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01:『目が覚めたら異世界だったし子供になってた』

 黒煙が視界のほとんどを覆い上下左右、全身の感覚を狂わせる。

 息を吸う度にむせ返り、喉が焼けるように熱い。

 数分で意識が徐々に遠のく。


 最後に彼の脳裏に浮かんだのは唯一の肉親である父親の顔だった。


 ——暗転。



 * * *



 次に目を開けたとき、鼻をついたのは消毒液の匂いだった。

 眼球だけを左右に動かすと、白いカーテンがレールに沿って揺れ、右手には曇った空を背景にした大きな窓が見える。

 ここが病室だと、すぐに理解できた。


 仰向けに横たわる少年は、ゆっくりと上体を起こす。

 取り付けられていたチューブや電極が、動きに合わせていくつか床へ落ちた。

 疲労感は残っているものの、身体は不自然なほど軽い。


 両手を目の前に差し出した瞬間、少年の胸が一瞬止まる。

 皮膚は焼けただれた痕をまだ残しており、その小さな手が痛々しい。

 あまりの異様さに、思わず声が漏れた。


「……なんだ、この小さい手は」


 発した声は少女のように高く、自分のものとは思えなかった。

 五指をゆっくり開閉してみる。感覚は確かにある。

 自分の身体であることに間違いはないのに、現実感が伴わない。少年はぼんやりと窓の外を見つめた。


 外には、中世ヨーロッパを思わせる街並みが広がっている。

 石畳の通り、木組みの家々、曇り空に反射する光——そのすべてが非現実的に見えた。

 窓に映った自分の姿を見た瞬間、疑わしかった感覚は確信へと変わる。


「僕……子供になってる」


 映っていたのは小学生ほどの体格。

 白い肌はまだらに赤く、藍色の髪はチリチリに焦げている。

 視線を落とすたび、自分の身体が別物になった現実を突きつけられた。


 そのとき、カーテンレールが開き、セミロングのくせ毛を揺らした白衣の女性がカートを押して現れる。


「目が覚めたのね、レイジくん」


 少し低めながらも明るい声だった。

 少年はゆっくりと女性に視線を向け、思わず「あの!」と声を強めた。


「どうしたのかな。あ、電極……まだ動かないでね」


「ここはどこですか。僕、なんで子供になってるんですか!」


 少年が激しく動揺する一方、女性はバインダーを片手に口を開いた。


「見ての通り、病院よ。吐き気はない?」


 淡々と問診が続くが、質問したいのは少年の方だった。


「視診・触診の範囲では問題なし。意識の混濁は見られる……一昨日の火事のこと、覚えていない?」


 火事——その言葉が引き金になり、黒煙と息苦しさが脳裏をかすめる。

 しかし、それ以上の記憶は霧のように消えていた。

 何より、自分自身のことが何も思い出せない。


「火事……? 僕は、誰なんだ……」


 少年の問いは、体と世界の不思議さに押し潰されそうな心の声だった。

 自分は生きているのか、死んだのか、生き返ったのか、記憶の混濁なのか。

 窓の外の街並みも、白衣の女性も、すべてが異質で、理解の外にあった。




 数時間が経ち、少年は落ち着きを取り戻し、状況を整理し始めていた。

 見覚えのない子供の体で、病院にいる。

 目に映る文字は日本語ではないが、言葉は自然に理解できる。

 そして——傷の回復速度が異常だった。


 赤くただれていた全身のやけどは、この短い時間で小さな斑点ほどに縮み、痛みもほとんど消えている。少年はその変化をじっと見つめ、驚きと戸惑いを抱いた。


 再びカーテンが開き、女性が顔を出す。


「大人しくしてる? ああ、まだ身体は動かしちゃダメだって」


「でも、僕、もうやけどは治ってきてますよ」


 まだ赤く腫れた腕を差し出すと、女性の目が一瞬見開かれた。


「二度熱傷が数時間で……院長の投与した新薬が効いたのかしら」


 肩透かしを食らった気分だった。

 自分だけが特別な力を持っているのでは、と一瞬期待した分、落胆も大きい。


「看護師さんの仕事を奪ってしまったかもしれません」


「私、看護師じゃないの。こう見えて外科医なのよ。カリナ、って呼んで」


「カリナさん、失礼しました。それで……僕、何も思い出せないんです。自分の名前も、今まで何をしていたのかも」


「……そう。けど、名前なら分かるわ。《レイジ》くんよね。腕輪に彫ってあったから」


 カリナはベッド脇の棚から小さな腕輪を取り出す。

 少年は両手で受け取り、内側の見慣れぬ文字列をなぞった。

 それが自分の名——《レイジ》だと理解した瞬間、胸にわずかな安心と、同じくらいの不安が入り混じる。


「僕は……レイジ、か」


 口に出すと、自然に舌になじんだ。

 限られた情報しかない今、この名前は自分をつなぎ止める唯一の拠り所だった。


 カリナが脈を測り、沈黙が流れる。

 近くにいながらどこか距離を置くような態度に、レイジは耐えきれず口を開く。


「ここは関東……じゃないですよね? 今は西暦何年なんでしょうか」


 カリナは数秒考え、落ち着いた声で答えた。


「脈は少し早いけど、健康状態は悪くないわね。それで……ここについてね。カントウって国は聞いたことないけど、イリュド郊外の地名かしら。今は《皇歴二九一年》よ」


 皇歴——国の建国から数えた年数だろう。

 窓の外の景色、病室の様子。

 レイジは限られた手がかりを拾い、冷静に世界を把握していく。


「イリュド……そして皇歴か。なるほど」


 小さくつぶやき、考えをまとめる。

 新しい名前、新しい体、不可解な環境。点と点をつなげれば、答えは一つだった。


(ここは異世界——自分のいた俗世とは違う、まったく別の常識で成り立つ世界なんだ)




 * * *



 二度熱傷を負ったはずの肌は、翌日には跡形もなく回復していた。

 赤みも痛みも消え、残ったのは張りのある若々しい肌。

 常識では考えられない治癒速度だが、この世界の医療は相当進んでいるらしい。

 度々様子を見に来るカリナとも、すでに顔なじみになっていた。


「レイジ君、本当にすごい回復速度ね。一昨日、院長が運んできたときはもう助からないと思ったのに……。よかった」

 その声には驚きよりも関心が混じっている。

 レイジ自身の体質も関係しているのだろう。


「よく分かりませんけど、そんなに褒められると照れちゃいます」

 レイジが後頭部を掻いて場を和ませると、カリナは慣れた様子でカルテにペンを走らせた。


「もう退院してもいいかもね。院長に診てもらいましょうか?」


 思わぬ提案に、レイジの胸が高鳴る。閉ざされた病室より、外に出られた方が格段に情報を得やすい。

 退院は未知の世界を探る第一歩だった。


 数時間後、巡回に現れたカリナの隣には、威厳を漂わせる女医が立っていた。

 白衣の裾を翻しながら入ってくる姿に、レイジは思わず背筋を伸ばす。


「院長のヴァネッサだ。やけどがもう治ったんだって? 新薬が効いたのか。病床の回転率が高くて助かるよ」


 ヴァネッサは手際よく診察を進めていく。

 胸に聴診器を当て、関節の可動を確かめ、最後に軽く頭に手を置いた。

 その手つきは柔らかく、レイジは少しくすぐったさを覚えながらも、退院が近いことを実感する。


「至って健康だな」


 ヴァネッサは微笑んで「問題なし」と告げ、額に手を当てた。

 押し返される感覚よりも、外の世界に出られることへの期待で胸が膨らむ。


「じゃあ、これは請求書だ。分割でも構わない」


 唐突に現実を突きつける声は淡々としていた。

 ヴァネッサが差し出した紙を恐る恐る両手で受け取ると、そこにはまとまった金額と思われる数字が並んでいる。


「院長、ひどいです。子供からこんなに請求するんですか!」


 カリナの反応から、相当な額だと察せられた。

 都合よく、数字が読めないのが救いだった。ヴァネッサは表情を変えずに言い放つ。


「あたしたちは善意でやってるわけじゃない。大人だろうが子供だろうが命を助けた。それに対して金という分かりやすい見返りを求める。何が悪い? 一生こき使おうってわけじゃない。……なんなら、お前が代わりに払うか?」


 ヴァネッサの言葉は筋が通っていた。

 少なくともレイジの知る常識でも、子供だからといって医療が無料というわけではなかった。


「レイジくん、世の中って善意で回ってるわけじゃないの。厳しいようだけど、それが信頼ってものよ」


 自分に矛先が向いた途端に切り替えるカリナの早さに、レイジは内心で突っ込みを入れつつも冷静に状況を受け止めた。


「えっと……治療していただいてありがとうございます。医療費は分割で払います。助けていただいたのは事実ですから」


「物分かりがいい。支払期限は三か月。分割でも一括でも構わない。ここを出たら生活基盤を作って、働いて返すんだ。いいね?」


「それで……僕はここを出たら、どこへ行けばいいんでしょう?」


 少年に行くあてはない。記憶もなければ目的もない。必要なのは次へつながる手がかりだった。


「知り合いの修道院なら紹介してやれる。ただ……毎日祈りを捧げるような性格じゃなさそうだな。気が向いたら行くといい」

 そう言って小さな用紙に走り書きをすると、レイジの手に握らせた。


「あの、ご迷惑ついでに、もう一つお願いしてもいいですか?」

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