表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/75

15:『ボスラッシュの終わりが見えない』

 目の前で呻き声をあげるのは、突如として異形へと変わり果てた若い男だった。

 その腕が閃いた次の瞬間、鋭利な爪がヘルマンの左肩に深く食い込む。

 焼けるような痛みが走り、血の匂いが湿った空気に混ざった。


 しかし、ヘルマンは眉一つ動かさない。

 肩を貫かれたまま、逆にその爪を“固定”した。

 ガッチリとホールドされたことで、男の動きが一瞬止まる。


 好機は、わずか一拍。右腕に意識を集中させ、拳を固める。

 体内を流れる魔力を一点に絞り、鳩尾めがけて放つ——。


 拳がめり込み、鈍い衝撃音が響いた。

 吹き飛ばすのではなく、確実に内臓を潰す。


 戦場で身につけた、“止める”ための打撃だった。

 異形の男が喉の奥から野獣のような叫びを上げる。


 狂気と苦痛が混ざり合った声。

 その光景にヘルマンは眉を寄せ、短く息を吐いた。


(……なんの恨みもないが、すまないな)


 彼の拳に迷いはなかった。

 哀れみも、同情も、戦いの最中に挟む余地はない。

 せめて、終わった後に祈ろう——そう思いながら、再び拳を構える。


 攻撃の主導権は完全にヘルマンに移っていた。

 狭い空間での体捌きは、長年の実戦で染みついたものだ。


 魔力を流しながら体勢を切り替え、男の顎、脇腹、鳩尾へと連撃を叩き込む。

 肉を殴る音と骨の軋みが重なるたび、異形の抵抗は鈍っていく。


 攻撃と同時に肩を抉っていた爪が引き抜かれた。

 瞬間、焼けた鉄を押し込まれたような激痛が走る。

 視界が一瞬にして白く弾ける。


 だが、ヘルマンは歯を食いしばり、視線を逸らさなかった。

 痛みに意識を奪われるのは一瞬で十分だ。

 その一瞬が命取りになることを、彼は嫌というほど知っている。


 血が滴る肩を押さえもせず、ヘルマンはただ目の前の敵だけを見据えていた。

 その瞳は静かで、揺るぎがない。


 まるで“騎士”とは何かを、誰に語るでもなく、その姿で示しているようだった。

 魔力とは——生きようとする意思そのもの。

 それを循環させることで、身体は一時的に損傷を抑え、流血を止めることができる。


 戦場に生きる者にとって、それは理屈ではなく“生存の技術”だった。

 ヘルマンも例外ではない。


 肩の傷は深い。致命傷ではないが、放置すれば命を奪う類の痛みだった。

 それでも彼は、己の魔力を巡らせて痛みを鈍らせ、動ける身体を保っていた。


(……まったく、俺も歳を取ったもんだ。レイジのやつに“おっちゃん”って呼ばれても、否定できねぇな)


 わずかに口角が上がる。

 だが、その微笑も一瞬だった。


 対面の異形は、まだ立ち上がる。

 爪を引きずり、喉の奥から獣のような呻きを漏らしながら、ふらつく足でこちらへ迫ってくる。


 その声には、苦しみが混ざっていた。

 怒りでも憎しみでもない——“助けを乞う悲鳴”のように、ヘルマンには聞こえた。


 ほんの一瞬だけ、瞳を伏せる。

 祈りの言葉が、唇から零れた。


「光に還れ……苦悶する魂よ。安らかに——」


 その声は静かで、戦場に散った無数の命へ捧げる祈りと同じ響きを帯びていた。

 拳に魔力を込める。


 大剣は狭すぎて振り回せない。ならば、肉弾戦で仕留めるしかない。

 理性を失った敵の動きは粗い。読みやすい。

 その単調な軌道の裏には、もはや“人間だった頃の癖”すら残っていない。


 ヘルマンは一歩前へ出て、相手の腕の動きを見切る。

 攻撃が振り下ろされる瞬間、腰を深く落とし、魔力の流れを拳に集約した。


「——魔圧拳マナブロウッ!」


 放たれた拳が、空気を裂くような衝撃音を立てた。

 魔力が爆ぜ、圧縮された力が敵の胸を貫く。


 その瞬間、裏路地に閃光のような閃きが走り、全ての音が途絶えた。

 異形の男は宙を舞い、背中から石畳に叩きつけられた。


 骨が砕けるような鈍い音が響き、男の体は力なく地面に沈む。

 やがて、皮膚を覆っていた異形の痣が淡く薄れ、人の肌の色へと戻っていった。


 苦悶の表情も、今はどこか穏やかだ。まるで、長い苦しみからようやく解放されたかのように。

 ヘルマンは静かに息を吐き、拳を下ろす。


 戦場の空気が、一瞬だけ静寂を取り戻した。


(安らかに眠れ……)


 彼はわずかに膝をつき、胸の前で短く祈りを捧げた。

 祈り終えると、遺体を安全な場所に移そうと手を伸ばした——その瞬間。


 高いトーンの声が、上空から響いた。

 どこか鼻につく、挑発的な声色だった。


「なに邪魔してくれてんだよ、雑魚の騎士団のくせに!」


 ヘルマンはゆっくりと顔を上げた。

 月光の縁に、ひとりの男が立っている。


 場違いなほど清潔なスーツをまとい、緑の短髪が夜風に揺れた。

 耳元で小さなピアスが月を反射し、きらりと光る。


 その足を気まぐれにぶらつかせ、口元には軽薄な笑み。

 だが、その瞳だけは獣のようにぎらついていた——血の匂いを嗅ぎつけた捕食者のように。


(——次から次へと。一体……)


 次の瞬間、男の姿が掻き消えた。

 風が切れる音。反射的に視線を前へと戻す。


「——っ!」


 視界に飛び込んできたのは、唸りを上げて迫る蹴り。

 顎を狙った鋭い一撃を、ヘルマンは反射的に左腕で受け止めた。


 衝撃が骨を軋ませ、石畳が粉々に砕け散る。

 痛みが走るが、足は一歩も退かない。

 屋根から降り立った男は、楽しげに笑った。

 その顔には戦いの緊張など一片もない。


「……へぇ、俺の動きが目で追えんのか。さてはテメェ、隊長クラスか?」

「残念、小隊長だ」


 短いやり取りの中にも、互いの力量を測る空気があった。

 だがヘルマンの眼差しは、ただ冷静だった。


 ——彼はもう、戦場で挑発に乗るほど若くはない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ