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#021

 アークレーン市街地の西側。

 カリナの勤める外科医院からおよそ一キロ。

 レイジとレイチェルは、緩やかに傾いた石畳の道を並んで歩いていた。


 丘の上に見えてきた修道院は、街の喧騒から切り離されたように静まり返っている。

 灰色の石壁には蔦が絡まり、年月の積み重ねがそのまま刻まれていた。

 古い建物だが、どこか温かい気配が漂っている——この街をずっと見守ってきた場所、という印象だった。


 レイジは大きな手提げを両腕で抱えながら立ち止まり、外観をしばし見上げる。

 彼女がここで暮らすことになるのか、と考えると、少しだけ胸の奥がざわついた。

 安全な場所だと頭では理解している。けれど、自分の手から離れていく感覚が、どこか寂しく感じられるのだ。


 レイチェルが彼の後ろで足を止め、黙って建物を見上げていた。

 小さな手が、そっとレイジの裾をつまむ。

 彼女の指先には、かすかに震えがあった。


「ここが修道院みたいだ」


 レイジはなるべく柔らかい声で言い、振り返る。


「僕が先に中に入って、シスターに話をしてくるよ」


 言葉は穏やかだったが、レイチェルは目を伏せたまま首を横に振った。


「……ひとりは、こわいよ」


 レイジは小さく息をつき、眉をしかめる。

 この数日で、彼女がどれほど傷つき、どれほど怯えてきたのか——それを思えば、無理もない。


「……じゃあ、一緒に入ろうか」


 そう言って微笑むと、レイチェルはおずおずと頷いた。

 ふたりの歩幅が自然と合う。


 古びた扉の前で一瞬だけ立ち止まり、レイジは手提げを持ち直した。

 重い扉を押し開けると、ひんやりとした空気と、淡い香の匂いがふたりを包み込んだ。


 その瞬間、レイジは思った——

 この場所が、彼女にとって“新しい日常”の始まりであってほしい、と。


 * * *


 レイチェルが修道院へ預けられてから、まだ一日しか経っていない。

 それでも、レイジはもう一度足を運んでいた。


 夕方、陽が沈みかけた街道を歩きながら、彼はふと苦笑する。

 昨日、シスターにレイチェルを紹介したときのことを思い出していた。


 荷物を渡し、最低限の説明を済ませ、「じゃあ、あとはお願いします」と立ち去ろうとした——その瞬間だった。

 レイチェルが彼の腕を、ぎゅっと掴んだ。


 まるで、もう二度と離れまいとするように。

 最初はなだめ、説得し、笑ってごまかそうとしたが、彼女の手は頑として離れなかった。


 結局、その押し問答は三時間にも及んだ。

 気づけば修道院の鐘が夜を告げ、レイジの方が根負けしていた。


「……ひとまず、二、三日ここで過ごしてみたら?」


 そう言ってしまったのは、半ば諦めの結果だった。

 だが同時に、レイジの胸にはひとつの疑念も浮かんでいた。


 ——これって、本当に“保護”って言えるのか?


 見知らぬ場所に連れてきて、「ここで暮らせ」と言う。

 言葉を変えれば、それは“人攫い”と何が違う?


 自嘲気味に息を吐き、彼は修道院の裏手へと足を運んだ。

 表から訪ねていけばいい話だが、なぜか足が勝手に遠回りを選ぶ。


 音を殺して建物の側面を回り込み、壁際にしゃがみこむと、そっと窓の下に身を寄せた。

 夕暮れの光が細い隙間から差し込み、窓の向こうには柔らかな笑い声が漏れている。

 レイジは息を潜め、指先で窓枠を押し上げるようにして、わずかに頭を覗かせた。


 そこには——


 子供たちに囲まれながら、ぎこちなくも微笑むレイチェルの姿があった。

 手には小さなほうきを持ち、他の子たちと一緒に床を掃いている。

 レイジはその光景をしばらく無言で見つめた。


 まるで盗み見をしている空き巣犯のような体勢なのに、胸の奥は妙に温かかった。


「……ちゃんと、やってるじゃないか」


 壁際に背中をつけて腰を落とすと、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。

 安心したような、少しだけ寂しいような。

 その混ざった感情を、レイジ自身もうまく言葉にできなかった。


 ——過剰に心配していたのかもしれない。


 レイジはそう思い、胸の奥で苦笑をこぼした。

 窓越しのレイチェルは、ぎこちないながらも他の子どもたちに溶け込みつつある。

 箒を持つ手も、昨日より少しだけ安定して見えた。


 だが、その安堵はほんの一瞬で砕かれた。

 中から不自然なざわめきが起こる。


 振り返ると、レイチェルの姿が見えた——ただし、今度は子どもたちに囲まれ、髪や服を引っ張られている。

 彼女の表情は歪み、目尻にはうっすらと涙の膜が張っていた。

 レイジの眉間に、無意識のうちに皺が寄る。


 理由はすぐに察せた。

 見慣れない金髪、清潔な服、そしてどこか浮いた存在感。

 この場において、それは“標的”として十分すぎた。


「……シスターは?」


 小さく呟いて、視線を走らせる。

 だが、部屋の中に保護者らしき姿はない。

 彼らの笑い声と、レイチェルの押し殺した嗚咽だけが、夕暮れの修道院に響いていた。


 その瞬間、レイジの中で何かが切れた。

 足元に転がっていた小石を、迷いなく拾い上げる。


 体が先に動いた。

 腕をしならせ、ためらいもなく窓へと投げつけた。


 ——パリンッ。


 鋭い破砕音が室内に響く。

 飛び散るガラス片の中を、礫が一直線に軌道を描き、レイチェルの髪を掴んでいた少年の目の前を、紙一重で通過した。

 子どもたちが一斉に悲鳴を上げ、レイチェルが肩を震わせる。


 その瞬間、レイジは我に返った。


 ——やってしまった。


 冷静な判断よりも先に、体が動いていた。

 ここは外。彼はただの来訪者。


 窓の向こうには、確かに“子どもたちの世界”がある。

 そこに外から割り込むなど、本来許されることではない。

 それでも、胸の奥に渦巻く怒りが、理性を押し流していた。


 子どもたちの注目が一斉に窓の方へ向く。

 レイジは息を吸い、反射的に跳躍した。

 風を切る音とともに、軽やかに窓枠へと足をかける。


 破片の散る夕陽の中、レイジの影が修道院の壁に長く伸びた。

 その眼差しは、完全に“外の傍観者”のものではなくなっていた。

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