15:『ボスラッシュの終わりが見えない』
目の前で呻き声をあげるのは、突如として異形へと変わり果てた若い男だった。
その腕が閃いた次の瞬間、鋭利な爪がヘルマンの左肩に深く食い込む。
焼けるような痛みが走り、血の匂いが湿った空気に混ざった。
しかし、ヘルマンは眉一つ動かさない。
肩を貫かれたまま、逆にその爪を“固定”した。
ガッチリとホールドされたことで、男の動きが一瞬止まる。
好機は、わずか一拍。右腕に意識を集中させ、拳を固める。
体内を流れる魔力を一点に絞り、鳩尾めがけて放つ——。
拳がめり込み、鈍い衝撃音が響いた。
吹き飛ばすのではなく、確実に内臓を潰す。
戦場で身につけた、“止める”ための打撃だった。
異形の男が喉の奥から野獣のような叫びを上げる。
狂気と苦痛が混ざり合った声。
その光景にヘルマンは眉を寄せ、短く息を吐いた。
(……なんの恨みもないが、すまないな)
彼の拳に迷いはなかった。
哀れみも、同情も、戦いの最中に挟む余地はない。
せめて、終わった後に祈ろう——そう思いながら、再び拳を構える。
攻撃の主導権は完全にヘルマンに移っていた。
狭い空間での体捌きは、長年の実戦で染みついたものだ。
魔力を流しながら体勢を切り替え、男の顎、脇腹、鳩尾へと連撃を叩き込む。
肉を殴る音と骨の軋みが重なるたび、異形の抵抗は鈍っていく。
攻撃と同時に肩を抉っていた爪が引き抜かれた。
瞬間、焼けた鉄を押し込まれたような激痛が走る。
視界が一瞬にして白く弾ける。
だが、ヘルマンは歯を食いしばり、視線を逸らさなかった。
痛みに意識を奪われるのは一瞬で十分だ。
その一瞬が命取りになることを、彼は嫌というほど知っている。
血が滴る肩を押さえもせず、ヘルマンはただ目の前の敵だけを見据えていた。
その瞳は静かで、揺るぎがない。
まるで“騎士”とは何かを、誰に語るでもなく、その姿で示しているようだった。
魔力とは——生きようとする意思そのもの。
それを循環させることで、身体は一時的に損傷を抑え、流血を止めることができる。
戦場に生きる者にとって、それは理屈ではなく“生存の技術”だった。
ヘルマンも例外ではない。
肩の傷は深い。致命傷ではないが、放置すれば命を奪う類の痛みだった。
それでも彼は、己の魔力を巡らせて痛みを鈍らせ、動ける身体を保っていた。
(……まったく、俺も歳を取ったもんだ。レイジのやつに“おっちゃん”って呼ばれても、否定できねぇな)
わずかに口角が上がる。
だが、その微笑も一瞬だった。
対面の異形は、まだ立ち上がる。
爪を引きずり、喉の奥から獣のような呻きを漏らしながら、ふらつく足でこちらへ迫ってくる。
その声には、苦しみが混ざっていた。
怒りでも憎しみでもない——“助けを乞う悲鳴”のように、ヘルマンには聞こえた。
ほんの一瞬だけ、瞳を伏せる。
祈りの言葉が、唇から零れた。
「光に還れ……苦悶する魂よ。安らかに——」
その声は静かで、戦場に散った無数の命へ捧げる祈りと同じ響きを帯びていた。
拳に魔力を込める。
大剣は狭すぎて振り回せない。ならば、肉弾戦で仕留めるしかない。
理性を失った敵の動きは粗い。読みやすい。
その単調な軌道の裏には、もはや“人間だった頃の癖”すら残っていない。
ヘルマンは一歩前へ出て、相手の腕の動きを見切る。
攻撃が振り下ろされる瞬間、腰を深く落とし、魔力の流れを拳に集約した。
「——魔圧拳ッ!」
放たれた拳が、空気を裂くような衝撃音を立てた。
魔力が爆ぜ、圧縮された力が敵の胸を貫く。
その瞬間、裏路地に閃光のような閃きが走り、全ての音が途絶えた。
異形の男は宙を舞い、背中から石畳に叩きつけられた。
骨が砕けるような鈍い音が響き、男の体は力なく地面に沈む。
やがて、皮膚を覆っていた異形の痣が淡く薄れ、人の肌の色へと戻っていった。
苦悶の表情も、今はどこか穏やかだ。まるで、長い苦しみからようやく解放されたかのように。
ヘルマンは静かに息を吐き、拳を下ろす。
戦場の空気が、一瞬だけ静寂を取り戻した。
(安らかに眠れ……)
彼はわずかに膝をつき、胸の前で短く祈りを捧げた。
祈り終えると、遺体を安全な場所に移そうと手を伸ばした——その瞬間。
高いトーンの声が、上空から響いた。
どこか鼻につく、挑発的な声色だった。
「なに邪魔してくれてんだよ、雑魚の騎士団のくせに!」
ヘルマンはゆっくりと顔を上げた。
月光の縁に、ひとりの男が立っている。
場違いなほど清潔なスーツをまとい、緑の短髪が夜風に揺れた。
耳元で小さなピアスが月を反射し、きらりと光る。
その足を気まぐれにぶらつかせ、口元には軽薄な笑み。
だが、その瞳だけは獣のようにぎらついていた——血の匂いを嗅ぎつけた捕食者のように。
(——次から次へと。一体……)
次の瞬間、男の姿が掻き消えた。
風が切れる音。反射的に視線を前へと戻す。
「——っ!」
視界に飛び込んできたのは、唸りを上げて迫る蹴り。
顎を狙った鋭い一撃を、ヘルマンは反射的に左腕で受け止めた。
衝撃が骨を軋ませ、石畳が粉々に砕け散る。
痛みが走るが、足は一歩も退かない。
屋根から降り立った男は、楽しげに笑った。
その顔には戦いの緊張など一片もない。
「……へぇ、俺の動きが目で追えんのか。さてはテメェ、隊長クラスか?」
「残念、小隊長だ」
短いやり取りの中にも、互いの力量を測る空気があった。
だがヘルマンの眼差しは、ただ冷静だった。
——彼はもう、戦場で挑発に乗るほど若くはない。




