#019
会議室には、張り詰めた糸のような緊張が漂っていた。
誰もが息を潜め、紙一枚をめくる音さえ重く響く。
ほんの数秒が、永遠のように長く感じられる。
「ほな——例の報告書の件。聞かせてもらいましょうか」
沈黙を破ったのは意外にも環将でなく、ヘルマンの右手に座る若い男だった。
軽い訛りが耳に残る。言葉尻に柔らかさを装ってはいるが、その眼光は鋭い。
スーツの襟を整える仕草にも隙がない。
——官僚クラス、この若さでこの席。只者ではない、とヘルマンは直感した。
「四日前の深夜、アークレーン南部の——」
時系列を追って説明しようとした瞬間、男は被せるように声を上げた。
「あー、そういうのええわ。『何を見た』んかだけ、端的に。時間が勿体ない」
柔らかな笑みを浮かべながらも、声には明確な圧があった。
ヘルマンの喉が自然と鳴る。言葉を選び誤れば、即座に斬られる——そんな圧力だ。
「ソウイチロウ、彼は緊張されているのですよ。あまり圧力をかけては、正しく情報が伝わりません」
対面から低い声が入った。エドガー・ファルクス。ヘルマンはその名を記憶の底から引き上げる。
つい先日、部隊長に昇進したばかりの切れ者だ。
穏やかな口調の奥に、鋭利な観察眼を隠しているのが見て取れた。
左にエドガー、正面には環将。右手には、さきほどの男——ソウイチロウ。
重圧の正体を少しずつ掴みながら、ヘルマンは深く息を吸った。
「裏路地で、若い男が蹲っておりました。私が近づいたところ、突然暴れ出し……体から”甘い匂い”を発して、異形に変貌しました。到底、人とは思えない姿に」
「甘い匂い? どんな匂いなんや、それ」
ソウイチロウが興味を引かれたように、身を乗り出してくる。
視線が鋭く、蛇のように絡みついた。
「そうですね……例えが難しいのですが、菓子のような——」
「砂糖を煮詰めた匂いでした! 王都の洋菓子店みたいな」
ミカが勢いよく割って入った。
唐突な発言に一瞬、空気が緩む。
だがヘルマンは内心、彼女の例えが的を射ていると感じていた。
あの夜、鼻腔を満たした異様な甘さ——それを思い出すだけで、喉の奥に苦味がこみ上げた。
「砂糖。そらごっつ甘い匂いやなあ。想像しただけで気持ち悪なってきたわ」
ソウイチロウが口を尖らせて笑う。
軽口のようでいて、どこか底の見えない声だった。
(この人、自分で時間が勿体ないって言ってなかったか?)
ヘルマンは内心で毒づく。が、表情には出さない。
わずかに息を整え、報告の続きを口にした。
「異形化した人間——報告書では《魔人》と仮称しております。その魔人は、体格と釣り合わない物理的な力量を発揮していました。おそらく、人間が無意識にかけている筋肉のリミッターを破壊し、限界を超えた力を……」
「それに勝ったんかい。あんちゃん、やるなあ」
ソウイチロウが軽く口笛を吹いた。
挑発めいた口調に、ヘルマンは目を伏せて返す。
「お褒めいただき光栄です。問題は、その後になります」
場の空気がわずかに引き締まった。
ヘルマンは背筋を伸ばし、記憶の断片を慎重に選びながら続けた。
「整った服装の男が現れ、交戦。その後、外套を纏った謎の集団が現れました。報告書では彼らの発言から《観測者》と呼称しています」
「なるほど。これじゃまるでファンタジー小説だ」
エドガーが報告書を指先でめくりながら、気の抜けたような声を出す。
しかし、彼の目はページから離れず、鋭い観察の光が宿っていた。
ヘルマンはその視線を感じ取りながら、冷静を装う。
「すべて事実です。そして私は、この一件がアークレーン周辺で確認されている《違法薬物》と関連していると確信しています」
「根拠は、匂いだね?」
エドガーが核心を突く。
言葉は穏やかだが、刃のように鋭かった。
「ええ。その通りです。あの違法薬物が人体に影響を与え、人を異形化させている。その集団は、それを“観測”しているのだと」
「一応筋は通っとるな」
ソウイチロウが腕を組み、椅子に深く腰を沈めた。
プラプラと揺れる足先が、まるで思考のリズムを刻んでいるように見えた。
その無造作な仕草に、ヘルマンは言いようのない不快感を覚える。
——この男、何を考えている。
「これが事実なら、早急に騎士団全体で動くべきだ。だが、特別部隊を組めるほど人員を割くには物的証拠が必要不可欠——情報収集の継続を」
正面の環将が静かに告げた。
その一言に、空気が震えたような錯覚を覚える。
圧倒的な権威と重み。会議室にいた全員が、わずかに背筋を正す。
ヘルマンもまた、胸の奥で緊張の糸が強く張り詰めていくのを感じていた。
息を飲むほどの沈黙のあと、環将が短く指示を下す。
「進展があれば、すぐにクーガン中隊長から報告を上げてくれ」
「はい、承知いたしました!」
グレイは勢いよく立ち上がり、声を張った。その額には脂汗が浮かび、わずかに震える声が混じっている。
ヘルマンは横目でそれを見ながら、
(あの冷静な中隊長がここまで緊張している……)
と内心で首を傾げた。
場の重圧だけではない。
——この場にいる“誰か”に対する、明確な恐れのようなものを感じたのは事実だ。
ミカ、グレイと共に、ヘルマンは深々と頭を下げる。
官僚たちの表情は読めず、空気は張り詰めたままだ。
ドアを閉めると同時に、ようやく息を吐く。
廊下の空気は、まるで別世界のように軽かった。
「ふう……詰められずに済んだな。いやはや、二人ともご苦労だった」
グレイが深呼吸をすると、ミカが顔を上げる。
「中隊長、なにも話してませんで——」
ヘルマンは慌てて彼女の口を塞いだ。
空気の読めない不用意な言葉は、何よりも危険だ。
ミカは目を丸くして頷き、しぶしぶ口を閉じた。
扉の向こうで交わされた言葉が、どれだけ重いものだったのか——ヘルマンにはまだ想像がつかなかった。
* * *
会議室の扉が閉まり、三名の騎士が退室した。
わずかに残る足音が遠ざかり、静寂が室内を満たす。
その沈黙を最初に破ったのは、エドガーだった。
彼は報告書の束を指先で軽く叩き、目を細めながら呟く。
「間違いない。これは……裏魔力の暴走だ」
低く落ちた声に、空気が再び重くなる。
対面に座るソウイチロウは椅子を軋ませながら、口の端を歪めた。
「ほんなら、出所はどこや? まさか、騎士団内部やないやろうな」
環将——ジーク・ダグラスは腕を組み、長い沈黙のあとで短く頷いた。
その眼差しには、戦場を知る者の鋭さと、何かを決意するような覚悟があった。
「まったく、厄介なことになった。組織単位で動いているとすると……”王族”か」
ジークの低い声が、誰もいない会議室に静かに沈み込んだ。
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