12:『その絶妙な異名は忘れない』
「カリナさん、いるー?」
病院内に、場違いなほど陽気な少年の声が響いた。
処置室で器具を片付けていたカリナは、ため息をひとつついてから顔を出す。
そこには、自宅で預かっている交際相手の弟子――レイジが立っていた。
しかし、ただ立っているだけではない。
背中には、痩せ細った少女を背負っていた。
ぐったりとした四肢、浅く乱れた呼吸。
医者でなくとも衰弱しきっているのが一目でわかる。
「……あんたね、うち外科病院だって知ってるでしょ」
苦笑混じりに呟く。
内科や小児科ではなく、怪我人を扱う外科。
専門外であるにも関わらず、この状況では文句も言えなかった。
だが――。
このまま見捨てるわけにはいかない。
目の前の小さな命は、今まさにか細い糸で繋ぎ止められている。
その糸が切れる瞬間を、カリナは黙って見送れるほど冷たくも強くもなかった。
「……いいわ、こっちに運んできて」
決意を口にすると、レイジの肩がわずかにほっと緩んだのが見えた。
カリナは処置室の扉を大きく開き、迷わず二人を中へ招き入れる。
* * *
カリナの素早い処置と、案の定騒ぎを聞きつけて「怪我人かい?」と目を輝かせ乱入してきた院長ヴァネッサの手助けもあって、少女の容態はどうにか安定した。
ベッドの上で、かすかな寝息が静かに繰り返されている。
先ほどまで命の火が消えかけていたのが嘘のようだ。
ひと段落ついたところで、ヴァネッサが「一服だね」と言い、湯気の立つコーヒーを淹れた。
三人は自然と少女を囲む形で腰を下ろす。
「久しいな、レイジ坊や。今はカリナのところで世話になってるんだって?」
「そうなんです。……ヘルマンが剣を教えてくれていて」
ヘルマンの名を出すと、ヴァネッサの口元がにやりと緩む。
「あのヘルマン坊やが弟子を取るとはね。意外も意外だよ。強くなりな」
そこまでは穏やかな空気だった。
だが次の瞬間、ヴァネッサとカリナの視線が、少女の足首に嵌められたままの鉄枷に落ちる。
重苦しい沈黙が流れた。
「……レイジ君、この子の足枷って」カリナが低く問う。
「うん。檻の中に入れられてたんだ。廃墟に隠されてて……人身売買なのかなって思って」
その言葉に、ヴァネッサの表情が一気に険しくなる。
「……商品を連れてきちまったのかい。面倒ごとはごめんだよ」
レイジは思わず拳を握りしめた。
「この子は“商品”なんかじゃない。それに、たぶん無理やり連れ去られたんだ」
「イリュドじゃ、そんなことは日常茶飯事だよ」
ヴァネッサは淡々と言い放つ。
「考えてみな? 自分とこの“商品”を盗られて黙ってるやつなんていないさ。きっと取り戻しに来る。この子は上玉だ」
ヴァネッサの言葉は、耳に痛いほどの正論だった。
少女は「生きたい」と返す代わりに、ただ涙を流して訴えた。
レイジはその願いに応えただけで、助け出した先のことなど一切考えてはいなかった。
「人攫いといえば、最近この辺りの郊外でも危険な剣士が動いていると、ヘルマンが言っていたわね。確か異名は――“片手剣のバロック”」
カリナが記憶を手繰るようにつぶやいた。
「”片手剣のバロック”!?」
レイジだけが反応するも、その絶妙にダサい二つ名をあえてスルーし、ヴァネッサが重い声で応じる。
「そうだな。昔は、子供を一人で外に歩かせるなんて考えられないほど治安が悪かった。……最近はずいぶんマシになったと思っていたが、どうやらそうでもないらしい」
ヴァネッサは煙草を口に加え、火もつけずに咥えたまま少女へ横目を向ける。
「院長、病室は禁煙ですよ」
カリナが冷ややかに指摘すると、ヴァネッサは肩をすくめて笑った。
「あたしの病院なんだ、わかってるよ。できることはもうやった。……あとはせいぜい迷惑をかけないでくれ」
気だるげに吐き捨てると、そのまま病室を後にする。
だがすぐに扉がわずかに開き、ヴァネッサが顔だけ覗かせた。
「そういえば、レイジ坊や。傷はもう大丈夫なのかい?」
唐突な問いに、レイジは一瞬きょとんとする。
「傷ですか?」
自分の体を見回すが、目立つ傷跡は見受けられない。
先日の大鼠との戦いで手に負った傷の痛みは、今では鈍い痣のように残っているだけだった。
「大丈夫みたいです」
努めて明るく答えると、ヴァネッサはふっと表情を緩め、しかしその目だけは笑っていなかった。
「……そうかい。また今度身体を見せてくれよ」
含みのある声音に、レイジは曖昧な苦笑いを浮かべるしかなかった。
胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さる。――今度? 身体を?
だが問い返すよりも早く、ヴァネッサはまた扉を閉めて去ってしまった。
残された病室には、再び静けさと重い空気が満ちる。
レイジはしばし視線を彷徨わせ、少女の寝顔へと落ち着かせた。
胸の奥で渦巻く感情を、どう言葉にすればいいのか。
責任感、苛立ち、そして奇妙な安心感。混じり合って形を成さないまま喉を塞いでいた。
そして――小さく息をつき、ようやく口を開いた。
「あの、カリナさん……」
「ダメだからね」
遮るようなカリナの声に、レイジは言葉を飲み込む。
「僕まだ何も言ってないですよ」
「変なところがあの人にそっくり。この子をなんとかしたいって言うんでしょ? レイジ君は連れ出した責任を感じてる。そうでしょ?」
レイジの心は、突如として現実の問題に引き戻される。
少女を連れ出したのは自分の意思だ。
「まあ。それは、そうなんですけど」
「子供が責任を取ろうなんて思わなくていいの。レイジ君があの子を助け出したのは、決して間違ったことじゃない。どうするべきか、ヘルマンに相談してみましょうか」
カリナの言葉は優しく、安心感を伴っていた。
胸の奥のざわつきが少しだけ静まる。
「カリナさん。ありがとう」
小さく感謝を告げる声に、少女の安全はひとまず保証された。
……しかし、レイジの心の中では、本当に言いたかったことが燻っている。
——”片手剣のバロック”ってダサくないですか?




