14:『なんで大剣を使うのかって? カッコイイから。』
少年レイジが名もなき少女——レイチェルを檻から連れ出したその夜。
騎士団小隊長、ヘルマン・クロスは担当地域の夜間巡回に出ていた。
アークレーンの南端、石畳の通りには濡れたような月光が差している。
巡回とはいえ、定められたルートを淡々と歩くだけの地味な仕事だ。
だがヘルマンはそれを軽んじなかった。
こうした平穏の積み重ねこそが、街の『秩序』を支えているのだと知っていたからだ。
隣を歩くのは若い部下のイチ。短く整えた顎鬚が月に光る。
「小隊長。この辺り、妙に静かですね。以前はもっと人通りも多かったと記憶していますが」
夜の静寂に、彼の声はよく響いた。
ヘルマンは足を止め、耳を澄ます。——確かに、いつもより音がない。
犬の遠吠えも、商人が戸を閉める音も、風すら息を潜めているようだった。
「……確かにな。特に今日は——まるで誰かが人払いをしたような静けさだな」
口にした瞬間、背筋に冷たいものが走る。
経験が告げていた。これは偶然ではない。
彼はため息をついた。
今夜は平穏では終わらない——そんな予感が胸に沈む。
もし何かが起きるのだとしたら、この静けさの奥だ。
ヘルマンは目を細め、街灯の明かりの届かぬ裏路地を見つめる。
普段の巡回ルートから外れるその細道は、暗渠のように沈んでいた。
「小隊長?」
「……少しルートを変える。裏路地を見ておこう」
イチが慌てて首を振った。
「ダメっすよ、小隊長。申請外のルート回ったらトラブルになるだけですって」
ヘルマンは笑わず答えた。
「だったら、俺だけ少し見てくる。イチは先に行ってくれ、後で追いつく。巡回ルートは外れないさ」
「……騎士の直感ってやつっすね」
「そうだ。信じろ」
軽口で空気を和らげながらも、ヘルマンの瞳には緊張が宿っていた。
胸の奥に、重く湿った予感が沈んでいる。
何かが起きる前の、あの特有の静けさ——。
それを断ち切るように、彼は裏路地へと足を踏み入れた。
狭く、じめついた通路。壁は苔に覆われ、空気が重い。
鼻腔を刺すカビ臭と腐敗の匂いに、眉をひそめる。
——だが進むにつれて、別の“臭い”が混ざり始めた。
(……なんだ? 甘い……)
砂糖を焦がしたような、妙に心地よい香り。
嗅ぐほどに、頭がぼんやりしてくる。
本能が警鐘を鳴らした。
路地の先、小さな空き地に月明かりが差す。
蹲る人影——それが男だと、瞬時に理解した。
ヘルマンは反射的に駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
若い男だったが、その様子は常軌を逸している。
喉で獣のような音を鳴らし、目は焦点が合わない。
肩が小刻みに震え、口元からは涎が垂れる。
甘い匂いの源は間違いなくこの男。
もはや“香り”ではなく、“毒気”だった。
「どうしたんだ、医者を……」
その瞬間、ヘルマンの脳裏に単語が閃く。
——違法薬物。
上層部から調査命令が出たばかりの案件。
報告書の片隅に書かれた特徴が、今ここで重なる。
『使用者の身体から、強い甘い匂いを発する』。
(まさか……これが、あの——)
喉の奥がひやりとした。
男が再び喉を鳴らし、次の瞬間、獣のように咆哮した。
耳をつんざく雄叫び。
皮膚は黒ずみ、筋肉が不自然に盛り上がる。
赤く充血した眼が爛々と光り、爪は見る間に刃物のように伸びた。
(——変異、しているのか?)
ヘルマンは反射的に一歩退き、背の大剣を引き抜く。
重厚な鋼の響きが、狭い裏路地に冷たくこだました。
この狭さでは振りが制限される。
大剣を扱うには最悪の環境だ。だが後退の余地もない。
黒く変わり果てた男の姿は、ここ数日見た魔獣を彷彿とさせた。
違いは——明らかに“人間”から変わったということ。
「おいおい……まさか、繋がってんのか」
独り言に冷や汗が伝う。
魔獣事件と違法薬物——二つが一本の線で結ばれる感覚。
この瞬間こそが“証拠”だ。
変異した男が四つん這いで地を蹴り、異様な速さで迫る。
ヘルマンは即座に剣を構え、踏み込みの勢いで地面をえぐる。
刃と爪が衝突し、金属を擦る甲高い音が響いた。
重い衝撃が腕にのしかかる。
想定以上の力だ。腰を落として体勢を保つが、爪がさらに押し込んでくる。
(脳のリミッターが切れてる……体格に見合わぬ力だ)
押し負ければ終わる。
小回りの利く爪撃と大振りの大剣。
この狭い空間では、相手に分がある。
踏み込むたびに壁が邪魔をし、刃が思うように振れない。
力任せの一撃など放てば、自分の体勢が崩れるだけだ。
(この状況、どうする……)
ヘルマンは呼吸を整え、今朝の稽古を思い出す。
あの器用な弟子——レイジの姿だった。
『実戦じゃな、まず——』
言葉の続きを思い出し、口元がわずかに歪む。
——そうだ、力比べではない。読み合いだ。
大剣を支える腕の力をわざと抜き、刃と爪の拮抗を一瞬崩す。
敵が勝機と勘違いして踏み込む。
その隙を待った。
僅かに体制をずらし、わざと爪を受ける形で前に出る。
左肩に鋭い痛みが走り、皮膚が裂けた。
だが体内の魔力循環を一気に加速させ、筋肉で爪を“止める”感覚を得た。
「脳のリミッターを切れば力は出るかもしれないが……」
低く挑発するように呟く。
赤い瞳が一瞬、戸惑いに揺れた。
「こういう“アイデア”は出ないだろ?」
右腕に力を籠め、拳を固める。目の前のみぞおち目がけて、短く鋭く。




