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第八十六話 涙の痕

 ここは、どこだろう。周りは真っ暗で何も見えない。

 一体何が――。


 突然、目の前で小さな炎が揺らめいた。

 燭台に一つだけ灯った炎が風もなく不気味に揺れている。視界は狭く周りがよく見えないが、狭い部屋の中にいるのだろうか。周囲に音は無く、自分の呼吸の音だけが小さな空間に反響していた。


 少しずつ明かりが広がっていく。

 四方を囲むのは黒い壁で、よく見えないが何かが壁に掛かっている。目線を下げていくと、部屋だと感じたのは間違いでは無かったようで、左方の扉に取り付けられたドアノブのようなものが鈍く光を放っているのが見えた。

 ゆっくりと目線を下ろしていく。真っ赤な絨毯の敷き詰められた床に誰かの足が見えた。汚れた黒いマントの端から伸びた白い足はやがて自分のものだと分かった。

 蝋燭の炎が揺らぎ、少しずつ視野が広がっていく。絨毯の感触はおろか、手足の感覚すらまともに無かった。未だ不完全な視界の中で、ゆっくり、ゆっくりと視線を這わせ――


 胸元を目にした瞬間、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。


 「…………!」


 白銀の剣が()()()()()()()()()()()()()()


 枯れた喉の奥から無音の叫び声が空間を(つんざ)いた。痛覚が麻痺しているのか、痛みを感じない。それがかえって不気味でならなかった。体中に冷や汗が滲み、立ち上がろうとした体は痺れて思うように動かせなかった。


 暗闇に視界が慣れ、部屋の全貌が明らかになっていく。

 四畳程度の小さな空間に、死神の衣装らしき黒い衣装に身を包んだ自分が一人。四方は黒い壁で囲まれ、前方に一つだけ灯った蝋燭が狭い部屋に明かりを灯している。壁には引き摺った手形のようなものが無数にこびりついており、その近くでは無数の飛沫が弧を描いている。


 見覚えのある部屋だった。

 部屋の中央に佇む私は、かつてこの部屋で泣いていた彼女と実によく似ていた。


 私は前方と右側に一枚ずつ飾られた絵画に視線を向けた。

 前方のものは茶褐色で汚れており、額縁も金メッキが所々剥がれている。もう片方の絵画には、包丁で胸を一突きされた人間の少女の姿があり、その少女は――


 「わ……私……!」


 燭台に灯った炎が一際大きく揺れる。

 潰れたはずの心臓がドクンドクンと脈打つ。


 痺れる身体に力を籠め、私は覚束ない足で絵画の方へ歩み寄った。

 銀色の上身が鈍く光る。刃先を滴り流れていく赤い雫は丸みを帯びていき、やがて刃先を離れ、重力に従って空中へと落ちていく。


 絵画の中――無数の骸の横に転がる自分の姿を見て、私は全てを思い出した。


 《おやすみなさい。いつか(来世)の私》


 あの時、私は消えたいと願った。

 この世界からも、この闇からも。


 もう、誰も傷つけずに済むように。

 そう思って、彼女の手を取った。


 ――はずだった。


 「ど、うして……」


 空中に落ちた一粒の雫は絨毯に吸い込まれ、色の変わらない痕を遺した。


 私は振り返り、錆び付いて濁ったドアノブに手を掛けた。しかし、鍵が掛かっているのか、カチャカチャと空しい音がするだけで、扉が開く様子は一向にない。


 「…………!」


 ドアノブを握った掌に汗が滲んでいく。

 同時に、ジジ、と砂粒の擦れるような音が聞こえた。


 音のする方を振り返ると、もう一つの絵画が動き出していた。


 絵画の中では、異国の宮殿を思わせる広い空間に幾つもの光が差し込んでいた。

 そこに描かれた光景を目にして、私はほんの少しだけ()()()()()



 記憶の中で、白いローブを羽織った金髪の人物が微笑んでいる。

 絹糸で編まれたレースのカーテンがふわりと舞い、全身黒一色の「私」の装束が外から入り込んだ風に揺れる。最上階から見える景色は広大だった。青々とした大地には色鮮やかな虹が架かっていた。



 「そうとく、さま……」


 そうだった。


 絵画の中にいるのは、「私」の敬愛していた総督様。

 大きくて優しい手に撫でられるのが好きで、「私」は。私は。わたしは……


 「どうして私をお見捨てになったのですか――」


 どうして泪が溢れるのか、理解(わか)らなかった。ひとりでに口から溢れ出た言葉を理解出来なかった。頬に流れた痕を指先でなぞっても、答えは出ない。



 「あなた。何故、泣いているの?」


 背後から誰かが私の肩に手を乗せる。死人のように冷たい手だった。

 振り返ると、ドアを開いた入口には彼女の姿があった。


 「そう。あなたも苦しいのね」


 黒いマントを羽織り、等身大ほどの細身の黒い鎌を担いだ少女。私と鏡写しの彼女は困ったように眉尻を下げ、口元に手をあて微笑んだ。


 「大丈夫よ。今、楽にしてあげるわ」


 優しく見えるその笑顔は、酷く歪なものに感じた。瞬間、黒鎌の鋭利な刃先がキラリと光ったかと思えば――何かが千切れるような感覚がした。


 視界がゆっくりと宙を舞っていく。

 

 痛みを感じなくなった世界の中で、私は唐突に理解した。

 ここは「死」そのものであり、例え首を切り落とされようと、私が消えることは叶わないのではないか、と。


 薄れていく意識の中、私は切り落とされた頭部の中からただ眺めていた。

 淡々と絵画を見据える、彼女の姿を。


――――――――――――

第八十六話 涙の痕

――――――――――――


 あれからずっと、私は暗闇の中から外の世界を見続けていた。

 かつて私の「死」を映していた絵画は、今では現実世界で「私」の見ている世界を映している。自分の声が誰かに届くことはなく、私はただ額縁の中の映像を見ていることしかできなかった。


 命乞いする人間を、彼女は一人、また一人と葬っていった。これ以上誰も傷けることがないように――そう願った私の想いは空しく、多くの人を傷つけ殺めていく彼女を止める術を、私は持っていなかった。



 彼女は何度も私の前に現れた。その度に、楽にしてあげるから、と告げて様々な方法で私を「殺した」。

 鎌で首を切り落とされても、紐で首を縛られても、骸骨で頭を殴られても、蝋燭の炎で焼かれても、痛みも苦しみも何も感じなかった。それでも、私の心臓を突き刺す剣は消えず、私自身の存在も消えることは叶わない。


 気がおかしくなりそうになった。

 狂気に身を委ねてしまった方が幾分か楽だろうと思った。


 それでも、私にはまだ縋りつく理由があった。



 「お願い……もうこの力を使うのは止めて……」


 額縁の向こう側の世界で大切な人間の姿がちらつく度に、最後の理性が私の意識を繋ぎ留める。

 弟も友人も失った。これ以上、大切な人が目の前で死んでいくのは耐えられなかった。


 再び意識を取り戻した私は、床を這い、部屋を出ていこうとする彼女の足を掴んだ。


 「流石『私』ね。まだ正気を保っているの?」

 「…………」

 「この腐り果てた精神世界で、果てしない時を過ごすんだもの。前向きなのはとても大事なことよ」


 私に向けられた微笑みは一見慈愛に満ちているようで恐ろしく冷たい何かを孕んでいた。私はそれ以上に返す言葉を思いつかなかった。


 「…………」


 私は無力だ。

 どうして、あのとき、彼女の手を取ってしまったのだろう。

 

 《あたしらは、未玖。君を信じるって決めたのさ》

 《辛くなったら頼ればいい。言いたくなければそれでいい》


 「もう、友達を騙したくない……」


 逃げてしまいたいと、消えてしまいたいと願ったところで、結局私は何処へも行けなかった。

 私を信じてくれている友人を、私はずっと裏切っている。


 「本当のことを言ってどうするつもり?」


 まだ身体を持ち上げることは出来なかった。ごわごわに固まった絨毯に這いつくばりながら、奥歯を噛み締める。血のこびりついた革のブーツが視線のすぐ横を通過していく。私は視線だけを持ち上げて彼女を見上げた。額縁の向こう側の世界を眺めながら、彼女は淡々と言葉を続けた。


 「あの二人に本当のことを伝えたところで、あの子達があなたを助けてくれるとでも?」

 「…………」

 「幻に縋るのはいい加減止めたら? 現実を見て」


 額縁の中の絵画が切り替わり、過去の記憶を映し出す。

 枯れた枝の先に積もった白い雪。朱色に染まったナイフの切先。目の前で崩れ落ちていく門田永美の姿を見て、私は強く唇を噛んだ。


 (永美……)


 どれだけ後悔しても、彼女はもう二度と帰って来なかった。

 どれだけ後悔しても、彼女の後を追うことすらゆるされなかった。


 「あなたは友達を殺した。もうとっくに取り返しのつかないところまで来ているのよ」


 それでも、私は、これ以上悲劇を繰り返したくない。


 「……ふぅん。そう」


 彼女はしゃがみ込んで私を見下ろした。冷たい視線は私を全て見透かしているようで、私はその想いを言葉にすることが出来なかった。


 「その呆れるほどに真っ直ぐな瞳、まるで昔の私と同じね」


 彼女は立ち上がり、薄汚れた絵画に手を触れた。動きを止めたそれは一人の死神が剣で貫かれたシーンを写していた。


 「だからいつまでも気づけないのよ。幻の裏にある『悪意』に」


 絵画を見据える彼女の瞳には、金髪の人物の姿が映っていた。白いローブはやがて炎に包まれ、写真のように焼け(ただ)れたそれは次第に黒く、黒く染まっていく。


 「私はこの目に映る全ての『悪意』を赦さない」


 彼女の表情に影が落ちる。

 胸元に突き刺さった刃から雫が伝い、零れ落ちる。絨毯へと染み込みんだそれは、まるで涙の痕のように模様を描いていた。

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