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第八十九話 あたしらしく

 雪でかじかんだ手を擦り合わせながら肩を竦める。マフラーと擦れ合って静電気を起こした髪が宙に浮きあがった。

 すぅ、と空気を吸い込むと、寒さで麻痺したはずの鼻先がツンとした。ガードレールの向こう側からすれ違う対向車のライトが眩しくて思わず目を細める。制服の上に羽織った安いコートのポケットに手を入れると、指先に温もりを失って固くなったカイロの感触があった。


 「うう、さぶ」


 冷えたカイロを握り締めながら小刻みに両肩を揺らす。背負った学生鞄は本来の形から大分崩れているけれど、長い付き合いなのだからゆるして欲しい。あたしは肩掛け派ではなくリュック派なのだ。

 冬は日が沈むのが早い。部活を終え、長い間電車に揺られ、駅に降りた頃には既に夜を迎えている。駅から離れた頃には人通りも減っていて、広い橋の真ん中で立ち止まったところで咎める者は誰もいない。

 ふと夜空を見上げると点々と星が瞬いていた。反射的に指先で星と星を繋いで星座を描いてみたところ、間抜けな鳥のオブジェが完成した。


 「芸術的だな」


 口をついて出た口癖は我ながら意味がよく分からなかったが、あまり気にしないことにした。

 白い吐息が夜空へと昇っていく。


 《花ちゃんが大事だからに決まってるだろ!》


 先程告げられた幼馴染の言葉が頭を過ぎる度、胸の奥に温かい何かが広がっていく。


 「そういえば、昔アイツの言葉に救われたのもこの橋だったっけ」


 橋の柵に手を掛けると掌を冷気が伝った。下を覗き込むと黒い水が流れていて身震いがした。ありゃ飛び込んだら絶対寒いだろうな。


 でも、あの時はそんなことどうでも良かった。


 中学の終わり頃、あたしはただ漠然と「死」について考えていた。


―――――――――――――――

第八十九話 あたしらしく

―――――――――――――――


 小学生の頃のあたしは、自由だった。

 クラスメイトには変な子だと思われていたけれど、何も気にならなかった。自分の思ったことは何でもハッキリ言っていたし、周りの空気を読むなんてことも出来なかったから、正直浮いていたのだと思われる。

 幼馴染の神峰将とは仲良くも悪くもなかったけれど、よく二人でやんちゃして女子を困らせていたから、あたしはきっと女子から嫌われていたんだろうな。


 中学の頃、初めて親友と呼べる程の友達が出来た。

 新しい学校。新しい制服。小学校の頃よりも大人びた友達。自分を取り巻く何もかもが新鮮で、自分も少し大人になったような気がした。大人びた彼女と仲良くなってくると、彼女は親切心からあたしに色々なアドバイスをくれるようになった。


 《花ちゃん、それ変だよ》《もっと空気読まなきゃ》

 《いつまでも小学生じゃないんだから、周りに合わせないと嫌われちゃうよ》


 あたしが正直に思ったことを発言しようとすると、「そんなんじゃダメだ」と助言をくれる。彼女に嫌われないようにするためには自分を押し殺して「普通の子」になることが必要なのだと知った。自分を押し殺して、彼女のアドバイスに従っていると、自然と友達も増えていった。自分の思ったことを全部否定された時は辛いけれど、思ったことは心の中にいる小学生のあたしが誰にも聞こえないように叫んでくれるから耐えられた。これが大人の世界なんだと知った。


 あたしがあたしでなくなったのは、いつからだっただろう。


 《花ちゃん、私一人じゃ寂しいから一緒にテニスしよ?》


 親友と部活動を選んだ時のことが今でも忘れられない。あたしが入部届に書いたのは演劇部だったけれど、彼女に頼まれたら断れなかった。心の中のあたしは「そんなのお前一人でやれよ」と呟いていたけれど、口から出た言葉は「楽しみだね」だった。最初に書いた入部届はぐしゃぐしゃに丸めてポケットの中に入れた。家に帰ってから一人で泣いたっけ。


 人間には向き不向きがある。


 引退が近くなった頃、一緒に始めた彼女は気がつけば部活のエースになっていて、自分はいつまでも選手に選ばれないまま。彼女が「花ちゃんと一緒にテニス始めて良かった」と言う度に、心の中のあたしが窒息して死んでいく気がした。

 引退試合を終えて帰って来た彼女はコーチや後輩から沢山の賞賛を浴びて満足そうだった。あたし自身、あたしを「普通の子」の世界に入れてくれた彼女には感謝していた。今や手の届かない遠くにいる彼女は落ち込むあたしを励ましてくれて、あたしは「嬉しかった」。


 《大丈夫。花ちゃんはラケット持ってるだけで可愛いから》

 《あはは、いやあ照れますなあ》


 あたしの中学生活って何だったんだろう。


 《花ちゃんもサボらないで真面目に練習してたら良かったのに》

 《エースに言われると耳が痛いですわ》


 ――「本当は演劇部に入りたかったのに、お前が止めたんだろ」。

 ――「お前が何もかも滅茶苦茶にしたんだろ」。


 でも本音を伝えたら、彼女に嫌われてしまうのではないか。


 《花ちゃんは変な子なんだから。もっと大人しくしないと、皆に嫌われちゃうよ》


 彼女の周りで笑い続ける他人の声が、酷く耳障りだった。

 彼女の隣で笑い続ける自分の声が、酷く耳障りだった。


 あたしだけが世界の真ん中に取り残されていて、誰もがあたしを取り囲んで笑っているような気がした。


 引退試合の後、家に帰ったあたしは、結局捨てられずにいたぐしゃぐしゃの入部届を広げて泣いた。中学一年の時の拙い文字がそこにあった。「演劇部」と書かれた黒い文字が涙に滲んでいった。


 本当のあたしって、何だ。あたしの価値って、何だ。


 登校途中に橋の真ん中で足を止めた。頭では前に進もうとしているのに、見えない何かが足を引っ張っているようだった。訳もなく涙が流れていた。次第に冬の風に体温が奪われていくのも気にならなかった。

 橋の上から下を見下ろすと、透明な水の中で魚が泳いでいるのが見えた。本当はこんなことをしている場合ではないのだ。これから学校で親友が貸してきた漫画の感想を伝えなきゃいけないのに。手に持った紙袋の中に大事な漫画が入っているのに。早く行かないと学校に間に合わないのに。あたしはただ、冬晴れの空の下、銀色の鱗が陽の光に照らされて輝いているのを眺めていた。あそこに混ざって泳いでみたいと思った。


 あたしは漠然と「死」について考えた。生きていると「大人」にならなくちゃいけない。死んでしまえば、難しいことは考えずにあの魚のように何ともない空間を泳いでいればいいだけなのかもしれない。

 あたしは虚空に手を伸ばした。

 この世界に生まれた者は皆、究極の選択をしなければならないのだと思った。この世界から抜け出してまた自由になるか、この世界に留まってこの先も苦しい出来事に耐えながら「大人」になるか。きっとこの世界で生きている大人達は、留まり続ける選択をした者達なのだ。選ぶのは今なのだと思った。


 手に持った紙袋が地面に落下した。中から何冊か溢れて川の中に吸い込まれていった。水面が遠くて落下音は聞こえなかったけれど、親友に借りた漫画が水の中に吸い込まれた瞬間、水面が揺らいで魚が逃げていくのが見えた。気がつけば何もかもどうでも良くなっていて、あたしの両足は柵の上に乗っかっていた。


 《……花ちゃん?》


 あたしを現実に引き戻したのは、懐かしい男子の声だった。


 久々に会った幼馴染はまるで別人だった。鼻筋に絆創膏を貼ってアホ面を晒していた短パン小僧は、今や長すぎる前髪で顔を隠し、似合わない制服に着られ、ダサい銀のフレーム眼鏡なんかを掛けていたのだから、思わず笑ってしまった。

 「花ちゃん」と呼ぶ声は声変わりしたての小学生の頃よりも低くなっていた。あたしにつられて笑ったアイツの笑顔は昔より柔らかくなっていた。

 でも、時々覗いた目元が昔の将そっくりで、あたしはつい泣きそうになったのをどうにか堪えた。


 聞けば、将も学校に行くのが嫌になって同じように逃げてきたのだという。「大人」になろうとする将は何かに怯えているように見えて、「大人」になろうとするあたしは何があったのか聞くことが出来なかった。


 《花ちゃん、制服全然似合ってないよね》

 《将も似合ってないけどな?》

 《変な子の花ちゃんに言われてもなあ》


 変な子――その時のあたしにとって一番聞きたくない言葉だった。

 「大人」になった幼馴染の声が親友の声と重なった気がして、どこか遠くに感じた。


 《あはは、あたしだからなあ。やっぱり普通の子にはなれないみたいでさ》


 あたしの世界から、懐かしい思い出が遠ざかっていく。


 《うん。花ちゃんは普通の女子じゃないよね》


 柵を握り締める手に力が籠る。


 《よかった。花ちゃんが花ちゃんのままで》



 その瞬間、周囲の音が止まった気がした。

 隣を振り向けば、将は笑っていた。



 《花ちゃんには、ずっと花ちゃんらしくいて欲しいなあ》



 幼馴染の似合わない長い前髪は風に押し上げられ、あたしは久し振りに将の表情を見た。可笑しそうに笑うアホ面はやっぱり昔とそっくりで、似合わない眼鏡の奥で昔と同じように吊り上がった目が笑い涙を滲ませていた。


 本当は良かったのだ。

 あたしがあたしのままでいても、この世界の理から外れて「大人」にならないまま大人になっても、良かったのだ。


 あたしは柵を乗り越えて、橋の縁で両手を広げた。幼馴染は危ないとか何とか言っていたけれど気にならなかった。

 顔を上げると、両手を広げても抱えきれない青空が広がっていた。遠くの雲の上に珍しく七色の虹が架かっていた。陽の光の眩しさに目を細め、天使のように羽根を広げる。そうすると、これまで悩んできた何もかもが馬鹿らしく思えて、あたしは腹の底から笑った。泣いているのか笑っているのか分からない声を上げて、「変な子」らしく、橋の真ん中でみっともなく叫んでみせた。始業時刻はとうに過ぎていたし、将が何か言っていた気がするけれど、細かいことはよく覚えていない。


 青空はこんなに広いのに、何であたしは下ばかり見て生きていたんだろう、と思った。普通じゃない人間が一人くらい羽目を外したっていいのだ、と思った。ようやく自由を取り戻したあたしは、心の中のあたしと一緒に思い切り澄んだ空気を吸い込んだ。冬の空気は冷たくて鼻先がツンとした。


 それから、似合っていない将の眼鏡を取り上げて、掛けてみると案外しっくりと来た。その時アイツは困った顔で文句を言っていたけれど、何だかんだ「似合ってるよ」とか言ってくれて、あたしはその言葉に背中を押されたんだ。



 高校に入ってからはありのままの自分を曝け出すようになった。世界は案外壊れなくて、あたしという異分子を受け容れてくれた大空に感謝した。自分を受け容れてくれる友人達にも恵まれた。


 不安になった時は、度の入っていない伊達眼鏡を胸に抱いて、あの時将がくれた言葉を思い出す。


 《花ちゃんには、ずっと花ちゃんらしくいて欲しいなあ》



 だから、あたしは将に手を差し伸べずにはいられなかった。


 アイツが女子と話すのが苦手になったらしいことを知った。それでも、同じクラスになってからは話す機会も多かったから、アイツが少しずつ昔のアイツらしくなっていくのも分かっていた。


 そんな将の様子がおかしくなったのは、転校生が来た頃からだ。

 あたしが挨拶しようとすると「話し掛けるな」の一点張りで、表情は前も暗かったけれど更に暗くなった。転校生とは知り合いのようで、女子と話せないアイツが何故かその子とは仲良さそうに話しているのを見ると心の奥底に言いようのない靄が溜まっていった。一方で、次第に塞ぎ込んでいくアイツが中学の頃のあたしと重なった気がして、放っておけなかった。


 将が将じゃなくなったのは、いつからだったんだろう。


 《城ヶ崎さんと付き合うことになったから、もう話し掛けないで欲しい》


 今日の放課後、将はあたしを校舎裏で呼び止めてからそう言った。相変わらず前髪で表情を隠して、今にも泣きだしそうな声で、アイツはそう言った。

 何故か、橋の上で死のうとしていた自分の姿と重なった。心の中のアイツが助けて、と叫んでいるような気がした。


 《何でそんな顔してそんな台詞言うんだよ……》



 その時初めて、将はすべてを打ち明けてくれた。


 中学の頃、一人の女子をいじめから助けて以来、彼女に毎日連絡を強要されていること。他の女子と話さないように脅迫されていること。海外に引越して転校したと思っていた彼女がまた帰って来たこと。

 あたしを巻き込まないために、あたしを遠ざけようとしていたこと。


 《花ちゃんが大事だからに決まってるだろ!》


 あたしは、嬉しかった。

 ずっと打ち明けられなかった悩みを自分に打ち明けてくれたことが、ずっとあたしを守ろうとしてくれていたことが、あたしはただ嬉しかった。


 だから、アイツがあたしを救ってくれたように、今度はあたしがアイツを救ってやるのだ。



 雪でかじかんだ手を擦り合わせながら肩を竦める。マフラーと擦れ合って静電気を起こした髪は相変わらず明後日の方向に浮きあがっている。

 すぅ、と空気を吸い込むと、寒さで麻痺したはずの鼻先がツンとした。ガードレールの向こう側からすれ違う対向車のライトが眩しくて、あたしは目を細めた。制服の上に羽織った安いコートのポケットに手を入れ、冷えたカイロを握り締めながら小刻みに両肩を揺らす。背負った学生鞄がカラカラと音を立てた。


 部活を終え、長い間電車に揺られ、帰り道の夜空に星を描く。広い橋を渡り終え、ふと人目も気にせず軽快なステップを踏んでみたら新しいダンスの形が完成した。


 「芸術的だな」


 ふと口をついて出た口癖は我ながら意味がよく分からなかったが、あまり気にしないことにした。


 白い吐息が夜空へと昇っていく。

 口笛を吹きながら、あたしは漠然とこれからも続くであろう平和な日常を予感していた。

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