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第九十一話 宝物

 雪解けの水溜まりに白い満月が浮かぶ。

 住宅街の外れにそびえ立つやたら敷地の広い洋風の館。その建物は魔女の館のように夜の闇に紛れてそこにあった。入口の鉄格子が街灯に照らされ鈍色に輝く。裏庭に十字架の墓でも建っていそうな雰囲気だ、と花は思った。

 塀の陰に隠れ、道路を挟んだ向かいに側から様子を窺う。教室を飛び出してからというもの、彼女の心臓は早鐘(はやがね)を打ち続けていた。追い掛けてきた二人は目の前の屋敷に吸い込まれて以来、一向に出て来る気配がない。


 《あの子はバケモノだ。あの目を、あの声を思い出すだけで寒気がする》


 幼馴染に聞いた話が本当であれば、転校生がいつ何をするか分かったものではない。

 二人が入ってからどれ位経っただろうか。彼女はゴクリと唾を飲んだ。ひと悶着あるなら物音の一つぐらい聞こえてきて欲しいものだが、実際は嫌なくらいに静まり返っていて、近くの街路樹がそよぐ音しか聞こえないのがかえって不気味に感じた。


 《大丈夫。僕が全部何とかするから》

 《花ちゃんを巻き込みたくない》


 ふと、昨日の幼馴染の言葉が脳裏を過ぎる。


 (ごめん、将。やっぱり放って置けない)


 拳を握り締め、花は足を踏み出した。

 雪解けの水が跳ねる。水溜まりが波紋を描き、青白い月が揺らぐ。


 屋敷の前に辿り着いたものの、鉄格子の奥は暗くてよく見えなかった。本当にこんな家に住んでいるのだろうか――彼女が視線を泳がせると、門の片隅には確かに彼女の知る転校生の苗字が刻まれていた。

 インターホンの前に立ち、すぅ、と深く息を吸う。ベルを一度だけ鳴らす。回線が繋がった音がすると同時に、彼女はあの、と声を振り絞った。


 「突然押し掛けてごめん。クラスメイトの神崎花だけど」


 返事はない。


 「あ、あのさ。プリント、担任が渡して来いって、城ヶ崎さんにさ。人遣い荒い担任だよな、あはは」


 返事はなく、物音一つ聞こえなかった。

 しかし数刻後、入口を閉ざす厳重な門はひとりでにゆっくりと開いていく。


 彼女は恐る恐る屋敷の中へと足を踏み入れた。


 「あのー。城ヶ崎さん……?」


 植物の生い茂る庭を通り抜け、館の扉を開ける。薄暗いエントランスホールから周囲を見渡してみたが、人の気配がしなかった。脚の隙間を冷風が通り抜けていく。到底家の中とは思えない温度だった。呼びかける声は虚しく反響し、二人の居場所は分からない。

 大体の部屋を回り終えたところで窓の外を見やると、離れの温室だろうか、ガラス張りの建物を見つけた。


 (もしかしたら、あの部屋に)


 彼女は裏庭へ急いだ。必ず見つけ出してやる――彼女は拳に力を籠めた。


 (ここで最後だな)


 ガラス部屋の内側は植物に覆われていてよく見えなかった。

 ドアノブを握る彼女の手に汗が滲む。


 《大丈夫。僕が全部何とかするから》

 《花ちゃんを巻き込みたくない》


 「ごめん、将」


 小さく呟いた声は誰に届くこともなく、突然吹いた風に掻き消されていく。

 扉を開けて目に入った光景は、凄絶なものだった。


 二階分はある高い天井に向かってツル植物が葉を茂らせている。鉢植えには色とりどりの花が咲き、季節外れの生暖かい空気がふわりと押し寄せて来る。地面には多色の花びらが散り、何種類も混ざった花の香りが鼻腔をくすぐった。

 キィと音を立てて揺れる消えたランプ。白い丸テーブルの上から滴り落ちる黒い液体。飲みかけの珈琲は地面に円い黒染みを描き、地面の上で割れた食器の欠片が散り散りになっていた。

 テーブルの上に伏して眠るその人物は、彼女のよく知る後ろ姿で――


 「将……!」


 彼の元へ駆け寄る。未だ温もりの残る肩を掴み、「将! 将!」長い前髪を掻き分け、「しっかりしろよ、おい!」彼の顔を覗き込む。「何があった?」虚ろな瞳は何も映していない。「なあ、返事しろって」唇から黒い液体が一筋の痕を描き、「なあ、答えてくれよ。なあってば!」縋った彼の身体から心臓の拍動は感じられない。


 「なあ……何でだよ……」


 彼女は膝から崩れ落ちた。テーブルから零れた珈琲がポタリと指の先に落ちた。冷え切った黒い液体からは香ばしい豆の香りと何重にも折り重なった甘い花の香りがして、肺の奥を侵食していくそれに彼女は吐き気を催した。

 感情が現実の理解を阻む中、頭の奥に残された理性は現状を正しく把握していた。


 幼馴染はもうかえってこないのだ、と。


 《よかった。花ちゃんが花ちゃんのままで》


 自分は幼馴染を守れなかったのだ、と。


 《花ちゃんが大事だからに決まってるだろ!》


 彼女は僅かに温もりの残った幼馴染の身体に縋って泣いた。

 すぐ背後に、危険が迫っていることにも気がつかずに。


 「……来たな。悪い魔女」


 低い声で呟いた声の主は、両手で握った短剣を大きく振りかぶり、そのまま勢いよく振り下ろすが――


―――――――――――

第九十一話 宝物

―――――――――――


 城ヶ崎永愛。年が明けてすぐ転校してきたクラスメイトはお淑やかで可憐な生徒だと思っていた。

 少なくとも花の認識ではこんなことをする人間ではないと思っていた。


 昨日、幼馴染の話を聞くまでは。


 誰かの声がして振り返った彼女は思わずひっ、と息を呑んだ。

 目と鼻の先にある、鋭く尖った刃先。こちらに刃物を向けてくる転校生の目は酷く充血していた。骨董品の一つだろうか、人魚姫が王子様を殺害した短剣を思わせる凶器はその切先で今にも彼女を突き刺そうと鈍い光を放っている。それでも刃が彼女の目玉を貫通せずに済んでいるのは、その右手首を掴み押さえている人物がいるからだ。


 「なんでここに……」


 城ヶ崎は歯を強く噛み締め、凶器を握る手に更に力を籠めた。


 「どうやって入ってきたんです? ()()()()


 城ヶ崎は横目で未玖を睨みつけたまま、食いしばった歯の隙間から唸るように言葉を漏らした。

 花は床に尻餅をついたまま後退った。その間も、彼女の手首はギリギリと締め付けられていく。やがて細い骨がポキりと折れる音がすると同時に、城ヶ崎の手から短剣がこぼれ落ち、散り散りになった食器の上で乾いた音が鳴った。


 「ああああ”あ”あ”ア”ア”ア”」

 「良かった。花が無事で」


 叫び声の中、未玖は安堵の言葉を吐いた。


 月光に照らされた青白い頬。制服の上に羽織った黒のロングコート。ガーデンテラスの内側で月の華が咲いたように微笑むその笑顔は一瞬、死を司る神の姿を連想させた。


 ありがとう。助かった。彼女に告げるべき言葉が幾つも浮かんでいるのに、結局花の口からそれらの言葉が出ることは無かった。両手が震えて首筋から爪先にかけて嫌な寒気が走った。

 視界の端にもう一人、見知った友人の姿があった。視線を移すと、ガーデンテラスの入口には未玖の後から駆けつけたのであろう、満咲の姿があった。呆然としているのは彼女も同じようで、彼女は異常な状況を把握するや否や力が抜けたようにその場で座り込んでいた。


 しゃがみ込んで唸り声を上げる城ヶ崎の肩に手を添え、未玖は穏やかな声色で尋ねる。


 「城ヶ崎さん。どうしてこんなことを?」


 城ヶ崎は低い声で唸った。「どうして、ですって?」その姿は教室で見ていた可憐な彼女とは程遠く、「ひひひ……あはははは」結った団子は崩れ、乱れた前髪が脂汗の滲んだ額に張り付いている。鈴を転がしたような声で笑う清廉な彼女はそこにはいなかった。彼女は小刻みに肩を震わせ、聞いたことのないような声で笑いながら、蹲ったままの体勢で花を睨みつけた。


 「うるさいなあ。黙れよ、魔女の手下が」


 小さな唇から棘を纏った呪いの言葉が零れていく。


 「将君はずっと、ずぅっと永愛の王子様なんです。それなのに、この魔女は永愛の将君を奪おうとしたんだ」


 城ヶ崎は狂ったようにガリガリと爪を噛みながら、まくし立てるように次々と言葉を投げつけていく。


 「あり得ない」

 「お前が永愛の王子様と一緒にいるって考えるだけで、吐き気がすんだよ」

 「将君のあの優しい笑顔が、あの優しい言葉が永愛以外の女子に向けられてるなんて」

 「あり得ない」


 ガリガリガリガリ。


 「永愛は、永愛は……」

 「ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと」

 「将君のことを守ってきたのに!!」

 「ハハ、あはははははははは……ハハハ!」


 ガリガリガリガリガリガリガリガリ。


 「あり得ないのよ?」

 「あり得ねぇんだよ、てめー」

 「ありえない、ありえない」

 「ありえないアリエナイアリエナイ……!!!」


 幾つもの呪いの言葉を吐きながら、彼女は狂ったように嗤った。

 嚙み千切られた爪先から肉が剝げ、流れた血が手指を伝いポタポタと滴り落ちている。


 「何なんだよ、お前……」


 幼馴染をこんな目に遭わせた本人を前に、花が投げつけるべき言葉は幾つもあった。けれど、狂気に歪んだ転校生を前にそれらの言葉は出て来なかった。両手足が竦んで上手く動かなかった。最早意味のない問い掛けだけが口から零れていく。


 城ヶ崎はユラリと立ち上がり、テーブルの前で項垂れる神峰に縋りついた。冷たくなった彼の体を抱き、彼女は声を震わせた。


 「どうして、皆永愛から愛を奪っていくの……?」


 彼女の問い掛けに答える者はいない。


 「どうして、永愛に残されたたった一つの愛を奪っていくの……?」


 屋敷の古時計が重たい音を響かせる。


 「もう、誰にも奪わせない。永愛だけの宝物」


 彼女は魂の抜けた彼の体に縋りつき、ぽろぽろと涙を零した。


 「悪い魔女は殺さなくちゃ。蒲田さんなら分かるでしょう? ねえ、()()()()()……」



 「救世主」――その言葉に、聞き覚えがあった。



 「何言ってんだ、お前……」


 背筋を冷たい雫が流れ、暖かいはずの温室で指先が少しずつ凍りついていく。



 冬休みに入る少し前、このクラスで一人の生徒が亡くなった。

 その直後から、「不審死」が頻発するようになった。外傷は皆無で、対象者は皆、魂を抜き取られたかのように死んでいく。報道規制は限界を迎え、匿名の掲示板では「救世主の到来」と叫ぶ者もいた。

 

 彼女は以前、この「不審死」について耳にしたことがあった。


 《花、満咲。少し話があるのだけど》


 その日、珍しく深刻な表情で「話がある」と言ってきたのは、自分を受け容れてくれた大切な友人の一人だった。


 《永美、あんた何言って》

 《どういうことなの……永美ちゃん》

 《違うの! 私はただ、そうかもしれないって可能性の話をしただけで》


 これは人の為せる所業ではない。

 だからきっと、ただの悪い偶然に違いない。


 けれど、その友人――門田永美はその後、謎の事故死を遂げた。


 《永美の奴、前に言ってたんだ。ある事件を追ってるって》

 《永美はその口封じに消されたんじゃないかって、あたし達はそう信じてるんだ》


 時折過ぎる残酷な想像を封じ込め、彼女は自分に何度も言い聞かせた。


 《大事な事だから、あたし達に君を信じさせて欲しいんだ》


 自分を受け容れてくれた、大切な友人を信じるために。


 《本当の君はどっちだ。あたし達の仲間か? それとも――》


 「救世主、ね」


 亡骸に縋りつく転校生を見据え、蒲田未玖は淡々と呟いた。

 花は祈るようにしてその後ろ姿を見つめることしか出来なかった。

 

 どうか自分の聞き間違いであって欲しいと、心の中で祈りながら。

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