#020
檻の中の少女——レイチェルが、レイジによって救い出されてから四日が経った。
少女はまだ病院の処置室の一角を間借りし、簡易ベッドで療養を続けている。
肌の血色も戻り、ようやく“人の温度”を取り戻しつつあった。
カリナは体温計を確認し、聴診器を外すと柔らかな笑みを浮かべた。
「熱はなし。脱水も改善されたし……もう大丈夫そうね」
彼女はそう言って、両手をそっとレイチェルの肩に置く。
指先から伝わる温もりが、生の確かさを思い出させた。
あの夜、氷のように冷たい身体を抱きかかえた感触が、ふと脳裏をよぎる。
思わず、カリナは少女の頭を優しく撫でた。
レイチェルは驚いたように瞬きをしたあと、ぎこちなく笑みを浮かべた。
まだ笑うことに慣れていない表情——それでも、その目には確かな光が宿っていた。
「もう……動いても大丈夫ですか?」
か細い声。けれど、その響きには以前よりはるかに力があった。
「うん、大丈夫。ここに来た時よりずっと元気になったよ」
カリナは明るい声で答えながら、包帯の端を整える。
レイチェルはベッドの上で姿勢を直し、部屋の中をそわそわと見回した。
誰を探しているのか、カリナにはすぐにわかる。
「レイジくんなら、もうすぐ来ると思うわ」
レイジの名を出した途端、レイチェルの肩がぴくりと震えた。
そして、頬を赤らめて小さく口を尖らせる。
「べ、べつに……探してなんか、ないし」
その反応に、カリナは小さく笑みをこぼした。
——まったく、隠すのが下手な子。
この数日で、カリナはすっかり察していた。
レイチェルは、自分を檻から救い出した少年——レイジに心を寄せている。
無理もない。あの絶望の中で差し伸べられた手を、忘れられるはずがない。
けれどカリナは同時に、医師として、そして一人の大人として思う。
恋よりも先に、彼女には“生きるための基盤”が必要だ。
安全な居場所、眠れる部屋、安心できる日常——。
まずはそれを整えてやらなければならない。
カリナはそっと立ち上がり、窓の外に目をやる。
午後の日差しがカーテン越しに柔らかく差し込み、レイチェルの髪を淡く照らしていた。
その光が、これからの彼女の人生に続く希望のように見えた。
背後からスッと、扉の隙間を抜けるように少年の気配がした。
「カリナさん、言われたものを家から持ってきたよ」
くだんの少年——レイジが大きな手提げかばんを抱えて立っていた。
少し大きめの上着の袖口から覗く手はまだ幼いのに、動きは無駄がなく落ち着いている。
その成熟した仕草を見るたび、カリナは少しだけ胸の奥がざわめく。
「レイジくん、ありがとうね」
受け取った手提げは想像以上に重く、彼がここまで黙々と運んできた姿を思うと胸が締めつけられた。
カリナはベッドの上にポンとそれを置き、穏やかに声をかける。
「レイチェル。そろそろ退院できるかなって思うの」
その言葉に、レイチェルはベッドの端で指を絡め、不安げに視線を伏せた。
無理もない——彼女は人攫いに連れ去られ、身売りされかけた身だ。
見知らぬ場所も人も、彼女にとってはまだ“外の脅威”にしか映らないだろう。
「それでね、院長の知り合いがいる修道院……同じくらいの年頃の子たちが暮らしてる場所があるの。そこなら、騎士団の巡回もあるし、安全に過ごせると思うの」
カリナはできるだけ優しい調子で説明した。
けれど、心のどこかで思う。騎士団の巡回——それは大人にとっての安心であって、彼女の恐怖を完全に癒やすものではないと。
それでも、ヘルマンに頼み込み、修道院を巡回ルートに組み込んでもらった。せめて守られる環境だけでも、と願って。
沈黙を破ったのは、レイジだった。
「あのね、レイチェル」
レイジはベッドの脇に腰を下ろし、落ち着いた声で言う。
「僕らみたいな子供が生きていくには、大人の助けが必ず必要なんだ。一人で生きていくって言うのは簡単だけど、現実はそうじゃない。……寂しかったら、僕もたまに顔を出すよ」
現実的すぎる言葉に、カリナは息を呑んだ。
その声音には慰めよりも、経験に裏打ちされた重みがあった。
まだ年端もいかないというのに、まるで何かを悟った大人のように。
――この子もまた、何かを背負っているのだろうか。
カリナはそっと白衣の裾を握りしめ、二人を見つめた。
レイチェルの頬にわずかに血色が戻り、レイジを見上げる瞳がほんの少しだけ光を宿している。
その変化を見逃さず、カリナは静かに微笑んだ。
きっとこの子は——もう一度、外の世界に歩き出せる。
そう信じたかった。
「レイチェル、どうかな。頑張れそう?」
レイジがやわらかく問いかける。その声は命令ではなく、傷ついた小鳥を外へ誘うような響きを帯びていた。
「うっ、わかった……頑張る」
レイチェルは今にも泣き出しそうな顔で、入院着の裾をぎゅっと握りしめた。
指先が白くなるほどに。
カリナは息を呑んだ。「頑張る」の一言が、どれほど大きな一歩かを知っているからだ。
レイジは何も言わず、彼女の頭に手を置いた。
その仕草は自然で、どこか大人びている。
撫でられたレイチェルの頬がわずかに紅潮し、怯えの影がほんの少しだけ薄れていった。
「そうだ、これ取っとかないと」
レイジが屈み込み、レイチェルの足元に手を伸ばす。
軽い金属音。足枷の錠が、あっけないほど容易く外れた。
カリナは思わず息を止める。
あれは医療用ではなく、少女がかつて“所有物”であった証。
その重みを知る彼女には、ただの金属音には聞こえなかった。
「これで正真正銘、君は自由だ」
レイジは立ち上がり、静かに告げた。
「ある程度大きくなったら、冒険もできるし、やりたいことを見つけてもいい。世界は無限に広がっているんだ」
レイジの言葉に、カリナは胸の奥で微かに笑う。
――相変わらず、この子は詩人みたい。
きっとレイジには、本当に“世界が無限に広がっている”ように見えているのだろう。
自分が子供の頃、そう信じていたように。
けれど今のカリナには、世界は限られた範囲でしか見えない。
痛みを知り、人を救うことを選んだ者の宿命だ。
――それでも。
あの二人が見つめる未来が、ほんの少しでも温かいものであればいい。
カリナはそんな願いを胸に、静かに二人を見つめていた。




