第八十七話 嘘
週末。
その日、満咲と未玖は花の誘いを受けて彼女の自宅へ遊びに来ていた。
「それで、花ちゃん。乙女にあるまじきこの部屋はなにごと?」
一言で形容するのであれば、惨状とでも言うべきか。実家暮らしの女子の部屋とは思えない程乱れた部屋を目の当たりにして、満咲が本音を口にするまでの時間はそうかからなかった。入口で立ち尽くしている未玖も「強盗に入られたのでは」と心配の言葉を口にしている。
「いや、だってすぐ近くに物があった方が便利だし」
「花ちゃん。これじゃあ神峰君が来ても良いムードにならないよ……?」
「い、良いムード?」
「それに、ベッドの上にまで物置いてたら何も出来ないじゃん」
「ん? 人を呼ぶときにベッドは使わないだろう」
「え?」
「ん?」
満咲は眉間に手をあて、それ以上を口にすることはなかった。
最低限座ることの出来るスペースを確保してから、ミニテーブルの上の雑誌をはけ、コンビニで購入した茶菓子を広げる。花は思い立ったように「そういえばまたクッキー焼いたぞ」と言って立ち上がったが、以前のようにロシアンルーレット(※クッキーの一部について、砂糖の代わりに塩が使用されていた事件。第四十一話参照)をされてはたまったものではない。丁重にお断りした。
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第八十七話 嘘
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紅茶を淹れて持ってきた花が扉を開けて部屋に入ってくる。テーブルに辿り着く道中、何かに躓いた彼女は「お?」と呟いたが、しかし何事も無かったかのように戻ってきた。
未玖が「今何か踏んだような……」と首を傾げるので、花は「うむ。確かに踏んだな」と頷いた。赤い背表紙に金文字が彫られたその冊子は踏まれた箇所が僅かに凹んでいる。
(花ちゃん……)
踏んだな、ではないのである。彼女に踏みにじられたそれが床に置いていい代物ではないことは満咲の目から見ても明らかであった。満咲は諦めたように溜息をついてから、その冊子について尋ねた。
「ああ、これ中学時代のアルバムだな」
「どうしてそんな大事なものが床に?」
「未玖、もう突っ込んだらキリが無いよ……」
花は分厚い冊子を手に取ると、「ほほう、また随分と懐かしいですなあ」などと供述しながら論点をすげ替えた。
「げ、この写真。あたしこんな短いスカートで生足晒してたのかよ」
膝の上でアルバムを広げながら苦笑する花に対して、未玖は「花も短いスカートとか履くんだね」とコメントする。確かに、普段は制服の下にジャージを履いているので意外な一面かもしれない。
「ハハッ。やっぱ目死んでんなー、この頃」次々とページを捲りながらぶつぶつと呟く友人を前に、気になった満咲は膝立ちで覗き込んだ。視線の先、アルバムの右端にある写真には、友人の字だろうか、丸みを帯びた筆跡で「サボり中の花ちゃん」と書かれている。写真の中では、白いテニスウェアを着こなし、顔よりも一回り大きなラケットを抱えた美少女がベンチに佇んでいた。日に焼けた小麦色の肌にツインテールを下ろした少女が、虚ろな目で何かを眺めている。花は「ベンチで試合応援してる時に隠し撮りされたんだよ」と困ったように付け加えた。
「え。誰これ」
「いや、あたしだけど」
満咲は向かい側に座る彼女をじっと眺めてから、「花ちゃん。眼鏡外して」と両手を構えた。
「や、やめろ! これはあたしのとっておきの芸術アイテムなんだよ!」
「未玖もそっち側から抑え込んで!」
「わ、私も?」
「ずるいぞ二人がかりで!」
――十五分後。
「ねぇ花ちゃん。そういえば、神峰君とのツーショットは無いの?」
テーブルの上でアルバムをパラパラと捲りながら訪ねる満咲に対し、花は銀縁眼鏡を両手で大事そうに押さえながら答えた。
「あー。アイツとは中学別々だったからな」
「ふぅん。そうだっけ」
「でも、将は小学校からの馴染みだし、家も近いから中学ん時もたまに会ってたかな」
「へぇ。仲良しだ」
「おうよ。何だかんだ言って長い付き合いだからなー。小学校の頃は色々遊んだぞ。校庭の草叢から虫取ったり、あとはそうだな、虫取ったり……」
「虫取りしかしてないじゃん」
「で、アイツ、捕まえた虫を女子に見せびらかしてたな」
「女の子泣いちゃうよ……?」
「ハハ。んまあ、そんなこともあったっけか」
紅茶を一口含んでから、彼女は自前のクッキーを齧った。
「お、甘いぞ。セーフだな」
何がセーフなのか分からなかったが、満咲は訊かないでおくことにした。手に持ったクッキーを食べ終えてから、彼女は思い出すように言葉を続ける。
「将の奴、小学校の頃は今とは全然違ったんだ。粗野で乱暴。女子にもお構い無しでさ」
「へえ。あの神峰君が?」
「そうそう、笑えるだろ? でも、良い奴だった」
「…………」
「中学時代あたしが部活で悩んでた時もさ、あたしはあたしらしくすれば良いんだ、って言ってくれたんだ」
花は両腕を伸ばしながら「今こうして好きなこと精一杯やれてんのは、アイツのおかげなんだよなあ」と付け加えた。両腕を下ろし、ふぅ、と呼吸を一つ。眼鏡の奥の瞳はテーブルの端に積み重ねられた菓子の山を見つめていた。棒状の芋菓子の山が崩れたそれは、先程、何段まで積めるかというくだらない競技を行った結果生み出された残骸である。
「アイツが変わったのは、中学の時だったんだよな」
何があったのか、あたしじゃ聞き出せなかったんだけどさ――彼女は困ったように笑った。互いに奥手なカップルを揶揄うために用意してきた言葉は幾つもあったが、満咲はただ「そっか」と返すことしか出来なかった。
☆★☆
帰り道。たまたま通り掛かった公園の前で満咲は足を止めた。
(この公園……)
以前男に殴られた頬がピリ、と痛む。草木がざわざわと音を立て、人気のないベンチを夕焼けが照らしていた。
未玖は一人で他愛ない話を続けながら先を歩いていく。彼女は唇を噛んだ。気がつけば、満咲は駆け出して未玖の手を取っていた。振り返った未玖は不思議そうに首を傾げているだけで、何も訊いてこない。
「…………」
この公園は、あの事件があった場所とよく似ていた。
《どいつもこいつも、こういう時だけ無駄に構ってくる》
あの日、酷いことを言って突き放してしまったのに、未玖は満咲を助けに来た。常人であれば逃げ出してしまうような状況で、自分の身を挺して満咲を庇った彼女の姿が忘れられない。何度も殴られながら、恐怖を殺し、満咲が逃げられるよう自らを犠牲にした彼女の姿が忘れられない。
けれど時折、残酷な想像が脳裏を過ぎってしまう。
あの時、あの男を殺したのは未玖だったのではないかと。そして、門田永美さえも――
「未玖の、ばか」
(違う。こんな事が言いたい訳じゃない)
言いたいことは山程あるはずなのに、言葉が出て来ない。思ったことは躊躇わずに口にしてきたはずなのに、感情が上手く纏まらなかった。相変わらず人とのコミュニケーションは苦手なのだな、と自嘲する。
「…………」
誰もいない公園に影が伸びていく。乾燥した冬の空気がやけに痛く感じた。出て来ない言葉の数だけ口の中で唇の皮を剝がしていく。西日に照らされた遊具は風に揺れ、キィ、と錆びついた金属の音が余計に寂寥感を煽った。
誰もが偽りの仮面を被り、自分の都合の良いように嘘を吐いて生きている。人と人との間に本当の繋がりなどなく、家族でさえ信じることが出来ない。誰もが笑顔の裏に本性を隠している――そんな世界に嫌気がさしていた。無味乾燥な日々の中で、彼女は死んだようにして生きてきた。
そんな彼女を、蒲田未玖という人間は救い出した。
けれど、こんなに近くにいるはずなのに、今はもう彼女が手の届かない遠くにいるような気がしてならない。
「どうしたの?」
満咲が口を開こうとした瞬間、鼻の奥がツンとした。目の奥が熱くなり、思わず顔を伏せる。泣きそうになるのを悟られないように、彼女は落ち着いて呼吸を繰り返した。しかし、絞り出した声に微かに涙が混ざってしまう。
「私、信じていいんだよね」
足元の花壇の縁に二羽の雀が留まっていた。
「未玖のこと、信じていいんだよね……?」
そのうちの一羽が空へ飛んでいき、花壇には一羽だけが残された。
顔を上げるのが怖かった。また裏切られるのが怖かった。
もう二度と他人を信じられなくなりそうで怖かった。
「大丈夫」
顔を上げると、彼女は微笑んでいた。
未玖は夕陽に頬を染め、眉尻を下げ、「大丈夫だから」と彼女の手を握り返した。
一瞬、彼女が何故そんな顔をしているのか、分かったような気がした。
嘘で自分を塗り固めた人間の表情。自分の心を守るための表情。
それが、何も信じられなかったかつての孤独な自分の姿と重なった気がした。
「…………」
だからこそ、満咲は彼女に何と言えばいいのか分からなくなった。
ポツリ、と冷たい何かが零れ落ち、やがて雨粒が繋いだ手を濡らしていく。
傘買ってくるね、と言って遠ざかる親友の背中は、雨の中、夕闇の向こうに消えていった。




