上州記 001 ~温泉文化のユネスコ無形文化遺産推進記念~
〈謝辞〉
源泉を恵与したまふ某県の政治家および行政に感謝を捧げたし。
彼らの存在なくんば、小さな湯桶のごときこの掌編は、湯一滴も地上に湧出せざりき。
アンガトネエ
湯端温泉。
この温泉名、最高。
最高なので、別に替えることなぞ不可能だ。
上州は温泉の国、温泉大国。
として天下に名高い。
――などと誇称しているのは、実は州民ばかりなのだが。
そもそも、あなただって地図上で、上州のおおよその場所を指すことができますか?
たとえ、州境の記された地図であったとしても、上州を正しく選択できる帝国民がどれほどいましょうか?(まして、州民の心に深く刻まれているらしき「鶴舞う形の上州」などという美称においてをや)。
――とりあえず、湯端温泉という名前のすばらしさを知るために、往古より上州で繁栄を極めている(とされる)二大温泉地の名称について、いざ見てみむ。
一、伊香保温泉
伊香保。
旅心を誘う、美しい文字である。
だが、元々は温泉の湧く山の古名にすぎない。扶桑帝国の遥か西域、空見つヤマトの地に大王の宮が誕生した古より、この山は「いかほろ」「いかほのねろ」。
山上にたたえられた青き湖は「いかほ沼」。
と呼ばれていた。その意味では歴史ゆかしき地名である(〇どり市なんかひどいもんじゃん?)。
しかし、実は「いかほ」の名は破壊と恐怖に由来する。
古代は火山活動が凄まじかったのである。それまで山麓を開墾して大邸宅を構え、埴輪の林立する大古墳群を築き、大陸由来の金銀宝玉を凝らした品々や牛馬をあまた貯え、蟠踞していた豪族が死滅したほどである。
山上の美しい湖は、大噴火後に雨水の溜まったカルデラである。
語そのものを見ても、「いか」とは怒り。
雷の「いか」。
厳ついの「いか」。
「ほ」は尾根の「尾」、あるいは高き峰を指す「ほ」(穂高のほ、高尾のお)と考えられまいか。
つまり、伊香保の意味は「怒りの山」「恐ろしき山」。
近年の流行に倣えば、次の名称が最適であろうか。
「死に山温泉」
‥‥‥。
つぎ。
一、草津温泉
草津。
こちらも語感・漢字、共に好ましい。好き字、佳き音哉。
しかし、今も州民に「くさづ」と呼ぶ故老がいるように、実は元の意味は「臭い水」である。
「づ」とは水のこと。現代語の水は「づ」に美称・尊称の「み」が付いたものである(同じ構造の単語として、岬、峰などがある)。
だから、読みとしては「くさづ」が正しい。
くさづ。
意味はもちろん、クサイ水、に他ならない。
ひどい、と反論されるかもしれないが、訪れた者は首肯するしかないであろう。かの地は一歩でも踏み入れれば、硫黄臭――もとい腐臭、具体的に言えば、茹で玉子の腐った臭いのふんぷんたる窪地なのだから。
全お客様の脳内をよぎる感想は「くっさ!」のはずである。
「くっさ!」「くっさ!」「くっさ!」
つまり、草津温泉の根本的な意味は次のようなものであろう。
臭い水温泉、もとい、「腐ってる水温泉」。
「死に山温泉」、「腐ってる水温泉」
‥‥‥。
賢明なる読者諸子よ、あなた方にはもっと過激な名称が浮かんだかもしれないが、中庸を座右の銘とする私はここまでに留めておく。
また、繰り返して言っておく。前記は学術的な知見に基づいた地名考である、と。
あ、あと、私の好きな言葉は「汝の敵を愛せよ」です。聖書の福音書にあるキリストの言葉、だよ??
――ふう。(熱いドクダミ茶を喫しながら、戯文を綴っている)
罵詈雑言を吐いたくせに、なぜビビっているのか?
それは、温泉業が上州の主要産業の一つだからにほかならない。げに恐ろしきは経済力なのである。
たとえば、地元バンク、上州銀行の広報誌の表紙を飾るのは、某温泉のシンボル「湯畑」。
地元メディア、上州新聞や上州テレビで定期的に取り上げられるのは、某温泉のシンボル「石段街」。
この惑星全体を疫癘が流行し、州をまたいでの移動すら禁止された時。未曽有の危機に立ち向かうために実施された緊急政策。それは「温泉へ行こう」。
未来ノ人ヘ(宇宙人かもしれないが)
本当ダヨ
州内各地にあまた自噴する源泉かけ流しの温泉にゆったりと浸かり、美しき風景を愛で、州産の豊かで美味なる食に舌鼓を打った州民は、公金で割引されたノデス。
温泉を中心に力強く渦巻いているのは金力だけではない。
温泉町からは閣僚、国会議員、州知事、州都の首長。隣の町(著名な温泉郷あり)からも閣僚、のみならず総理大臣。また、近隣地域からは3名もの総理大臣を輩出しているのである。政治力。
――ふう。(冷めてきたドクダミ茶を喫するものの、手は止まっている)
いいなあ、湯畑。
ゆ、ば、た、け、だよ?
普通、畑といったら、麦や野菜を作るものだよ。
それなのに、豊富な湯がたっぷりと湧いてくる。都から遠く、冬期は厳寒、雪により住めない(〈注〉近世以前)ほどの高地にも関わらず、戦国時代も旅人は千客万来。貴人大名庶民文人墨客多数入湯。そりゃあ、「湯畑」なんていう、げに珍しき語の存在も納得、納得。
榛名山の石段街だって、湯けむり立つ温泉が、階段の脇をざあざあと音を立てて、豊富に流れている。ざあざあ、とだよ? そして、眼下には坂東太郎なる利根川の、アーネスト・サトウも激賞したという谷間。向かいには雄大な赤城山の絶景が広がる。
(ところで、松尾芭蕉もイザベラ・バードも、なぜか上州を旅していない。なにゆえ? 不可思議千万。彼らの高雅な文学作品のためにも、実に惜しむべきこと哉)。
‥‥‥。
(――このドクダミ茶、自分には合わないみたい、捨ててこよ)
筑波山
日光男体山
日光白根山
赤城山
燧ヶ岳
尾瀬
武尊山
谷川岳連峰
榛名山
岩菅山(奥志賀高原)
烏帽子岳
草津白根山
浅間山
妙義山
荒船山
蓼科山(北八ヶ岳)
西御荷鉾山
これは湯端温泉を麓に有する牛伏山にて、頂上から望める関東信越の主な山々を、日の上がる方より沈む方へ順に書き上げたものである。
尾瀬とは正確には尾瀬にある「西山」である。しかし、尾瀬の山域、尾瀬の空が見える、と考えれば気持ちいいではないか。そのために押し通したい。
平野部からでも山々を望むことができる。特に丘陵のトップでは、多くの山々をぐるりと一望できる。
なかでも、武尊山は一推しの山である。
有名な山ではないが、実は上州の高峰である。
州都および中毛の住民の誇ること誇る、かの「赤城山」よりも高いのである。なお、州都ムマヤハシ――扶桑帝国一の高さを誇る州庁舎が傲然と屹立する。ところが、上州銀行本社も上州新聞本社も、国営放送FHK上州支局も、すべて広い利根川の向こう岸に位置する。新幹線駅もなければ、高速道路インターもない、という謎の町――の中心部においては、赤城山の最高峰であり、天気(北毛のも、平野部のも)よくわかる黒檜山は見えない。見えないのである。
さらにいえば、武尊山は、水や清酒の名前にも採用されている「谷川岳」よりも、その頂きは高い。
剣が峰、前武尊などの峰々の連なる偉容、英姿。
ホタカ。
無名ながら、称えられるべき上州の山の一座である。
浅間山。谷川岳。武尊山。
いずれも天からの贈り物、純なる白雪を戴いて輝く山岳なり。
日日に眼を洗ってくれるが如き銀嶺の美しさ。
ご遊覧あれぞかし、温泉と山野の上州へ――。
(擱筆)
〈補記〉
別のゴミ捨て場で拾われた古記録によれば、このフザケタ文は、太陽と海原の織り成す壮大な光景、岩や磯による奇しき景勝。
それらを楽しみ、海辺の友人宅にて山海の幸をさまざまに賞味した後に擱筆したという。
結句は次の六字なるらし。
嗚 呼 極 楽 極 楽