02:『知らない人について行っちゃダメだって教わらなかった?』
自由——それは人間に与えられた根源的な権利だ。
昨日、病院で目覚めたばかりの少年 《レイジ》にも、ようやくその時が訪れた。
「レイジ君、本当に大丈夫なの?」
小柄な体で病室を歩き回るレイジを、カリナが心配そうに目で追った。
足取りはしっかりしているように見えるが、病み上がりの子供にしては活発すぎる。
彼女の表情には外科医としての責任感が滲んでいた。
「ええ! 大丈夫だと思います。……たぶん」
声には自信とわずかな不安が入り混じっていた。
それでも瞳は輝きを宿し、動作の一つひとつに好奇心が溢れている。
「院長はああ言ったけど、やっぱり心配だから。何かあったらこの病院に来られる? 約束ね」
その言葉は、赤の他人に向けるには過剰とも思える気遣いだった。
だがレイジは、彼女が単に子供好きなのだと理解し、素直にうなずいた。
「お気遣いありがとうございます。もし怪我をしたら、またお世話になります」
カリナはほっとしたように柔らかく微笑み、退院の準備を整える。
やがてレイジは用意された襯衣に袖を通し、身軽さを取り戻した体を確かめるように軽く跳ねた。
* * *
病室の扉を押し開け、長い廊下を抜けると、外の空気と斜陽が迎え入れた。
彼にとって、これは目覚めて以来初めての「自由」だった。
胸の奥で、説明のつかない高鳴りが広がる。
窓から見下ろしていた街並みは、思い描いていた通りではなかった。
頭上には電線が走り、石畳のあちこちには鋳鉄の蓋が埋め込まれている。
上下水道が整備されている証拠だ。路地の隅にはガスタンクの影も見えた。
街は中世風の石造りを基調としながらも、現代の生活インフラを取り込んでいる。
不思議な折衷の景観に、レイジは一瞬足を止めた。
ここが自分の知る世界と同じなのか、それともまったく異なるのか。
判断する材料すら乏しい。
それでも、立ち止まっているわけにはいかない。
「さて……理解が追い付いていないまま退院しちゃったな。ひとまずは、”ここ”に行ってみるか」
小さな手には、ヴァネッサから託された二枚のメモが握られていた。
一枚は判読できない文字で記された修道院の住所。もう一枚は火事現場を示す地図である。
名前以外に繋がる手がかりは、”火事”。焼け跡を調べることが、今の彼にできる唯一の選択肢だった。
しかし地図はおぼろげで、方向感覚も定かではない。
何人かに声をかけても返事はなく、四度目まではただ素通りされただけだった。
五人目の通行人がようやく口を開き、大通りから外れた路地の先で数日前に火事があったことを教えてくれた。
病院から歩くこと数分。街の喧噪は徐々に薄れ、焦げた木材の匂いが鼻を突いた。
歩を進めるほど、目の前に半壊した屋敷の姿が鮮明になっていく。
屋根も壁も崩れ、もはや住居としての形は留めていなかった。
瓦礫の間には黒焦げの家具や散乱した日用品が見える。
ここに何人が暮らしていたのか、家族はいたのか——レイジには知る由もなかった。
焼け跡の傍らには、大柄な男性が跪いていた。
片膝を地面につけ、両手を胸の前で組み、小さな声で聖句を唱えている。
その視線の先には、焦げた木片の隙間に転がる子供のおもちゃ。
いずれも、無言の悲しみを語っているかのようだった。
男はおもちゃを見つめたまま、静かに言葉を添える。
「光に還れ……幼き魂よ。安らかに——」
背後から聞こえた少年の声に、祈りの空間は一瞬で現実に引き戻される。
「おっちゃん、何を祈ってるの?」
数秒間の沈黙の後、男は目を開き、レイジを見つめた。
その視線は悲しみに満ちているが、決して敵意ではなかった。
「何日か前に、この孤児院が焼けちまったんだ。子供は全員、助からなかった。何度か見かけたこともあったからな……せめて昇華できるように祈ってたのさ」
男の言葉から、レイジはここが孤児院であったことを理解する。
そして、無意識に胸の奥で何かがざわめく。
自分はこの場所にいたのだ——という事実が、目の前の景色と結びついた瞬間だった。
「そうだったんですか。実は僕、ここに関係あるんです。その火事でやけどを……」
レイジは腕を差し出した。
しかし熱傷の跡はどこにも残っていない。
光を受けた肌は白く滑らかで、災厄の痕跡は完全に消えていた。
「やけど? 切り傷ひとつないじゃないか。何馬鹿なこと言ってんだ?」
「そうだった、すみません。もう治っちゃって……」
気まずそうに肩をすくめるレイジを、男はじっと見つめる。
その視線は柔らかさの中に鋭さを含み、腰元の剣の光が夕陽を受けて煌めいた。
「坊主、火事場に入るなよ? 金目のモンなんて残ってねえ。暗くなる前にさっさと帰るんだな」
レイジは剣の光を意識しながらも、目の前の状況を冷静に理解しようとした。
しかし同時に、火事場の跡に自分の足跡を残すことの意味と、この街での居場所のなさを思い知らされる。
「いやあ、お金は必要なんですが、さすがに火事場泥棒はしませんよ。でも、僕の家がここってことは、結局どこに帰るんでしょう?」
言葉を発しても、答えはまだ誰にも与えられていない。
瓦礫の匂いと沈黙だけが、レイジの胸の中に重くのしかかっていた。
「お前も孤児なのか? ここはもう機能していないし、近くの教会なら紹介してやれるが……」
「いえ、なんとかなると思います。それより、おっちゃんは何をしている人? 腰に刺さってるのは剣だよね」
「おっちゃんって。この前まで二十代だったんだけどな。俺、そんなに老けて見えるか?」
「歴戦の戦士っぽさを感じたので、つい」
少年の冗談混じりの問いかけに、騎士は軽く笑ったような表情を見せる。
だがその目には戦場を潜り抜けた鋭さが残っていた。
「いい目を持ってるな。そのとおり、俺は騎士団の人間だ。……そういえば巡回中だった。じゃあな、坊主。暗くなる前に宿を探すんだな」
「はあい」
素直な返事とは裏腹に、レイジの胸には好奇心の炎がくすぶっていた。
火事場から一旦離れるふりをし、レイジは物陰に身を潜めて騎士の後を追った。
小さな足音を忍ばせ、通りの影から背中を見つめる。
腰に吊るされた剣、石畳に差す夕陽の光、騎士の肩越しに見える通りの景色——どれも未知の刺激で、心臓は高鳴った。
レイジの目は輝き、全身に小さな緊張が走る。
まるで冒険譚の一場面に紛れ込んだかのようだった。
騎士は周囲を慎重に見回しながら裏路地を進む。
巡回なのか、別の任務なのか、何もわからない。
仕草の一つひとつが異世界の絵画のように鮮やかで、レイジは夢中でその後を追った。
やがてレンガ造りの建物を曲がった先、騎士は立ち止まり、少年の視線が鋭くなる。
そっと覗けば、そこには別の男が待ち構えていた。
「いいよなぁ。小隊長さんは昼間っからのんびり裏路地で散歩か? 将来安泰の秀才は違うねぇ」
長髪を束ね、顎の割れた男が吐き捨てるように言う。
声には挑発と軽侮が混ざり、空気が少し張り詰める。
「お前は日勤のはずだろう。さっさと巡回に戻ったらどうだ」
冷ややかに応じる騎士の態度は揺るがず、長髪の男は鼻を鳴らすとわざと肩をぶつけ、通り過ぎる。
「監査官としての忠告だ……せいぜい怪我に気を付けるんだな」
不穏な言葉を残し、男はレイジの潜む角へ近づいてくる。
レイジの体は小さく震え、自然と身を縮めた。
ドン、と小さな衝撃。肩に当たった感触が体に伝わる。
「おっと、すまねぇな。小僧」
軽やかな声。
しかし、その一瞬だけ現れた氷のような眼差しが、レイジの胸を貫いた。
心臓が止まるかと思うほどの圧迫感——。
だが、男は鼻歌を口ずさみながら路地に消えた。
残されたのは、不吉な余韻だけだった。
レイジは息を整え、鼓動のひとつひとつを感じながら、街のざわめきと路地の陰影に目を凝らした。
まだ見ぬ世界の秘密に、胸は高鳴り続ける。
慌てて顔を覗かせると、騎士は再び歩き出し、その背が遠ざかっていく。
小走りで追いかけるレイジの心臓は、早鐘のように打った。
裏路地を抜け、大通りに出た瞬間、全身にぞわりと悪寒が走った。
騎士の背後、屋根の上に異様な気配が潜んでいる。
視線を上げると、瓦屋根の上に巨大な獣の影があった。
犬のように見えたが、肥大した顎から涎が糸を引き、濁った瞳には理性の光は一片もない。
荒い息を吐き、まるで狩人のように獲物を狙うその姿——紛れもなく魔獣だった。
次の瞬間、獣が身を沈め、影のように飛びかかる。
「危ない!」
思わず声が出た。
反応した騎士は瞬時に振り向き、腰の剣を一閃で抜き放つ。
刹那、鋭い声をあげながら迫る魔獣に斬撃を叩き込み、光の衝撃が迸った。
「街中に魔獣だと……! ——魔圧撃!」
閃光のごとき剣撃が空気を断ち割る。
衝撃波が魔獣を弾き、耳をつんざく悲鳴を上げさせながら建物の壁に叩きつけた。
「おっちゃん、大丈夫?」
角から恐る恐る声をかけるレイジ。
騎士は素早く振り返り、レイジの存在を視界に収める。
状況を理解すると、短く礼を告げた。
「さっきの坊主……助かった。危ないから、そこで隠れていろ!」
言葉と同時に騎士が再び構えを取る。
魔獣も呻き声を漏らし、濁った瞳で獲物を睨みつけた。
次の瞬間、魔獣が地を蹴った。
飛びかかる巨体に、騎士は下から剣を振り上げる。
刃が肉体をかすめた瞬間、剣筋に沿って衝撃波が奔り、魔獣の胴を斬り裂き、弾き飛ばす。
「斬撃が……飛んだ……?」
レイジは目を見開き、息を呑む。
自分の知る剣術とはまったく違う圧倒的な力——これが、この世界の騎士の力なのだ。
「ただの魔獣じゃねぇな……」
騎士が血を振り払うと、斬られた魔獣は傷口から血を垂らしながらも四肢で踏ん張り、ぎらついた瞳で睨み返す。
見る間に肉が盛り上がり、傷が塞がっていく——異様な再生速度。
騎士の眉が険しくなるより早く、魔獣は再び飛びかかった。
鋭い牙が閃き、剣で弾こうとした瞬間——首元から突如、新たな頭部が生え、騎士の右腕に噛みついた。
「ぐっ……!」
呻き声と共に騎士の体がわずかに揺れる。腕の筋肉は痺れ、握力が緩む。甲高い音と共に剣が石畳へ零れ落ちた。
騎士は左手で魔獣の頭部を殴りつける。
しかし拳は肉に沈むばかりで、牙はさらに深く食い込み、血が滲んでいく。
——このままでは彼が危ない。
その光景に、レイジの心臓が跳ねた。
考えるより先に体が動く。
小さな体を低く滑り込ませ、石畳を転がる剣を掴み取る。
冷たい鉄の重みが、掌にずしりと収まる。
所詮見様見真似に過ぎない。
これまで剣など触れたことすらなかった。
だが、手は震えない。
胸の奥から、理屈を超えた声が響く——本能が叫んでいた。振れ、と。
「——魔圧撃!」
気合いと共に振り上げると、刃先から奔った衝撃波が空気を裂き、一直線に走る。
小さな斬撃ではあったが、その力は確かだった。
刃の波動は騎士の腕に食らいつく魔獣の頭部を弾き飛ばす。
牙が外れ、血飛沫が闇の中で弧を描く。
騎士の右腕が解放され、苦悶の吐息が安堵に変わった。
「ナイスだ! 小僧!」
荒い息の合間に騎士は笑みを浮かべ、すかさず好機を逃さず魔獣の身体を蹴り飛ばす。
鈍い音と共に巨体が転がった。
レイジも剣を振り直し、息を詰めながら投げ渡す。
騎士は素早く受け取り、即座に魔力を込める。
翡翠色の光が剣先を包み、空気は鋭利に張りつめる。
「おらよ、魔圧撃!」
鋭い声と共に、今度は連撃のように斬撃が解き放たれた。
衝撃波が幾度も魔獣を叩き、肉を裂き、怯ませる。
やがて巨体は痙攣し、ついに動かなくなった。
静寂が戻ると、夜気の冷たさが一層際立った。
瓦屋根の上に残る影も、息を潜めたかのように静まり返る。
レイジは深呼吸し、握った剣の冷たさを感じながら、
今、自分が生きている世界の恐ろしさと力を目の当たりにしたのだった。