第二話
角を曲がり店主の見える範囲から離れ、周囲に人影がないことを確認したところで隠蔽の魔方陣を使って魔女は幻が消えるように姿を隠した。人間には教えていない魔女特製の魔方陣を懐で作動させている。
魔女は自分が開発した魔方陣のいくつかは人間側にも教えてやっていた。特に自分でおおっぴらに使いたいものは積極的に開示している。だがこういう隠蔽や隠匿、幻覚や一部の強力すぎる攻撃魔法などは教えていない。人間たちも独自に魔法を研究していることから、教わらずとも似たような魔法の開発に成功はしている。だが費やした時間と経験が違う魔女のレベルに到達するには届いていない。……というか、優位性を守るために魔女が優れた研究者に対して脅威を与えて研究を禁忌にさせたり、それでも止まらなければ研究者ごと焼き尽くして処分もしている。それが必要と魔女が判断したら躊躇なく行動に移すのが魔女のやり方だ。
ドンドン!
「……いるー?もしもーし!」
魔女はその分身から一旦意識を抜いて、別の分身へ移した。
魔女の本体はずっと動かず横たわったままだが、意識は自由に分身を移動できる。思考や行動は分身が自律的に行えるし重要な情報は共有できるようになってはいるが、さすがに全て統合して行動させるのは疲れるのでやらない。こういうやり方も魔女が長年試行錯誤して体得してきた。
分身を生み出すのに十数年。
分身の思考を平行して動かすのに数十年。
分身を千体まで増やすまで百年。
分身の効率的な制御方法として階級的な分身の区分と重要度の区割りを編み出すまで二百年。
特に意識せず全てを自然に動かせるようになれたのはここ二百年くらいだった。しかし前述したようにトーキョーでは分身同士での通信や意思疎通は魔力関知に引っかかる恐れが高いのでおいそれとはできない。
魔女は隠蔽を維持したまま一旦自らを空中へ飛ばした。……今の常識ではドローンで空を飛ぶ際には一定の高さ以上に飛んではならないとされているが、彼女に取ってみれば最近の決まり事に過ぎない。身を隠している間はお構いなしだ。あっという間にその身体は勢いよく高空へと達した。ここまで来れば探知にも引っかからないだろう。
空に飛ばした分身はそのままに、魔女は副人格も植え付けている重要度の高い分身に意識を移した。そこは魔女が比較的愛着も感じ庇護も行っている集落、『カツウラ』だ。
肥沃な土と遠浅の海岸に恵まれ、気候も温暖で穏やか。農業と漁業が盛んであり、世間の趨勢である「魔力さえあれば遊んで暮らせる」風習から遠く、人々が労働に汗を流して地面に足をつけて地道に暮らしているところだ。
ここでも魔力電池は広まっており、やはり価値の基準は魔力に準拠している。だが産品の出荷で対価で得られるのが魔力であり、生活に欠かせない便利な機器の動力として魔力が重宝しているのであるので、基本的な生活自体は自給自足であれば魔力なしでもできるところでもある。むしろ魔力に酔って自分の魔力量を自慢して偉ぶる都市の住人はここには近寄りもしない。物流の都合上運搬ドローンは頻繁にやってくるが、彼らにとっては時代遅れの生活は見下す対象であった。トーキョーから見ればここは魔力を持たない連中が泥まみれの仕事を安い報酬で請け負っている収奪されし生産地という扱いとなっている。
「ねえねえ、いないのー!?」
魔女はこういう昔ながらの人間たちの生活が性に合っていた。魔法の恩恵も受けるけれども基本は変わらない彼ら。魔女の分身はここでは偽の名前と履歴を作って彼らに溶け込む生活を送っていた。仮の名前は『アイビー』。都市での生活に疲れて引っ越してきた魔法教師として移り住んできた、ことにしてある。
こちらに意識を移した理由は彼女の懇意にしている宿屋の女将が訪ねてきたからだ。さっきから呼びかけが……うるさい。
「アイビー!いるかい!いたら返事して!」
「どうしたのよデイジー。いつも以上に興奮した声でどうしたの?」
アイビーが住んでいる屋敷の玄関をけたたましい音を立てて勢いよく開けてきたのは『デイジー』。ここにアイビーがやってきた頃から昵懇にしている人である。
カツウラで公益に来る商人を主に相手にする宿屋と食堂を経営している豪気でさっぱりした性格の女性だ。けんかっ早く、酒癖も悪く、だが良くも悪くも禍根を翌日に持ち越さない気っ風のいい好人物でもある。十数人の従業員を抱えて事業をしているが、その性格もあり金払いのいい女将として評判もいい。……ことあるごとに理由をつけて嫌がる従業員と飲んで騒ぐのが悪評にはなってはいたが、それも愛嬌として笑い話になってしまうのが彼女だ。
「なぁに、また寝てたの?いっつも寝てんわね、あんた」
「おかげさまでね。ありがたいことに魔力は多い方だからやっていけてるよ」
「はぁ、魔力で遊んで暮らせるってか。そりゃあうらやましいことで。あたしは魔力を持ってないからお仕事しなきゃ飢え死にしちゃうんだけど」
「またそれかぁ、わたしはトーキョーの暮らしがなじめないからこっちに越してきたんだもの。魔力に頼らず仕事で稼ぐ人が好きだからここにいるのよ。何度言わせるのよ」
これは嘘偽らない真実だ。たまに真実を入れないと作り話が怪しくなる。
「わかってるって!言ってみただけ!」
デイジーは笑いながら背中をすごい勢いでバンバン叩いた。加減を知らない力には未だに慣れない。最初にこれを食らったときは危なく周囲に反発力場を張る魔方陣を展開させるところだった。彼女は良くも悪くもこういうところがある。それを理解している今は苦笑しながら我慢した。
「痛いってば。いつになったら加減を覚えるのよ。で、急な用事って何?」
「あーそれそれ!大変なんだって!アイラがグレンにとうとう告るって言い出したの!」
それを聞いてアイビーの目がらんらんと光った。善き人間が増えて欲しい魔女にとっては、人間たちの色恋沙汰は大好物だ。自身に対する欲望に任せた性行為には嫌な思い出しかないが、愛する恋人たちの睦まじい行いは見ていても楽しい。
「よく知らせてくれたわデイジー!それは一大事!」
「でしょ!ついに来たかーって感じよ!」
「こうしちゃいられないわ!案内しなさいデイジー!」
アイビーは珍しく顔を紅潮させ、鼻息を荒くする。……なおこれは魔女が血圧をコントロールし肉体を活動的にさせるため意図的にやっているのだが。
二人は手を引きながらアイビーの居宅をあとにして、港近くの現場に向かった。ドローンで空を飛べばすぐなのだが、アイビーはデイジーに配慮して律儀に早足で向かう。緊急事態とまではいかないのでこれでいい。
場所は港であるらしい。二人が到着するとすでに人だかりができていた。陽気な住人が多いので、野次馬にも事欠かない。
近づくと囲んでいる一人が声をあげた。
「魔女さまだ!みんな空けろ!お通ししろ!」
それを聞くと群衆が音を立てて道を空けた。彼女は尊敬と共に慕われている。
すぐに中央にいる男女の姿が目に飛び込んできた。
小柄ではあるが日に焼けて浅黒い肌の健康的な女性。そしておなじく日に焼けてはいるもののそこまで焼けてはいない、おとなしそうな表情に反して身体が大きく筋肉質な男性。
……どうやら一番見たかったシーンは終わってしまった様子。男性が女性の頭をなでて抱擁している。
アイビーはあからさまに不満そうな表情。
「なぁにぃ!もう終わっちゃったのぉ!せっかく飛んできたってのに!」
それを聞いてうっとりしつつ抱擁されているアイラが頭を少し動かしてそちらを見た。
「……相変わらずだなぁ、何でもかんでも面白がるのはどうなのよ。こっちは必死だったのにさぁ」
「あはは、ここらしくていいじゃないか」
抱き寄せているグレンが彼女の頭を優しくなで続けながらそう返した。
「確かにカツウラはそういうとこかもしれないけどさぁ、そうじゃないんだよぉ……ばかぁ」
口を尖らせるアイラと、それをなだめるグレン。そして二人は見つめ合い、何度目かになるキスを交わした。
周囲の群衆がそれをはやし立て口笛を鳴らす。
「よっ!いいぞご両人-!もっとやれぇー!」
「アイビーさぁ……自分が尊敬されている魔女だって自覚ある?」
デイジーにあきれ顔で指摘されると、ふてくされるどころか人なつっこい笑顔で彼女は答えた。
「なにさ、文句ある?わたしはこういう女よ!魔女だからこうあるべしとか知ったことか!」
……実を言えば彼女は周囲の状況や風習に極度に自分から寄せていくのが好みではない。これも長く生きてきた中で身についてきたことだ。アイビーのような別人格を用意する際には、努めて明るい性格にすることが多かった。自らの本質から遠ざけた方がやりやすかったからだ。この性格も魔女らしからぬ性格が災いして都会にいられなくなって、ここにやってきたという設定から逆算して決めているところがある。ある程度は破天荒に振る舞わねばかえって不自然になる。
……かくして、カツウラは今日も平和であった。
主役の二人はいい雰囲気のまま手をつないで帰って行った。それに伴って街の人々も散っていき、どんどんと人気が少なくなる。夕暮れも深まり、徐々に暗くなっていた。
「じゃあ、あたしらも戻ろっか。まだ仕込みとか残ってるし、遊んでたらまずいからね」
「わたしはもう少し涼みがてら帰るよ。なんせ仕事をしなくても食べていけますから」
「この遊び人が!ほんっとずるいわ。……じゃあお先にね」
デイジーは手を振りながら去って行く。
アイビーは動かず佇んでいた。
……そうではない。彼女は動かないのだ。
もはやそれはもうアイビーではなく、不死の魔女そのものであった。副人格を一旦収納し、本体が表に出ている。
そこには音もなく誰の目にも見えない分身たちが集まってくる。その数はどんどんと増えていく。魔女の姿をした分身が寄ってくる景色は、認識できる者にとっては極めて異質であろう。だがそれを認識できるのは、魔女当人だけだ。彼女が使っている隠匿の魔方陣を、分身たちは全員が作動させている。魔力も恐ろしく消費するし、その魔法技術もとんでもないことから人間の理屈ではあり得ないことが魔女にだけは存在しうる。
ここにきて魔女は、分身をカツウラに住んでいる全員に張り付かせることができるまでになった。これもまた当たり前だが魔女しか知らない。
その目的は彼らの監視と誘導だ。ある程度有用であると魔女が判断した人間には陰から支援を与えたり、逆に悪意を抱いていると判断した場合には加減をして罰も与えている。なんとも傲慢で尊大な行動ではあるが、永く生きる魔女にとってはこれが行き着いた一つの結論なのである。
これはカツウラだけではなく、トーキョーの主要人物にも張り付かせている。ただこちらは情報のやりとりが困難であるため、情報を蓄積させて監視しているだけだ。しかし分身同士の伝達である程度の情報は共有されており、それもこういう機会に魔女に共有される。
なお、人類の間にはそんなことがあるとは本当に誰も想像だにしていない。当たり前だ、それだけの魔力を運用できる存在がそもそも想像できる範囲の外にあるのだから。
分身たちが集まってくる。カツウラに現在居住している人間は12253人。それらに同数の分身が彼らに知らせないまま日々を共にしている。
現在は主人格の魔女の求めに応じ、階級に応じて情報を統合させた分身が選抜して集まってきている。全てを抜いてしまうと監視に支障を来すためだ。それでも分身1200人分が一カ所に集まってくるのは壮観である。……魔女にしか認知できないが。
分身たちが魔女自身に近づいてはすれ違いつつ囁くような行動をして去って行く。得られた情報を統合して集約するためだ。取るに足らない些末な情報は省き、魔女にとって必要であると思われる情報が選抜して伝えられていく。
カツウラで前回報告から産まれた人間は男児三人、女児四人。死んだのは男性四人、女性二人。増減としては許容範囲内。
新たに加わった住人が三人、一世帯。他から移住してきた家族、移住元から追跡しているので身元は大丈夫。
結婚したのは先ほどの二人。女性の体内に命が宿っている。受胎した瞬間も確認済み。……因みにさっきのやりとりも分身が余すことなく会話や行動を情報として記録しているが、これは『アイビー』が知り得ないものなので封印して受け渡しされている。副人格には認知できない。
その他街の外から入ってきたのは交易商人が16人。全員出入りを確認しており定住はしていない。なお全員が過去にやって来た履歴があるので分身が付いている。トーキョーに戻った間の情報も全て記録している。トーキョーでの交流関係もチェックされていて、主要な人物にはこれまた分身が付いている。それらも主要な記録は魔女に報告されている。
周囲を警戒したり自然災害に備えている分身もやってきている。現在、大陸全土に渡って大規模災害に対して目立った兆候はない。地殻の歪みも想定内であり、早期に地殻変動を小規模に発生させて修正する必要もないようだ。天候も穏やかで気流や海流をいじる必要はない。
情報共有が進み、分身たちは再び自らの監視対象に戻っていく。あれほど集っていた分身たちも見る間に消えていった。
魔女は再び単独になり、人格もアイビーに戻る。
「……さてと、帰りますか」
彼女は可愛らしく背伸びをして、すたすたと自分の家に戻っていった。




