が走る。レイジは目を伏せず、真っ直ぐに声を届ける。
自分がやったことを認めることで、それ以上の嘘や押し付けを許さないという意思表示だった。
「はあ!? あなた、何を考えているの? 自分のしていることが分かっているの?」
シスターの声は震え、言葉に動揺が混じる。
「理解しています。あなたよりもずっと」
レイジの声がさらに低くなる。
「レイチェルはここじゃ見慣れない金髪で、昨日持たせた服も綺麗な“保護者のおさがり”でした。それだけで嫉妬の対象になる。実際に、子供の一人が彼女の髪を引っ張って泣かせていた。僕はそれに気づいて、反射的に石を投げ込んだんです」
扉の内側から、シスターの唇がきつく結ばれるのが見えるようだった。言い訳が見つからないらしい。
「そんなことばかりしていると……神に見捨てられるわよ」
宗教的な恫喝が、かえって空々しく聞こえる。
「都合のいい解釈しかしない神なら、冒涜しますよ」
その言葉は子供のものとは思えないほど尖っていた。
* * *
激動の日勤を終えたカリナは、夜風に吹かれながら早足で帰路を急いでいた。
街路樹の間からこぼれる橙の灯りが、どこかぼんやりと滲んで見える。
疲労がピークに達していた。
それでも彼女の足取りは軽い。
理由はただ一つ——家で待っている居候のことが気がかりだったからだ。
予定ではとっくに帰れているはずだった。
だが、思いがけない急患が入り、手術が長引いた。
「まったく、こういう日に限って……」と小さくつぶやきながら、カリナは慣れた手つきで玄関の鍵を開ける。
軋む音を立てて扉を開け、足音を忍ばせてリビングに入ると、そこには——静かな寝息が二つ。
ソファに並んで眠る少年少女。
レイジとレイチェルだった。
少女はまるで安全を確かめるように、少年の腕を両手でしっかりと掴み、離そうとしない。
レイジの方はというと、疲労の色を浮かべながらも、どこか安堵したような表情で眠っている。
「……やっぱり、こうなったか」
カリナは小さくため息を漏らした。
予感はしていた。
きっと彼は、あの修道院から少女を連れて帰ってくるだろうと。
わざわざ彼を送り出す際に「余計なことはしないように」と釘を刺しておいたのに。
交際相手であり、真面目一徹な騎士でもあるヘルマンから、後でまた小言を食らうのが目に見えている。
それでも、叱る気にはなれなかった。
窓の外では、秋の虫が静かに鳴いている。
カリナは白衣を脱ぎ、キッチンの灯りを点けると、そっと夕食の支度に取りかかった。
彼らの穏やかな寝顔を一度だけ振り返り、
「……まあ、いいか」
と微笑みながら、温かなスープ鍋に火を入れる。
疲れの残る身体に、ほんの少しだけ、温もりが戻る気がした。
――彼らの未来が、どうか穏やかでありますように。
そんな願いを胸に、カリナは静かに包丁を動かし始めた。
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