第八十五話 「人間の法で神は裁けない。」
冬休み明けに訪れた校舎からは懐かしい香りがした。
下足室から取り出した冷えた上履きが馴染んでいく。ロッカーを閉めた彼女は、両頬を掌で二回ほど叩き、誰にも聞こえないくらいの声で「よし」と呟いた。
一段、一段と階段を上っていく彼女の隣を、下の学年の生徒がはしゃいだように駆け下りていく。
踊り場の大きな窓から光が差し込んでいた。
彼女は歩み寄り、窓ガラス越しに外の景色を眺めた。
校庭の雪解けが至る所で水溜まりへと変わり、まるで鏡のように空を映している。金色の光を抱え込む斑模様の空は曇とも晴れとも形容し難く、宛ら彼女の心情を切り取って映し出しているかのようである。
「…………」
校舎外の景色に背を向け、彼女は再び階段を上り始めた。
目的の階へ辿り着き、教室へと続く廊下を進んでいく。ピタリと足を止めた所で右上に視線をやると、色のくすんだ札には黒字で「2-E」と彫られていた。教室の扉を開くと、廊下よりもやや暖かい空気が彼女を迎え入れた。
窓ガラスの結露が窓の全面を半透明な白で覆っている。早朝の教室に人影は少なく、窓際の席で頬杖をついていた親友は彼女の姿に気がつくと、こちらを振り向いて手を振った。曇りガラス越しに差し込んだ外の光が眩しくて、後光の影になった彼女の表情はあまりよく見えない。
(未玖……)
手を振り返してから、満咲は今日も「おはよう」と微笑み返す。
分からなくなってしまった親友の笑顔を想像しながら。
☆★☆
始業ベルが鳴るまで、あと少し。
教室の中は休み前と変わらない。クラスメイトとの会話を弾ませる者、スマホを横に互いに音楽を聴き合う者、文庫本を片手に読書を進める者、ベランダにある観葉植物の世話をする者と様々である。
窓際の席の親友と会話を楽しんでいた彼女――夏目満咲は、朝練を終えた友人が教室にやってくるなり、悪戯を披露する子供のように声を弾ませた。
「ねぇ、花ちゃん。昨日は一体何処へデートしてきたのかな?」
「ん?!」
彼女が「昨日、たまたま街で見ちゃったんだよね」と付け加えると、神崎花は額に汗を滲ませながらパクパクと口を開閉させた。「何のことだかさっぱりだなあ」銀縁のフレーム眼鏡の奥で彼女の瞳が忙しなく泳ぐ。ところどころが外側に跳ねた髪型は寝癖ではなく、本人曰く芸術なのだそうだが、満咲の理解が及ぶところではなかった。一言でいえばボサボサとも言える。もっと可愛い髪型にすればいいのに――思い立った彼女が心の中の声を言葉にするのは時間の問題だった。
「花ちゃん、もっと可愛い恰好しなきゃ。神峰君誰かに取られちゃうよ?」
「いや、デートじゃないから! 元々アイツとは家が近くて、昨日はたまたま一緒に出掛ける用事があっただけで」
「ふぅん。たまたま、ねぇ」
「あたしには可愛い恰好なんて似合わないからさ……」困ったように付け加えてから、花は中身の詰まった学生鞄を机の上に置いた。ゴン、と重たい音がしたが、一体何を詰めたらそんな音になるのだろう。満咲が鞄の中身を覗き込むと、案の定、教科書と教科書の隙間にはゲーム機が入っていた。
「あーあ。これじゃあ全然、花ちゃん大改造計画が進まないよ。未玖からも何か言ってあげて」
彼女が一つ前の席に声を掛けると、突然話を振られた彼女は「ふぇ?」と情けない声を漏らした。満咲が「聞いてなかったでしょ」と溜め息を吐くと、即座に状況を察した彼女は「私も賛成」としきりに首を縦に振る。
「というか、満咲君。何だその『大改造計画』って」
「花ちゃんの色々なところを改造して女の子らしくするプロジェクト」
「何その人間性を無視した計画?!」
「どうして? 面白いよ……?」
真顔で小首を傾げる満咲を前に、彼女は目をぱちくりさせてからぷっと吹き出したように笑った。
「いいんだよ、あたしは。大体あたしに色恋沙汰なんて端から似合わなかったんだ。未玖もそう思うだろ?」
「私は、花はそのままで十分可愛いと思うけどなぁ」
「な……っ?!」
予想だにしていなかった直球の言葉に驚いた彼女は、目を回しながら未玖の頬をつまみ上げた。
「あ、あたしを騙そうったって無駄だぞ、未玖。言っておくが、誉めたって何も出ないんだからな?」
「やめてよ、ふぁなぁ。ほっぺちぎれる」
「う、嘘をつく頬は千切ってやる」
「ふぉうろん……!」
始業ベルが鳴り担任が入ってくると、生徒達は散り散りに各自の席へ戻っていった。
担任教師は教壇に立つと、面倒臭そうに溜め息を一つ零してから、細縁眼鏡の連結部分をくい、と持ち上げた。
「ほらー席つけ。いつまでも休み気分になってるんじゃないぞ。今日から授業あるから、ちゃんと気引き締めろなー。特にお前」
担任教師の無言の笑顔に「寝るなよ?」とメッセージが浮かぶ。中年男性の視線の先には蒲田未玖の姿があり、満咲は戻った後ろの席から思わず苦笑いを浮かべる他無かった。数学の授業中よく寝ていた彼女のことである。数学教師でもある担任にこうして事あるごとにターゲットにされるのも致し方ない。一方、当の本人はというと、自分のことだと気がついていないのか、辺りをきょろきょろと見渡している。
「それから、今日は転校生を紹介するぞー」
「転校生」という言葉に教室内が若干ざわつく中、担任教師の「入って来なさい」という言葉と同時に、ガラリと教室の扉が開いた。
「失礼します」
教卓の横に立った少女は、誰の目から見ても美少女だった。
片側にお団子を結んだ長い髪。冬制服の上にベージュのカーディガンをゆったりと着こなし、隠れた手首の袖から細い指が覗く。
彼女は小さな唇ですぅ、と息を吸い、少女漫画に出てきそうな茶色の瞳をぱちりと開いてから、満面の笑みを浮かべた。
「城ヶ崎永愛といいます。宜しくお願いします」
少し早めにHRが終わると、転校生はクラス中の注目の的になっていた。
何処から引越して来たのか、とか、好きな芸能人のタイプは、などといったありきたりな質問が並んでいく。男子生徒からの質問は主に恋愛関係が中心だったが、彼女は困ったように曖昧に返答するだけで、「彼氏がいるのか」問題の真相は未だに謎に包まれていた。
「凄いね。転校初日で一気に人気者になっちゃった」
隣の友人の髪をくるくると指で弄びながら、満咲は人だかりの中心にいる転校生を見据え、感心の言葉を並べた。なお、花は自分の髪があらぬ方向に巻かれていることについて「その巻き方向は逆だ」「これでも毎朝あたし流にセットしてるんだぞ」と訴え続けていたが、聞く耳を持つ満咲では無い。やがて彼女は諦めたように肩を落としてから、気になっていたことを口にした。
「けど、どっかで見たことある気がするんだよなー。あの子」
「城ヶ崎さんを?」
「そうそう。しかしなあ、どうしても思い出せないんだよなあ」
花がうーむ、と頭を捻っていたところで、授業終了のチャイムが鳴る。視線の先にいる転校生は、何人かの生徒からの質問に笑顔で答えた後、「少し用があるので」と、教室の中央の席へと向かっていった。
クラス中の人間が目で追っていく中、彼女の行き着いた先は思わぬ人物の席だった。
「将君。お久し振りですね」
転校生に声を掛けられた男子生徒――神峰将は情けない声を上げてから、小動物のように恐る恐る彼女の姿を見上げた。クラスメイトの女子とすらまともに会話出来ない彼のことであり、ここまでは予想通りの反応である。一方で満咲の目には、二人の関係は他の女子との関係とも、ましてや花とのそれとも違うもののように映った。
「知り合いだったんだね。あの二人」
隣に視線をやると、フレーム眼鏡の奥の瞳は若干揺らいでいた。手指に巻き付けた金色混じりの茶髪を解いてから、なかなか素直にならない友人に尋ねる。
「花ちゃん。うかうかしてると、神峰君取られちゃうよ?」
「…………」
暫く沈黙していた花だったが、「取られるも何も、あたしは恋人でも何でもないのだが……」と頭を掻いてから、今やクラス中の注目の的となっている男子生徒を指して言葉を続けた。
「あのもやしだぞ? もし万が一にもそんなことが起ころうものなら、あたしゃ街の真ん中に行って裸で踊ってやってもいいね」
「でもあの二人、何だか只ならない感じだし……もしもの事があったら、花ちゃん、絶対勝ち目無いと思うし……」
それに花ちゃんの裸踊りなんてどこに需要があるの? と付け加える満咲に対し、花は笑顔を引き攣らせる。
「なあ、満咲君。キミも未玖を見習って、世辞の一つや二つ言ってみたらどうだね?」
「ダメだよ。私、嘘は吐かないことにしてるから」
「そういうところだよ……」
しとしとと音を立て天気雨が窓を濡らしていく。結露していた窓からは無数の雫が滴り落ち、窓の外には曇りとも晴れとも言えない空模様が浮かび上がる。
満咲の視線の先には、神峰を教室から連れ出そうとする転校生の姿が映っていた。
「やっぱりこのままじゃダメだよ。未玖も――」
そこまで言い掛けたところで、満咲は思わず喉の奥まで出掛かっていた言葉を呑み込んだ。
「み、く……?」
濡れるはずのない教室の内側で、窓を背にした彼女の背筋を冷たい雫が流れた。
冬休みに入る少し前、このクラスで一人の生徒が亡くなった。
その直後から、「不審死」が頻発するようになった。
外傷は皆無。対象者は皆、魂を抜き取られたかのように死んでいく。
彼女は以前、この「不審死」に遭遇したことがあった。
これは人の為せる所業ではない。
だからきっと、ただの悪い偶然に違いない。
ただ、転校生を眺める蒲田未玖の表情は、同じだったのだ。
《あの男の子が死んでしまったら、どんな顔をするのかしら、神崎花》
まるでゲームでも愉しんでいるかのような、あの残酷な表情と。
第八十五話 「人間の法で神は裁けない。」




