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13:『まずあなたのまことの名をおしえてください』

 レイジによって少女が病院に運ばれ、一夜が明けた。


 夜勤の合間を縫って、カリナは何度も処置室を覗き、眠る少女の様子を確かめていた。


 その傍らには、ずっとレイジの姿があった。


 ベッドの脇で丸まるように椅子に腰を下ろし、眠る少女を見守るその姿は、まるで年の離れた兄のようで、カリナは思わず小さく笑ってしまう。


 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、レイジの頬を照らした。


 まぶしさに眉をひそめ、彼はゆっくりと薄目を開ける。


 眠気を払いながら、ぼんやりとベッドに視線を向けた。


 昨日の出来事が、まだ頭のどこかで現実味を帯びていない。


 だが、そこに確かに少女がいた。小さく胸を上下させながら、安心しきった表情で眠っている。


(涙を見て、勢いで連れてきてしまったけど……この先、どうすればいいんだか)


 ため息がこぼれる。


 周囲から見れば、きっと『正義感で助けた少年』になっているのだろう。


 実際、そう思われた方が都合がいい。


 だがレイジ自身には、そこまで崇高な意図はなかった。


 ただ――放っておけなかった。それだけだ。


 少女が小さく寝返りを打ち、「ん……」と喉を鳴らした。


 その声にレイジの背筋がわずかに伸びる。


 やがて、ゆっくりと瞼が開き、赤い瞳がこちらを捉えた。


 まだ焦点は定まらないが、その瞳が確かに自分を見ているとわかる。


「起きた? 気分は悪くない? すぐカリナさん……お医者さん呼んでくるからね」


 レイジは立ち上がりかけた。


 だがその瞬間、少女の細い指が彼の手首を掴んだ。


 驚くほど強い力だった。


 振り向いたレイジの視線の先で、少女の唇が小さく震える。


 言葉にはならない。けれど、確かに――「行かないで」と訴えていた。


 少女がレイジの腕を掴んでから、もう数十分が経っていた。


 小さな手は力強く、まるでこの世の何かにすがるようだった。


 声をかけても反応はなく、ただじっと、レイジの腕を離そうとしない。


 その温もりが、重くもあり、痛々しくも感じられる。


 思えば少女は、つい昨日まで人攫いに囚われていたのだ。


 無理もない、とレイジは思う。こんな小さな子が、見知らぬ場所でひとりぼっちになれば、誰だって怖い。


「一人は、心細いもんな……」


 ぽつりと漏らした言葉は、自分に向けたものでもあった。


 病院で目を覚ました日の記憶がよみがえる。


 何も思い出せず、何者かもわからないまま、知らない天井を見上げていた。


 そのとき感じた孤独を、レイジは今さらながらに理解した。


 自分はまだマシだった。ヘルマンやカリナがいてくれたから。


 もし誰もいなかったら、この少女のように差し伸べた誰かの腕を掴んで離せなかったかもしれない。


 静かな病室に、ドアの開く音が響いた。


「レイジくん、全然見に来れなくてごめんね! さっきヘルマンがまた大けがしちゃって。私、引き継ぎ終わったから帰るけど——あら、その子、目が覚めたのね」


 カリナが柔らかい声で言う。


 レイジは振り向き、困ったように苦笑した。


「そうなんですけど、僕はこの通り……動けなくて」


 その光景に、カリナは口元を緩める。


「むふ、レイジくん、モテモテじゃん。お姉さん、邪魔だったかな?」


「たぶん違いますよ」


 レイジが小さく肩をすくめると、カリナは笑いながら少女のもとへ近づいた。


 そして、そっと少女の手を取る。


 その瞬間、レイジの腕を握っていた指が、わずかに震え、ゆっくりとほどけていった。


 少女の赤い瞳が、まっすぐカリナを見上げる。


「ちょっと栄養失調ね。この辺の子なら珍しくないけど……指先、動かすから目で追ってみて」


 優しい声に導かれ、少女は目だけでカリナの指を追う。


 その動きを見ながら、カリナは短く頷いた。


 レイジは少し離れた場所で、腕を撫でる。


 掴まれていた部分が、まだかすかに熱を帯びていた。


 痛みではなく、ただ確かに“人の温度”が残っている。


「それにしても、綺麗な髪。珍しい色ね」


 カリナの視線が、少女の髪に留まった。


 ベッドの上で広がる金色の髪は、陽の光を受けて淡く輝いている。


 彼女は指先で一房をそっと持ち上げ、透かすように見つめた。


「金髪が珍しいんですか?」


 レイジが何気なく尋ねる。


「あまり見たことないかも。この辺は茶色とか、黒が多いから」


 その言葉に、レイジは小さく頷いた。


 言われてみれば、この街では確かに落ち着いた色の髪ばかりだ。


 彼自身の藍色の髪も、周囲から見れば珍しい方だろう。


 だからこそ、金の髪など目立つに決まっている。


「珍しい髪色だから、人身売買の標的にされてしまったんでしょうか」


 レイジの声は、自然と低くなった。


 あの夜の光景が頭に浮かぶ。檻の中で震えていた小さな身体。


 彼女がどんな思いで泣いていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。


「……それもあるかもね。でも、もう大丈夫だからね」


 カリナは柔らかい声でそう言い、少女をそっと抱き寄せた。


 その仕草には、職業的な優しさだけではない何かがあった。


 この街の子どもたちを救いたい——そんな思いが、自然と伝わってくる。


 レイジはそれを横目に見ながら、そういうところが彼女らしい。と少しだけ微笑んだ。


「そういえば、君の名前は?」


 レイジが姿勢を低くし、少女の目線に合わせて声をかけた。


 あくまで穏やかに、怖がらせないように。


 少女はその問いに一瞬だけ迷い、唇を震わせた。


 そして、かすれるような小さな声で答える。


「……ありません」


 その声は、壊れそうに弱いのに、不思議とよく通る音だった。


 レイジはその響きに、胸の奥を軽くつかまれるような感覚を覚える。


 名前もなく、存在を誰にも呼ばれないまま生きてきた——


 そんな現実が、その短い言葉の中に凝縮されていた。


「ご両親はいないの?」


 カリナの問いに、レイチェルは目を伏せて答えを拒んだ。


 物言わぬ態度が、彼女が孤児であることを語っていた。


「名前がないと、不便だよね」


 レイジがぽつりとつぶやくと、カリナが腕を組んで頷いた。


「それもそうね。何か考えてあげたら?」


「うんと……」


 レイジは視線を落とし、少し考え込んだ。


 目の前の少女は、不思議そうに彼を見つめている。


 じっと、まっすぐ。まるで、次に出てくる言葉を待っているようだった。


(そんなに見つめられると、ちょっと照れるな……)


 レイジは頬をかきながら、なんとなく口を開く。


「じゃあ、僕の名前を少し分けようか。レイジ……レイ……レイチェル、とか?」


「レイチェル……」


 少女はその音をゆっくりと口にした。


 一音ごとに確かめるように、何度も繰り返す。


 その小さな唇から紡がれる声が、少しずつ自分のものになっていくようだった。


 レイジは、彼女の表情を見つめながら思う。


 “名前を持つ”ということは、きっとこういうことなんだろう。


 ほんの少しの音で、自分という存在が確かになる。


「子羊っぽいかというと、そうでもないかもしれないけど」


 照れ隠しのようにレイジが笑うと、カリナがくすりと笑った。


「いい名前ね。じゃあ——レイチェル、よろしくね」


 カリナが少女の肩に手を置く。


 少女――いや、レイチェルはその言葉に小さく頷き、ほんのわずかに口元を緩めた。


 それは、この日初めて見せた、微かな笑みだった。


「そういえばさっきまたヘルマンが怪我したって言ってました?」


「結構深い傷だったけど、大丈夫よ。タフだし」

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