感情を抑え続けた令嬢は、隣国で静かに爆発した
「君との婚約を破棄したいんだよね」
その言葉を聞いた瞬間、アリステアは思考を止めた。
何を言われたのかすぐには理解できなかったが、徐々に回り始めた頭の中に湧き出てきたものは、怒りと困惑、それから拒絶だった。
久しぶりに湧いて出る感情に懐かしささえ覚えながら、アリステアは聞き返した。
「破棄、ですか? 解消ではなく?」
他にも聞くべきことは山ほどあった。
しかし、出てきた言葉はこれだけだった。
学園を卒業し、結婚に向けて国を挙げた準備が今まさに始まろうとしているこの時期に、婚約を破棄すると言い出す理由が、アリステアには何一つ理解できなかった。
アリステアの婚約者はグランツェル王国の第三王子で、名をエルヴァンという。
学園を共に卒業したばかりの人物が、まるで昼食の献立でも告げるような調子で人生を左右する一言を口にしたのだ。
アリステアが胸の奥で、様々な感情をない交ぜにするのも当然だと言える。
「解消? 何を言ってるんだい? 俺とミレイユは君にたくさん苦しめられたんだから、破棄に決まってるでしょ?」
「私が……苦しめた?」
エルヴァンが何を言っているのか、アリステアはまた理解できなくなった。
ミレイユというのは、二人と同じように学園を共に卒業したクラスメイトの一人だ。エルヴァンの恋人の一人、なんて呼ばれており、アリステアとの仲は悪い。
実は、エルヴァンは学園で非常に人気のある男子生徒だった。
グランツェル王国では、己の感情を抑制することこそが美徳とされている。だと言うのに、エルヴァンはその真逆を行く生徒だった。
感情の抑制が美徳とされるのには、訳がある。
グランツェル王国には、血統魔法と呼ばれるものがある。この魔法は、己を律することができるほどに威力が強まり、絶大な効果を発揮するという特性を持っている。
つまり、感情がすぐに動いてしまう人物ほど、血統魔法が弱くなるということだ。
血統魔法は貴族の証。
これがうまく使えないなんてなれば、嘲笑の的だ。だから、グランツェル王国の貴族は感情を表に出すことを悪とし、沈黙や察する力、あるいは論理的思考を美徳とする。
アリステアもグランツェル王国の貴族として生まれ、小さい頃から感情の抑制について嫌というほど学んできた。
その努力が実ってか、貴族としての地位も申し分ないとして、第三王子エルヴァンの婚約者として指名されたのが、当時八歳のことだ。
婚約者になった頃から、既にお互いが感情の抑制を身に付けていたこともあり、淡々とした関係だった。
会話は最低限。意味のない問いかけなどはせず、互いの好みの話などもしない。
だが、アリステアはこれが普通だと思っていた。自分の両親も、特に会話らしい会話をしているところを見たことがない。使用人とも特に話さないし、使用人同士がおしゃべりしている姿も見たことがない。
誰もが淡々と物事をこなし、波を荒立てないよう、荒立っていたらすぐに凪ぐように行動することが当たり前だったので、アリステアはこれに疑問を抱くことさえなかった。
この考えが変わったのは――変えられたのは――十五歳から三年間だけ通うことになる、学園生活だ。
入学初日、クラスが別だったこともあり、アリステアは最低限の挨拶をしておこうとエルヴァンを探していた。
「あはは、君は本当に、可愛いねえ」
「かわ、いい……ですか? ありがとう、ございます……」
廊下の角越しに聞こえてきた声に、アリステアは自分の耳を疑った。
聞き間違いではないだろうかと、そっと曲がり角の先を覗いてみれば、声の主は想像したとおり、エルヴァンだった。
「ね、明日一緒にランチしようよ。ここの学食、おいしいって聞いたよ」
「えっ、ですが……その、エルヴァン様には……」
エルヴァンが甘い言葉を囁きながら、見ず知らずの女子生徒をお茶に誘っている。
一方で、女子生徒も相手が誰か分かっているようで、婚約者がいるではありませんかと、それっぽいことを言って断ろうとしている。
しかし、アリステアにはそれが本心ではないとすぐに分かった。
女子生徒は明らかに顔を赤らめ、まんざらでもないといった様子。このまま誰にも見られていないなら――いや、もし見られていても、エルヴァン様に迫られて仕方なく。
そういえば自分は逃れられるという、打算にまみれた顔をしていた。
「エルヴァン様」
「アリステア」
私は思わず、角から飛び出て声をかけていた。
そして、そんな行動をした自分に心底驚いた。あんなにも感情を抑制するように言われてきて、実際にそれを守っていたのに。
こんな……こんなくだらない場面に出くわしただけで、狼狽えている自分がいることに、ひどく落胆した。
「本日はご挨拶だけと思っていましたが、この場面を見てしまっては、一言申さないわけにはまいりません。王族としての振る舞いを、今一度考え直してくださいませ」
アリステアは深く頭を下げ、早々に踵を返してその場を去った。その後二人がどうしたのかは、知る由もない。わざと二人の顔を見なかったのは、自分を守るためだったという現実が、さらにアリステアを惨めにした。
そして、アリステアはこの日から己の感情にひどく苦しむようになった。
グランツェル王国の貴族として生まれた以上、感情の発露はご法度。
だが、学園の至る所で様々な女子生徒に粉をかけて歩くエルヴァンとばったり出くわしてしまう度、大声で叫びだしてしまいたくなる衝動に駆られる。
それはいけない。それはダメだ。
アリステアは必死に己を律するが、それをあざ笑うようにエルヴァンは好き放題に感情を振りまき、女子生徒を誘惑していく。
学園に通っている女子生徒たちも、位の差はあれど全員貴族だ。教育の差はあっても、感情を表に出すことはいけないという基礎を知らない人物はいない。
それでも、エルヴァンほどの人物に声をかけられるだけでなく、可愛い、綺麗、素敵だと言われ、心を動かさないのは難しい。
エルヴァンが第三王子だということを知らない貴族はいない。そして、彼に婚約者がいることを知らない貴族もいない。
だからこそ、彼の言動はただのお遊びとして受け取られ、遊びならいいじゃないと乗っかる女子生徒も現れ始めた。
また、多感な時期の少女たちに、第三王子からの賞賛はあまりに甘美だった。今まで直接的に褒められるなんて経験をほとんどしたことがないこともあり、抗う方が難しかった。
それでも、特に高位な貴族の女子生徒たちはエルヴァンの行動は下品であり、軽率で見るに堪えない行為だと非難する者もいた。
だが、残念なことに相手は第三王子。これを表立って口に出来る人物はいなかった。
そこで、唯一口出しできる立場にあるアリステアに、苦情が殺到した。彼の言動をいさめてほしい、と。
アリステアも苦情を入れてくる女子生徒たちと同じ考えなため、彼女たちにはとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だが、それさえも表に出せないため、頼まれたら淡々と承諾することしか出来なかった。
何度言っても言動を改めない婚約者。
婚約者を諫めるよう言いに来る、高位貴族の女子生徒。
所詮お遊びだからと、エルヴァンと必要以上のスキンシップを楽しむ下位貴族の女子生徒。その筆頭とされていたのが、ミレイユという女子生徒だった。
これらから身を守るため、アリステアが取った行動は、婚約者に対する全ての情と一切の関心を捨て去ることだった。
そうして、何物にも感情を動かさなくなったアリステアは三年という長い時間をかけ、学園を卒業するに至った。
その翌日、王宮に呼び出されたと思えば、これである。
もはや、かける言葉もない。
「私の何が、エルヴァン様を苦しめたでしょうか」
「婚約者って立場を、ずーっと独り占めしてたでしょ? そのせいで、ミレイユはいつも自分が本当の恋人なのにって苦しむ羽目になったし、俺も毎回小言を言われて苦しんだ。ね?」
何も分からない。何も理解したくない。
アリステアはもう一度、婚約者に対する全ての情と一切の関心を捨て去った。
「破棄でも、解消でも。私の一存では決められません。どうぞ、エルヴァン様の父君である国王様とお話ください」
そう言って、アリステアは初めてエルヴァンが女子生徒をお茶に誘っていた時と同じく、彼の顔を見ないように深々と頭を下げ、部屋を後にした。
♢
「……婚約は、破棄ではなく解消として処理された」
エルヴァンに理解不能なことを言われた日の夜。
執務室に呼び出されたアリステアは、父から報告を受けていた。
父の声は静かだったが、その言葉には確かな重みがあり、アリステアの胸の奥にあるわだかまりを少しだけ解いてくれた。
破棄ではなく、解消。
それは、アリステアの尊厳が守られた証だった。
「それと、明日もう一度王宮へ行ってほしい。国王陛下の元で、アリステアの今後について、話し合いがあったらしい」
「国王陛下の元で、ですか?」
アリステアは目を見開いた。
自分の今後が王宮で語られるほどのものになった、という事実に心が追いつかないまま、無情にも朝日は登った。
♢
王宮の正門前。
アリステアを待っていたのは、グランツェル王国の魔術師長、ギーシェだった。
「私が、控え室までご案内します」
その言葉に、アリステアは思わず足を止めた。
魔術師長が護衛など、普通はあり得ない。彼は国王の側近であり、王宮の魔術部門を統括する人物のはずだ。
「なぜ、あなたが?」
「陛下のご命令です。アリステア嬢の案内は、私が責任を持って行うようにと」
ギーシェの声は淡々としていたが、その瞳には揺るぎない忠誠と、どこか静かな敬意が宿っていた。
彼の後ろを静かに歩きながら、アリステアは王宮の廊下を見つめていた。
磨き上げられた石床に、彼女の足音が吸い込まれていく。いつも通っていたはずの道なのに、今日の空気は違っていた。
侍女も衛兵も、アリステアに一瞥をくれるだけで、誰も口を開かない。
それはいつものことであるはずなのに、ギーシェが自分の前を歩いているというだけで、どこか違う空気を感じた。
ギーシェは一言も発さず、一定の距離を保ったまま歩き続ける。
その背中は、いつも王の傍らにあるはずの存在だ。
だというのに、今は自分のために動いている。その事実が、アリステアに静かな重みを与えていた。
やがて、控え室の前に辿り着いた。
ギーシェが扉の前で立ち止まり、振り返ることなく言った。
「中には、陛下とニルヴァーナ王国の王子殿下がいらっしゃいます。私が扉を開けますので、どうぞ先にお入りください」
そう言って、ギーシェはアリステアが気持ちを整えるのを待つこともなく、扉に手をかけた。
重厚な扉が静かに開き、控え室の空気が流れ込んでくる。
部屋の中央には、グランツェル王国の国王が椅子に腰掛けていた。その隣には、異国の装束を纏った青年――ニルヴァーナ王国の王子、ライオネルの姿がある。
そして、ライオネルの背後には一人の男が控えていた。
紫色の衣に身を包み、無言で立つその姿は、いつも国王の少し後ろに立っているギーシェのようだ。
彼はトラヴィスといい、ニルヴァーナ王国の魔術師長だ。立場はギーシェと同じである。
ライオネル王子の筆頭護衛として、彼は一歩も動かず、ただ静かにアリステアを見つめていた。
扉が閉まる音が背後で響くと同時に、ギーシェは足音を立てずにアリステアを横切り、国王の後ろに立った。
それこそがいつもの光景で、アリステアは少しだけ日常を取り戻した気がした。
アリステアは一歩進み、四人の視線を正面から受け止める。
その瞳に宿るのは恐れではなく、覚悟だった。
「アリステアです。お招きいただき、光栄に存じます」
礼儀正しく一礼すると、国王は微かに頷いた。
その表情は、いつもの威厳とは異なる、どこか沈んだ色を帯びていた。
「座りなさい」
促されるまま、アリステアは国王の正面の椅子に腰を下ろした。
ライオネルは彼女をじっと見つめていたが、言葉は発さなかった。
トラヴィスは微動だにせず、ライオネルの後ろで静かに立っている。
しばしの沈黙の後、国王が口を開いた。
「まずは、謝罪を。君をこのような形で巻き込んだこと。何より、エルヴァンについて。すべて、我が王としての不徳の致すところだ」
アリステアは目を伏せず、まっすぐ国王を見つめていた。
その姿に、王はわずかに目を細める。
「……エルヴァンの件については、もはや語るに値しないことだろう。あれは……いや、君に言っても詮無きこと。奴との婚約は解消となった以上のことは何もない。それよりも、君自身の今後について、どう考えているかを聞かせてほしい」
何かを言い淀んだ国王は、それを流すようにアリステアに別の話を振る。
アリステアは話を蒸し返すようなことはせず、一瞬だけ言葉を探し、静かに口を開いた。
「婚約が解消されたことについて、異存はありません。……ですが、今後については、まだ何も。昨日の今日で、考えが追いついていないのが正直なところです」
その答えに、王は頷いた。
それから、隣に座るライオネルへと視線を向ける。
「そんな君に、ひとつ話が出ている。ニルヴァーナ王国より提案があるそうだ。ライオネル殿下、説明をお願いできるか」
ライオネルは静かに頷き、椅子からわずかに身を乗り出した。
その瞳はまっすぐにアリステアを捉えている。
「ここからは、私が説明します。まず、我が国の魔術師長、トラヴィスは未婚の身です。彼は王宮の信任を受けており、近年、婚姻についての打診が増えていました。そこで、彼の意向も踏まえ、我が国としてはあなたを彼の婚約者として迎え入れたいと、考えています」
言葉は丁寧だったが、内容はあまりに突然だった。
アリステアは思わず息を呑み、言葉を探す。
「……なぜ、私が?」
アリステアは出来るだけ感情を押し殺し、淡々と事実確認だけに努めた。
だが、彼女の声は震えてこそいなかったが、心は確かに揺れていた。心臓が痛くなる経験なんて初めてで、これまでの三年間の辛さなど、この瞬間に比べればあまりにも些細なことにしか感じられなかった。
アリステアの問いに、ライオネルは一拍置いてから口を開いた。
「最初に申し上げておきます。この話は、我が国としてアリステア嬢を迎え入れることが、有益だと判断した上での提案です」
アリステアは黙って耳を傾けていると、ライオネルは話を続けてくれた。
「あなたはエルヴァン第三王子の婚約者だったこともあり、王宮での振る舞いに申し分はない。礼節、判断力、抑制。これらは我が国にとって、外交上の資産となり得ます。特に、トラヴィスの婚約者として迎えることで、ニルヴァーナ王国は隣国との橋渡し役を得ることになる」
「橋渡し、ですか」
「ええ。あなたがニルヴァーナ王国に来られることで、両国の文化的理解が進む。我が国は、感情を表現することを美徳とする社会です。同時に、魔法も感情を媒介に発動する。そのため、アリステア嬢が持つ血統魔法は、ニルヴァーナでは本来の力を発揮しづらいかもしれません。ですが、我々が求めているのは魔術的な貢献ではなく、文化の翻訳者としてのあなたです」
血統魔法ではなく、文化の翻訳者として求められているということに、アリステアは少し理解が追いつかなかった。
グランツェルとニルヴァーナの外交関係は、至って良好だと聞いている。今更、橋渡しのような存在が必要だとは思えない。
それでも欲するとするなら、やはりお互いの国にそれぞれ存在する魔法が理由になるのが自然だ。少なくとも、貴族である自分を求めるならそこだろうと、アリステアは思っている。
「トラヴィスは王宮の魔術師長であり、今後もグランツェル王国との連携の場に赴くことが多い。その際、あなたが感情を抑える文化を理解し、我が国の価値観に翻訳して伝えてくれること。それが、我々にとって何よりの財産となるのです」
ライオネルは、言葉を選びながら最後に付け加えた。
「しかし、これはあなたにとって良い話ばかりではありません。ニルヴァーナ王国に来ていただく以上、感情を表に出していただく必要があります。トラヴィスの婚約者が常に無表情であれば、我が国の民は不安を覚えるでしょう。ですが、それは演技ではなく、あなた自身の感情を少しずつ解放していくことで、自然に馴染んでいけるはずです」
アリステアは、言葉を失った。
それは、自分の価値が魔法ではなく、理解と振る舞いにあると明言された瞬間だったからだ。
ライオネルの説明が終わると、控え室には静かな沈黙が落ちた。
アリステアは目を伏せ、思考を巡らせていた。
この国で、アリステアという存在は婚約を解消された令嬢となった。
貴族としての立場は残っていても、名誉は剥がれ落ちたと言っていい。このままグランツェル王国に留まれば、陰口と憐れみの視線に晒され続けるだろう。
ならば、異国へ渡る方が、まだ人として生きられるのではないだろうか。
「……承知いたしました。私、アリステアはニルヴァーナ王国の魔術師長、トラヴィス様の婚約者として、貴国へ赴くことを受け入れます」
アリステアが決断した理由の全ては打算だった。
自分が今後生きていく上で、ほんの少しでも楽になる方へ流れてしまおうという、よくある動機。ただ自分が楽になりたい一心で、アリステアはこの話を受けた。
その瞬間、控え室の隅で静かに立っていたトラヴィスが、ふっと表情を崩した。それがあまりにも自然で、あまりにも素直な笑顔だった。
アリステアは思わず息を呑んだ。
「トラヴィス」
ライオネルが名を呼ぶと、トラヴィスははっとして顔を引き締めた。
「すみません、取り乱しました」
トラヴィスの表情が、すっと真顔に戻る。まるで、笑顔など最初からなかったかのように。
けれど、アリステアの胸には確かに残っていた。
自分の言葉でトラヴィスが笑顔になった。
それは、誰かに向けた外交的な笑顔ではなく、彼自身の感情がアリステアの言葉に反応した証だった。
自分の言葉で、誰かが笑ってくれたという事実は、アリステアの胸の奥に確かな熱を与えた。
エルヴァンには、一度も見せてもらえなかったもの。
彼は誰にでも笑顔を向けたが、最後まで自分には向けてくれなかった。
だからこそ、トラヴィスの今の笑顔は、アリステアの心を静かに震わせた。
驚きと興味。そして、ほんの少しのときめき。
彼は、本当の意味で自分を求めてくれるかもしれない。
そんな考えを覚えた時、自分は今まで誰かに……いや、エルヴァンに一度でいいから求められたいと思っていた自分がいたことを、ようやく認められた。
そして、エルヴァンに最後まで認められなかったことに対する悲しみを、ここに置いていく決意が出来た。
「……改めて、申し上げます。不束者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします。私にできることがあるのなら誠心誠意、努めさせていただきます」
「ご謙遜は、グランツェルの美徳と存じます。ですが、私にとってはあなたがそばにいてくださることこそが、最上の誉れ。アリステア様、どうかこれからの人生を共に歩ませてください。ニルヴァーナの民として、そして一人の男として、あなたを誇りに思います」
深々と頭を下げるアリステアに言葉を返してくれたのは、トラヴィスだった。アリステアが頭を元に戻すと、ニコニコしているトラヴィスと目が合う。
それがあまりにも素敵で、アリステアは顔を赤らめ、視線を下げてしまった。
初めて、彼女が王宮で感情を晒した瞬間だった。
「トラヴィス」
「ぐっ……すみません」
「ほっほっほ。若い者たちの色恋は、私には少し甘すぎるかな?」
「大変な失礼を……」
国王が朗らかに笑った後、ライオネルの謝罪を手で遮った。
国王の笑顔も初めて見るアリステアは、今まで受けてきた感情抑制の教育とは何だったのかと、疑問を抱いた。
「アリステア。大きな決断を受けてくれてありがとう。……おや、どうかしたかな」
「あ、いえ、ぼんやりしてしまい……。失礼しました」
「ああ。私が笑ったのが、意外だったかな?」
はい、そのとおりです。なんて言うわけにはいかず、アリステアはあいまいな表情で誤魔化した。
しかし、国王にはお見通しなようで、目を細められてしまった。
「グランツェルの血統魔法は、確かに感情を抑えることで安定する。だからこそ、我々は感情の抑制を美徳としている」
耳にタコができるほど、小さなころから聞いてきた事実だ。アリステアは頷く。
「だが、それは感情を持たないということではない。成熟した者は、場に応じて感情を切り替える術を身につけている。公の場では沈黙を守り、私室では笑い、時に涙を流す。それが、我が国の本当の大人の姿だ」
国王は、静かにアリステアを見つめる。
ここは控え室だ。公の場ではない。だが、隣国の王子であるライオネルがいる。だからこそ国王は、感情の切り替えを上手く使っている。
王として振舞うべき時は感情を抑制し、個人の場では笑い声をあげる。それが混合された場では、時を見て表情を抑え、見せる。
これこそがグランツェル王国民として理想の姿であり、まさにそれを体現して見せる国王はグランツェル王国の誇りだと、アリステアは畏怖した。
「君はまだ若い。だから、常に感情を抑えて生きるしかなかったのだろう。その方が粗相がなく、楽だと考えてしまうのも、その年ごろならばよくあることだ。だが、これからは違う。君がどこにいても、誰といても。君自身の感情を、少しずつでも、許してやってほしい」
「はい」
アリステアははっきりと返事したが、それは国王の言葉を呑み込めたからではない。
それでも、この言葉は自分の中で大切なものになるという予感は、確かにあった。
♢
壮絶な人生の分岐点に立たされてから、三日後。
ニルヴァーナ王国への道のりは、穏やかな陽光に包まれていた。
ライオネルが率いる視察団の帰還に同乗することとなったアリステアは、魔法馬車の中から窓の外を静かに眺めていた。
その隣に座るトラヴィスは、彼女に一切の距離を感じさせないほど自然に寄り添っている。
「寒くありませんか?」
「暖かいほどですので、大丈夫です」
暖かそうな毛布を取り出し、トラヴィスが膝にかけようとしてくれるのをアリステアは丁寧に断った。
「喉は乾いていませんか?」
「お気遣い、感謝します」
先ほど飲んだばかりなのに、もう飲み物を進めてくるトラヴィスにアリステアはまた、丁寧に断った。
「少し、緊張されていますか?」
「そう、ですね。少し」
これらの問いひとつひとつが、彼の気遣いであることは分かっている。
けれど、アリステアはこの距離感そのものに慣れることが出来ず、つい距離を置くような返事ばかりを返してしまっていた。
「……トラヴィス様は、どうして私を?」
ふと漏れた問いに、トラヴィスは少しだけ目を伏せた。
「ギーシェ殿から、あなたのことを聞いたんです。男の人は、あんな風に感情を伝えるのですねと、戸惑いながらも言っていたと。覚えていますか?」
詳しい時期は覚えていないが、その言葉を口にしたことは、アリステアも覚えている。
学園に通うようになり、エルヴァンの奔放さをどうにか諫めなくてはと、まだ己の使命を感じていた時期のことだ。
その日は王宮へ呼び出されていたので、学園を休んで用事を済ませていた時だ。
「アリステア様、学園生活はどうですか」
たまたま王宮の廊下で出会ったギーシェが、そういって声をかけてきたのがきっかけだった。
彼の存在や立場は十分に理解していたアリステアだが、だからこそ、今まで話す機会はなかった。
相手は常に王族の誰かを護衛するために忙しくしており、仕事中に無駄口を叩くような人物ではない。
エルヴァンが王族で、アリステアはその婚約者だったので、エルヴァンの護衛のついでとして自分も守られる立場ではあったが、言葉を交わしたことは一度もなかった。
そんな彼が、たまたますれ違っただけの自分を認知しているだけでなく、他愛ない会話を振ってきたという事実に大いに驚いたことは、今でも鮮明に思い出せるほどだ。
それぐらい、アリステアにとってギーシェに声をかけられるというのは衝撃だった。
「覚えています。ですが、その……まさか、ギーシェ様が私の言葉を覚えているとは……」
「ギーシェ殿はいい人ですよ。多分、グランツェル王国で一番無表情な男だとは思いますが、他者に冷たいわけでも、ましてや無関心なわけでもないと、俺……あ、私は思います」
うっかり素が出そうになったことに、トラヴィスは慌てて一人称を直す。
その姿が無性に面白くて、アリステアはほんの少しだけ頬を緩めた。
それから、トラヴィスの言葉は自分に向けているようだなとも思った。
無表情は無関心の裏返しではないという言葉は、まさにアリステアにも当てはまることだったから、勝手にそう感じてしまったのかもしれない。
「ギーシェからそのことを聞いて、私は勝手ながら、あなたは我が国の空気の方が合うのではないかと思っていました。第三王子の噂も色々耳にしていたので」
アリステアは、少しだけ目を見開いた。
「……エルヴァン様のこと、知っているんですね」
「はい。学園での振る舞いは、我々の耳にも届いていました。その……正直に申し上げると、話を聞いた限りでは、エルヴァン様の言動はニルヴァーナではごく一般的な愛情表現の範疇です。ですが、グランツェル王国の文化においては、それが非常に不快な行動であるということは、十分に理解しているけど……でも、個人的には――」
トラヴィスは苦笑した。
崩れ始める口調をどうにか直しながら、それでも想いを伝えようとしてくれる。
「あなたが、ああ言った感情表現を不愉快だと思っているなら、私は同じことをしたくありません。私はあなたにとって、心地よい距離でいたい。だから、聞かせてください。私が感情を出しても、あなたは……嫌じゃないですか?」
その問いはまるで告白のようで、アリステアは答えをすぐには出せなかった。
けれど、彼の聞こうとする姿勢に、心が温かくなるのを確かに感じた。
♢
魔法馬車が静かに揺れながら、国境の標を越えた。
外で護衛を務めていた騎士の一人が、馬車の窓越しに合図を送る。
「ニルヴァーナ王国領に入りました」
その言葉を聞いた瞬間、トラヴィスの肩がふっと緩んだ。
彼は背筋を伸ばし、アリステアの方へとゆっくりと顔を向ける。
「……もう、いいか? 国境を越えたんだし、ここからはニルヴァーナ流でいいよな? いつもの俺でいい?」
その声は、今までの冷静で礼儀正しいものとは違っていた。
少し乱暴にも聞こえる言葉使いに、アリステアは目を見開く。
今まで、彼女の周りにこのような言葉遣いの人物は一人もいなかったため、どうすればいいのか分からない。
「アリステア様。いや、様なんてもうつけなくていいよな? 正式に俺の婚約者なんだから。ね、アリステア?」
耳元でそう囁くトラヴィスは、まるで別人のようだった。
外交の仮面を脱ぎ捨てた彼は感情を隠すことなく、真っ直ぐに思いの丈をぶつけてくるので、アリステアはくらくらした。
「綺麗だよ、アリステア。あー、ずっと言いたかったんだよな、綺麗だって。でも、グランツェルでは言えなかった。言ったら、外交問題待ったなしだからさ」
エルヴァンの婚約者に、ニルヴァーナの魔術師長が綺麗だよと言った、なんて話が広まれば、大問題どころではない。
特に、グランツェルではそういった言葉は愛の告白に近いとされるため、公の場で言うことに否定的であるのは無論のこと、他国の王子の婚約者に愛の告白など、論外である。
「アリステアのことは昔から知ってる。それは、お互いにそうだよな?」
トラヴィスの問いかけに、アリステアは頷く。
ニルヴァーナからの視察はよくあることで、王族の護衛にトラヴィスも一緒に来ていることが多い。
だから、言葉を交わしたことはなくとも、お互いに顔見知りであるという認識なのは、間違いじゃない。
「ギーシェからアリステアのことを聞いて、気になってたんだよ。んで、見かける度に目で追ってると、ほんっと綺麗でさ……。所作とかもそうだけど、そっと見せる優しさがすんっごい可愛いの」
可愛いとまで言われ、アリステアは完全に固まってしまった。
彼の言葉は、まるでエルヴァンのそれに似ている。
けれど、あくまでも言動が似ているだけで、中身は何もかもが違った。
「これからは、たくさん言うよ。綺麗だって、可愛いって、好きだって。でも、こういうのが嫌だったら、ちゃんと教えて? 俺は、アリステアの気持ちを一番に考えたい」
トラヴィスの言葉は、常に自分だけに向けられている。
彼女の反応を気にして、距離を測りながら、それでも伝えようとする誠実さがあった。
これらの言葉に、そして思いやりに、アリステアは胸の奥が熱くなっていくのを感じていた。
好きと言われることが、こんなにも優しく響くなんて――。
アリステアはこの感情に名前をつけられなかったが、とにかく恥ずかしくて、そして嬉しかった。
♢
ニルヴァーナ王国へ移住してから、早くも二週間が経った。
朝の光が差し込む書斎で、アリステアは外交文書の整理をしている。隣室では、同じようにトラヴィスも机に向かっていることだろう。
この部屋も、彼との生活も、まだ慣れきってはいない。それでも、静けさと穏やかさがここにはあって、アリステアにはこれがすごく心地の良いものであった。
「アリステア様、手紙が届いております」
ノックをしてから部屋に入ってきた執事が控えめに声をかけ、銀盆に乗せた一通の封筒を差し出した。
「差出人は……エルヴァン様です」
その名を聞いた瞬間、空気がわずかに揺れた。アリステアは手を止め、封筒を見つめる。
執事がこちらを気にしているので、封筒を受け取って下がるように伝えれば、一礼して部屋を出ていった。
執事が出ていったことを確認してから、封筒を開ける。中にはどこにでもあるような白い便せんに、滲んだインクで宛名が書かれていた。
王族が用いていた格式高い文様も、封蝋もない。
何故、こんなみすぼらしいものを使って手紙を送ってきたのか、アリステアにはよくわからなかったが、彼女は無言で封を切った。
『アリステアは冷静で感情を嫌うから、愛を囁くと嫌われると思っていた』
『婚約者だからこそ、軽々しく愛を口にするべきではないと思った』
『そんな僕をどうか許してほしい。もう一度、やり直すチャンスをくれないか?』
手紙には長々と綴られた言い訳と、過去への未練が滲む文字が並んでいた。
アリステアはこれを見て、エルヴァンという人物が、自分にだけは愛を囁いてこなかった理由が見えてきた気がした。
彼は愛を囁かなかったのではなく、囁けなかったのではないか。
これが、アリステアの出した答えだった。
この二週間、トラヴィスの思いを一心に受け取っているアリステアは、学園生活時代のエルヴァンの言葉が、如何に上っ面だけであったかを知った。
残念ながら、当時はそれを見抜けなかった。しかし、実際に経験してしまえば、なんて簡単なことだったのだろうとアリステアは脱力するほどだ。
エルヴァンは自分でも、自分の言葉が上っ面だけのものであるという自覚があったのだろう。だから、アリステアに囁けばそれが嘘だとバレてしまう。
それが怖くて、彼はアリステアにだけは言えなかったのだ。
「自分が大事なだけの人だったのね」
アリステアはそう呟くと、手紙を静かに折り、立ち上がってゴミ箱へ向かった。
何の躊躇もなく、それを投げ入れる。紙が底に落ちる音だけが、部屋に響いた。
そのすぐ後に、再び扉がノックされた。
「アリステア様、トラヴィス様がお呼びです」
「分かりました。すぐに行くと伝えておいてください」
「かしこまりました」
言伝を侍女に託し、アリステアは軽く机の上を整理してから、部屋を後にした。
♢
トラヴィスの書斎に呼ばれたアリステアは、彼の机の上に広げられた文書に目を落とした。
それは、グランツェル王国からニルヴァーナ王国へ送られた正式な外交文書だった。
「……第三王子除籍に伴う、外交的影響の整理」
その一文を見た瞬間、アリステアは静かに息を吐いた。
外交文書には、王家の血統に関する調査結果と、除籍処分の経緯が簡潔に記されていた。
エルヴァンはもう、王子ではない。
だから、先ほど届いた手紙には王族が用いていた格式高い文様も、封蝋もなかったのだ。
エルヴァンの手紙の中には、平民に落ちたなどの文章はなかった。
見栄を張るためだったのか、その事実を知ったらアリステアは戻ってこないと思ったからなのかは、もう分からない。
ただ、もう二度と関わることのないアリステアにとっては些細なことだった。
「見せるべきか迷ったけど……。これは、アリステアの仕事にも関わることだから」
トラヴィスの声は柔らかかった。
彼は、アリステアの心を気遣いながらも、彼女の立場を尊重していた。
そして、外交文書の下にはもう一通の封筒が置かれていた。
差出人は、グランツェル王国魔術師長のギーシェからだ。
「これは、俺宛に届いた私信。最後に、アリステアへの言葉が添えられてた」
トラヴィスの確認を取り、アリステアは封を開けてギーシェの筆跡を目で追った。
そこには冷静で、かつ簡潔な文体で、今回の調査と処分の経緯が記されていた。
そして、最後にこう綴られていた。
『アリステア様は、王家の誇りを守ってくださった恩人です。婚約者としての十年間。何より、学生生活における三年間は特に感情を抑え、礼節を守り続けてくださったことが、王家の名誉を守る盾となりました。この言葉を、どうかトラヴィス殿よりお伝えいただければ幸いです』
アリステアは、手紙を静かに閉じた。
胸の奥に、何かがほどけていく感覚があった。
あの三年間は、無駄ではなかった。
誰にも見られていないと思っていた努力が、確かに誰かの目に届いていた。
「……無駄では、なかったのですね」
アリステアの零した言葉に、トラヴィスは微笑んだ。
そっと彼女の手を取り、熱を分けてくれる。
「俺は、あなたの努力も、あなたの静けさも、その全部が好きだ。これからはアリステアが、毎日が幸せだと思える日々を生きていけるように、俺が隣にいる」
アリステアは、初めて自分から彼の手を握り返した。
その手は大きくて、確かにアリステアを包み込んでくれていた。
窓の外には、ニルヴァーナ王国の穏やかな陽光が広がっていた。
そうしてアリステアの心にも、ようやく光が差し込んだ。




