11:『神様はいた。子供だった』
レイジは柄にもなく焦っていた。
檻の中の少女をどうにかできる時間とタイミングは、ほんのわずかしか残されていない。
今しかない。
身を潜めた木箱の影から檻の裏へと回り込み、掛けられた布をほんの少しめくる。
薄暗がりの中で、少女の顔がこちらを向いた。
「ねえ、君はどうしたいの?」
声は意外にも落ち着いていた。
「このままだと君の人生は、他人の意思で勝手に決められて、惰性で流れてくだけだ。……ここで終わらせてあげることもできるし、君が生きたいと望むなら、僕は力を貸すこともできる」
我ながら気取った言葉だった。
場の緊張感が背中を押したのか、つい口をついて出てしまったのだ。
もちろん、彼女の人生をここで終わらせるつもりなど毛頭ない。
言ってみたかっただけ――そんな安直な理由だ。
だが、レイジの思惑とは裏腹に、少女の反応は真剣だった。
伏せられていた瞳が細く持ち上がり、目尻から小さな雫がひとすじ頬を伝った。
弱々しい涙の輝きが、廃墟の薄明かりに反射する。
「……全く。しょうがないな!」
自分に言い聞かせるように吐き捨てると、レイジは肩をすくめた。
まるで軽口で緊張を打ち消そうとするかのように。
次の瞬間、勢いをつけて木箱に飛び乗る。
乱暴な音に男たちが気づき、怒号を上げた。
レイジはとっさに、木箱に無造作に積まれていた盾や木材を掴んで投げつけた。
狙いなど適当だったが、意外にも男たちは顔をしかめてひるんだ。
好機だ。
レイジは飛び降りざまに錆びついた剣の柄をつかみ、その重みを確かめる間もなく構える。
「——魔圧撃!」
修行で叩き込まれた通り、衝撃波をまっすぐに放つ。
刹那、鈍い音とともに光の奔流が男たちの胴を打ち抜き、二人まとめて外へと吹き飛ばした。
「……ふう。弱い人で良かった」
肩で息をしながらつぶやく。胸の奥に溜まっていた緊張が、ようやくゆるんでいく。
振り返れば、檻の奥で怯えている少女が目に映った。
「もう大丈夫だよ」
布を再び払ってそう告げた、その瞬間だった。
背中を灼くような熱と、骨まで届く鋭い痛みが走る。
何が起きたのか理解できず、思わず足が止まった。
ゆっくりと振り返ると、そこには見覚えのない隻眼の男。
血に濡れた剣を、忌々しげに振りぬいている。
「ガキが紛れていたとはな……」
しまった。見張り役が残っていたのか。思考はそこでぷつりと途切れ、視界が暗く沈んでいった。
* * *
少女に名はない。
家族もいない。
唯一の身内だった母親は、長く苦しんだ末に病に倒れ、この世を去った。
残された少女には、もはや生きる理由も、希望もなかった。
そうして諦めることだけを、いつの間にか覚えてしまっていた。
あの日も、行くあてもなく夜の路上をさまよっていた。
人影の消えた道、冷たい風、ただ進む足音だけが響く中で、突然腕をつかまれ、人さらいに連れ去られた。
けれど、それさえどうでもよかった。
最愛の母はもういない。
どうやって生きればいいかもわからない。
いっそ成り行きに任せ、どこかで惨めに終わるのも、もう受け入れられる気がしていた。
そして今、こうして檻に押し込められている。
まるで動物のように扱われ、呼吸すらも意味を持たない。
あとは感情を殺して死を待つだけ――そう、決めていたはずだった。
そのときだった。
布の隙間から誰かが顔をのぞかせ、視線が絡む。
見知らぬ少年だった。
だが、その瞳はただの人間のものとは違って見えた。
言葉を発する前に、胸の奥がざわついた。
「このままだと君の人生は、他人の意思で勝手に決められて、惰性で流れてくだけだ。……ここで終わらせてあげることもできるし、君が生きたいと望むなら、僕は力を貸すこともできる」
その声は不思議に柔らかく、それでいて逃れられない力を秘めていた。
苦しみを語るより先に、心の奥で何かが動いた。
抑えていた感情があふれ、頬を涙がつたう。
――この少年は、きっと神様なのだ。
そう思わずにはいられなかった。
一握りの希望が、突然目の前に差し出されたのだ。
少女は、痩せ細った足に力を込め、わずかに上体を起こす。
その先で、少年が檻の外を駆け抜けていく。
人攫いたちを翻弄するその動きは、細身の体からは想像できないほど鋭く、まるで絵本に出てくる正義の騎士のように映った。
しかし、二人の男を弾き飛ばして安堵を見せたその瞬間――。
彼の背後から、別の男が忍び寄っていた。
鋭い刃が振り下ろされ、少年の体が大きく揺らぐ。
血が飛び散り、意識が遠のいていくように見えた。
すべての希望が、一瞬で崩れ去った。
――上げて、落とす。
これほど残酷なことがあるだろうか。
一度抱いた希望は、絶望に転じてもなお心の奥でくすぶり、少女を苦しめる。
隻眼の男がゆっくりと檻に近づいてくる。
その冷めた視線に、少女は喉が詰まり、全身が震えた。
体温が奪われていくようにガタガタと震え、シバリングが止まらない。
心の奥底から、忘れていたはずの感情がこみ上げる。
「……死にたくない――」
気づけば、声が勝手に口をついていた。
男は商品を値踏みするように冷ややかに少女を見下ろし、「取引までまだ時間があるが……連れていくか」と呟き、手を伸ばす。
その瞬間――。
「魔圧撃――!」
廃墟に鋭い声が響き渡り、衝撃とともに男の体が吹き飛んだ。
鈍い音を立てて倒れ込み、呻き声を残して動かなくなる。
「誰……だ……」
最後の抵抗のように吐き捨て、隻眼の男は沈黙した。
その背後から、血に濡れながらも少年が立っていた。
息を荒げつつも、その目には不思議な光が宿っている。
「もう……油断大敵だよ。さては素人だね?」
軽口を叩くその声に、少女の胸が大きく震えた。
確かに生きている。
その姿は、やはり神様に違いないと、少女は改めて思わずにはいられなかった。