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16:『ヒロインは遅れて登場する』

 突如現れたスーツの男は、蹴撃を加えた体勢のまま一瞬、硬直した。

 衝撃を受け止めたヘルマンの左腕が鈍く軋む。


 先ほどの異形との戦闘で負った傷が、確実に響いていた。

 腕の感覚が鈍り始めている。長期戦になれば分が悪い——それを、彼自身が一番理解していた。


「お前……何者だ?」


 ヘルマンは低く問いかける。


「気配を殺して……ずっと見ていたな。目的は、あの異形の男か?」


 スーツの男は肩をすくめ、軽く鼻で笑った。


「答えるわけねえだろ。雑魚は俺が口を開く前に消えるんだよ。……見ちまったんだろ、“実験体”を」


 実験体。その一言で、冷たいものがヘルマンの背を走った。

 やはり、関係している——異形化、そして魔獣事件。


「……叫んで飛び出してきたのはお前の方だろう」


 挑発を交えた言葉に、男の眉がぴくりと動く。


「はァ? テメェが邪魔したからだろうが!」


 荒い声の裏に、どこか愉悦が滲んでいる。戦いを楽しんでいる類いだ。

 ヘルマンは小さく息を吐き、相手の動きを見極める。

 この場で逃すわけにはいかない。情報を引き出し、確保する。それが“騎士”の務めだ。


「“実験体”ってことは——やっぱり、あの異形化に関与してるってことだな」


 あえて誘導するように言葉を投げた。

 男はニヤリと笑い、足先で石を弾くように軽く地を蹴った。


「……へぇ、頭も回るタイプか。いいね。遊び甲斐がある」


 次の瞬間、視界から掻き消える。

 ヘルマンは即座に魔力を右腕に集中させ、迫る気配に合わせて拳を繰り出した。


魔圧拳マナブロウ——!」


 だが空を切る。

 男はすでに背後に回り込み、月明かりの下で不敵に笑っていた。


「危ねぇな……でも悪くねぇ。小隊長さんの実力、たっぷり見せてもらおうか」


 ヘルマンは傷だらけの左肩をかばいながら、静かに息を整えた。

 この男は只者ではない——それでも、退くわけにはいかない。

 同時に、二人の足が石畳を蹴った。


 夜気を裂くような衝撃音。

 次の瞬間には、互いの拳と蹴りがぶつかり合い、火花が散った。


 スーツの男は素早かった。無駄のない動きで間断なく襲撃を重ねてくる。

 狭い路地の中で、左右から飛ぶ蹴りと肘打ち。


 ヘルマンは反射で受け、ガードし、時にかわす。

 鈍る左腕をかばいながらも、冷静に間合いを測っていた。


「見切りも早ぇな。本当に小隊長かよ?」


 軽薄な声の裏には、明確な殺意。

 ヘルマンは男の動きの癖を読み取りながら、次の一手を組み立てる。

 相手は速い。だが——軽い。


 ならば、一撃で沈めるしかない。

 踏み込みの瞬間、魔力の循環を一気に高める。

 心臓の鼓動に合わせて血流が加速し、拳に熱が宿る。


「——読めてる」


 低く呟き、拳を振り抜いた。

 魔圧拳マナブロウが唸りを上げて放たれ、衝撃波が夜気を裂く。


 一撃が男の脇腹を捉え、鈍い爆音とともに路地の壁を貫いた。

 石片と木屑が弾け、男の身体が十数メートル先の建物を突き破って消える。


 砂煙が舞う中、ヘルマンは息を整えた。

 拳に残る衝撃が、まだ皮膚の下で脈打っている。


「負傷兵と戦うなら、傷口を狙うのがセオリーだ」


 ヘルマンは肩口の血をぬぐいながら、ゆっくりと呟いた。


「でもな——お前の考えが見え見えなんだよ。実戦経験、浅いな」


 沈黙。

 やがて、崩れた瓦礫の中から小さな笑い声が漏れた。


「……ククッ。なるほど、口も立つじゃねぇか」


 粉塵を払いながら、男がゆっくりと立ち上がる。

 服は裂け、頬に血が伝っているのに、瞳だけが爛々と輝いていた。


「いいねぇ。破壊力も十分。ようやく、ちょっと楽しめそうだ……」


 笑みは挑発ではなく、純粋な愉悦だった。

 まるで——戦うことそのものが、生きる理由であるかのように。

 ヘルマンは息を吐き、構えを整えた。


 目の前の敵はただのチンピラではない。

 この男、戦闘そのものを“実験”として楽しんでいる——危険なタイプだ。

 ヘルマンが本気を出せば、決して勝てない相手ではない。


 だが問題は左肩だった。

 異形との戦闘で抉られた傷は、応急処置の魔力循環でどうにか塞いでいたが、無理に動いたせいで再び血が滲み始めている。

 腕の可動域が狭まり、動きの精度も落ちていた。


(時間をかければ、ジリ貧だ……短期決戦で仕留める)


 そう決意した矢先、スーツの男が先に動いた。

 その動きは、まるで重力を無視するかのように軽い。


 飛び上がり、身体をひねりながらきりもみ回転——高速の回し蹴りが唸りを上げて迫る。

 ヘルマンは反射神経だけで受け止め、踏ん張りを効かせて足を掴んだ。


「——甘い」


 掴んだ瞬間、全身の筋肉を連動させ、男を石畳に叩きつけた。

 石畳がひび割れ、鈍い衝撃音が夜気に響く。

 男の身体が地面にめり込む——だが、呻き声ひとつ漏らさない。

 そのまま体勢を反転し、地を蹴る。ヘルマンの足元から顎へ、鋭い蹴り上げが突き上がった。


 視界が揺れる。反応が一瞬、遅れた。

 立て直そうとするより早く、再び蹴りが連続して襲いかかる。

 痛みよりも先に、肩口の熱が広がっていく。


(傷口を狙ってきやがるか……見えてるな)


 威力自体は大したことはない。だが、一発ごとに傷が開いていく。

 実戦を知らぬ若造の攻撃ではない。理性を残しながら、確実に殺しを狙う手際。


「しつこい野郎だな……」


 吐き捨てるように言い、ヘルマンは蹴りの軌道を読む。

 次の瞬間、飛び込んできた足首を正確に掴み取った。


「——終いだ」


 全身のバネを解放するように、腕を一気に振り抜く。

 掴んだまま、男の身体を勢いよく投げ飛ばした。


 衝撃波が走り、背後の建物の壁が砕ける。

 男の身体は一直線に飛び、壁を突き抜け、大通りへと消えた。

 瓦礫が崩れ落ち、粉塵が舞い上がる。


 ヘルマンはその光景を黙って見つめた。

 息が荒い。肩から流れる血が、手の甲を伝って滴り落ちる。


(……まだ終わっちゃいねぇだろうな)


 そう呟きながら、血の匂いを混じえた夜風を吸い込んだ。

 喉の奥が鉄の味で満たされる。呼吸のたびに肩の傷が軋み、神経が焼けるように痛む。


 相手はタフだ。生半可な一撃で沈むような男ではない。

 それを理解しているからこそ、ヘルマンはすでに次の動きに備えていた。


 瓦礫の中に突き刺さっていた大剣を拾い上げ、右手で構える。

 重さが心地いい。何度も命を預けた得物だ。

 刃の上を血が伝い落ち、石畳に赤い雫を描いた。


 そして一分も経たぬうちに、男が戻ってきた。

 跳躍と同時にきりもみ回転、脚の軌道は風鳴りを伴って一直線に迫る。

 蹴りの姿勢だ。速い。

 だが、ヘルマンは受ける準備もぬかりない。

 低く息を吐き、魔力を剣身に流し込む。


「――魔圧撃マナスティル・断空ッ!」


 刃が空を切り裂いた。

 空気が裂け、周囲の瓦礫が浮かび上がる。

 斬撃の奔流が蹴りと正面から激突し、眩い光と衝撃波が交錯する。

 直後、軌道を逸れた斬撃が背後の廃墟をまっ二つに切り裂き、崩落の音が夜を震わせた。

 風圧に髪が煽られながら、ヘルマンは低く唸った。


「今のは大技だったんだがな……斬撃の軌道をズラすとは。よく喋る割にはなかなかやるじゃないか」


 呼吸が荒くなる。体内の魔力が目に見えて減っていく感覚があった。

 肩の痛みも限界に近い。これ以上の長期戦は無理だ。

 だが――まだ倒れられない。


「そうかい。じゃあ、俺の大技もお返ししねえとな」


 男が不敵に笑い、ゆっくりと右足を持ち上げた。

 翡翠色の魔力が踊るように脚へ集束していく。地面が震え、空気が唸る。


 純粋な魔力を物理に転化する蹴り――あれを直で受ければ、ただでは済まない。

 ヘルマンは一瞬で距離を詰める算段を組む。

 カウンターを狙うか、それとも――


魔圧蹴マナシュートッ!」


 地を割る音とともに、翡翠の閃光が迫った。

 反射的に腰を落とし、剣を構える。


 しかし、振り下ろすより早く――

 灼炎と共に、一閃が割り込んだ。

 眩い火花と爆ぜる熱。


 それは蹴りの直撃を寸前で受け止め、力強く押し返す一撃だった。

 赤く染まる太刀が、軌跡に残光を残して夜を裂く。

 その瞬間、周囲の気温が数度上がり、焦げた風が二人の間を吹き抜けた。


「市街地での戦闘行為――見過ごせませんよ」


 低く澄んだ声。

 焦げた空気の向こう、太刀を構えた三つ編みの少女が立っていた。

 紅蓮の刃を握り、炎のような瞳で敵を睨む。

 ミカ・アルドゥーネ――ヘルマン小隊の太刀使いだ。


「なんだ? お前は」男が舌打ちする。

「ただの騎士団員よ。非番だけどね」


 太刀を振り抜くたび、赤熱が尾を引いた。

 その姿を見て、ヘルマンは小さく息を吐く。

 ――正直助かった。だが、この戦い、まだ終わりじゃない。

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