第八十四話 お前がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている
目を覚ますと、そこには見慣れた景色が広がっていた。
赤い絵の具を水で薄めたような色が窓から差し込み、埃まみれの部屋を染めている。壁に貼られたメモ用紙には殴り書きの文字が綴られ、机の上には文房具やプリントが散らばったまま。あちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣や埃を取り除くこともせず、そこはまるで家主不在のまま時だけが経過した廃屋のようにすら思えた。
立ち上がり、壁に貼られた付箋紙に手を伸ばす。黄ばんだ紙の表面はざらついていた。薄っすらと色褪せたインク文字を眺めてみると、見覚えのある筆跡で「25日紗英ちゃんに渡す!!」と書かれていた。
「ハハ。何で片付けてないんだよ。父さん、母さん」
思わず笑いが溢れ出した。
全身の力が抜け、俺はその場で崩れ落ちるようにして座り込んだ。リビングにいた老夫婦の丸まった背中が脳裏に浮かび、胸から込み上げてくるものをどうにかして堪えた。
いつか息子が帰ってくるとでも思っていたのだろうか。
俺はもうとっくに死んでしまったというのに。
「思い出したか。高弘」
紫色の長い髪がふわりと舞う。
俺の肩に手を乗せた彼女は、黙ったままそれ以上何も言わなかった。
「ああ、思い出したよ。全部な」
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第八十四話 お前がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている
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太陽が沈み、茜色の空が次第に藍色に呑み込まれていく。
窓際に腰かけた死神は黙ったまま何も言わなかった。
窓の外を眺める紫水晶の瞳には一体どんな世界が映っているのだろうか。俺と同じように全てを忘れ、全てを思い出した彼女は、今何を想っているのだろう。
未だに混乱の残る頭の中で、漠然とした罪悪感が渦巻いていた。彼女を天界の罪人にした元凶である自分が何を言ったら赦してもらえるのか、上手い言葉を見つけられずに視線を床へと下ろしていく。
「済まなかった、チサ。俺がお前のことを大罪人にしてしまったんだな」
「…………」
「死神の掟を知らなかったとはいえ、俺は……」
「お前の所為じゃない」
予想しなかった言葉に思わず顔を上げる。窓の向こうを見つめる彼女の表情は見えない。
夕陽の沈んだ夜空には欠けた月が浮かんでいた。
「高弘。お前はかつて大切にしていたあの二人とは会えたか?」
「…………」
「そうか」
視線を逸らした俺の表情から察したのか、チサはそれ以上何も言わなかった。
《俺もどうか二人の元へ行かせて欲しい、なんて……》
あのとき、俺は強くそう願った。
一度死んだはずの俺は、気がつけば「あの人」の前にいた。
見慣れない景色。そこは「天界」と呼ばれる場所で、「下界」で一度死を迎えた人間の魂が招かれる場所なのだという。
それまでの記憶を失くし、自分が何者かすら分からないまま、俺はそこで宣告を受けた。
自分は罪深い魂で、死神として「あの人」と契約を結ぶのだ、と。
契約の内容は、死神として特別な能力を与えられる代わりに、その身を生涯「あの人」に捧げるというものだった。
死神として「あの人」の下で使命を果たすことは、俺にとっての絶対だった。自分が何者か分からない俺が自分の存在理由を見出すためには、その使命に縋るほか無かったから。
「私達は大切な者を失う連鎖に巻き込まれている」
床に蹲る俺の両肩を掴み、彼女は俺の目を見つめた。
「恐らく私達は、それに抗えないように出来ている。だから、私が特別牢獄に囚われたのはお前の所為じゃない」
「…………」
「お前も、もう気づいていたのだろう?」
ああ。嫌でも気がついてしまった。
死神になった俺は何もかも忘れてしまったはずなのに、時折誰かの笑顔を思い出していたから。
《高弘。最期にキミに会えてよかった》
色褪せた映像の中で彼女が微笑む度、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
忘れることなど出来なかった。それはきっと、犯した罪を決して忘れさせないようにするための、魂に染み付いて離れることのない記憶だったのだから。
「確信はなかった。だからお前に会って確かめたかったんだ」
「高弘……」
「けど、ようやくハッキリした」
俺達は、同じ悲劇を繰り返している。
誰かがこの連鎖を止めなければならない。
俺達がもう二度と、大切な者を失わなくて済むように。
《私もかつて人間だった頃、ある死神に力を貰い、その力で私は大切な人間を殺してしまったんだ》
《私達は繰り返しているんだ、高弘》
けれど、一体どうすれば――。
視界の上端で薄っすらと何かが輝き始めた。
顔を上げると、そこには白い光に包まれた死神チサの姿があった。
「お前……!」
「お前に再び会えて、嬉しかった」
彼女は立ち上がり、落ち着いた声音で告げた。
「これでようやく決意が出来た」
背を向けた彼女の髪がふわりと舞う。真っ直ぐに窓の外を見つめる彼女の背中は白い光に包まれて眩しかった。
「私はこれより天界に戻り、この連鎖を作り出した原因を探しにいく」
「……?!」
チサが何を言っているのか理解が出来なかった。喉の奥から零れた声が思わず裏返ってしまう。
「何言ってるんだ、お前?! 追われてるんだろ。そんなことしたら」
「私を追っていたのは高弘、お前だろう?」
「違う! 天界の死神――特に『宮殿』の連中に見つかったら、お前は……」
「高弘。お前が今すべきことは、私と仲良くおしゃべりをすることじゃないはずだ」
「…………」
「いいか、高弘。よく聞け」
「 」
「 」
明かりを消した部屋に無数の光の粒が舞う。
彼女の身体は淡い光に包まれ輝いていた。輪郭が次第に薄くなっていく。
「私もお前も大切な人間を失った。私もお前も間に合わなかった。しかし、今お前の傍にいる人間はまだ間に合うかもしれない」
「チサ、お前……」
「急げ。私に構うな。まだ、間に合うんだろう?」
伸ばした手は彼女の身体をすり抜け、彼女の姿は今にも消えてしまいそうだった。
最後に微笑んでから、彼女は俺に告げた。
「お前がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている」
夜空を欠けた月が上っていく。彼女の姿は見えなくなり、暗い部屋を照らしていた最後の光が途絶える。
俺の頭の中に、彼女の言葉がいつまでも消えずに残っていた。
☆★☆
俺は蒲田未玖の元へ向かって急いだ。
《お前は大切な人を殺した》
《……私もだ》
俺がずっと追っていた大罪人は、かつて人間だった頃自分の傍にいた死神だった。
そして俺は、蒲田未玖という人間に力を与え、彼女の傍にいる。
《私達は繰り返しているんだ、高弘》
きっといつか、未玖も俺やチサと同じように大切な人間を殺してしまう運命にあるのだろう。
俺が立てていた歪な仮説の通りに。
《俺は。俺達は、運命に屈したりしない》
《きっと必ず、君の元に戻ってくるから》
未玖の部屋で意識を失っていた俺が目を覚ましたとき、彼女は泣いて、泣いて、泣きじゃくっていた。
彼女の身に一体何があったのかは分からないが、縋るようにして腕を掴んだ彼女を置いて、俺は使命を優先してしまった。
あの時俺は、チサに会い使命を果たすことが絶対だと信じて疑わなかった。
《それなら私は、使命を果たすしかないな》
まるで、チサが俺を置いて出て行ったあの時のように。
冷たい夜の空気を切って、ただひたすらに走る。走る。
《ずっと考えていたんだ。私は何故、お前に力を与えたのか》
俺には俺自身の固有能力として「走馬灯を見る能力」があると死神チサは言っていた。
それは、高い精神エネルギーを持つ人間が"wink killer"という天界の力を得たことによって、具現化したものだと言っていた。
だとすれば、未玖はどうなのだろう。
《高い精神エネルギーを持つ魂は、エネルギーを身体の中に僅かに残したまま、生まれ変わった後に前世由来の能力や潜在的な感覚を獲得する場合があるんだ》
《私は思うんだ。前世の自分は、本当に自分なのか、と》
《仮に前世の記憶をとどめていたとしても、それは現世の自分の人格と両立しうるものなのか、とな》
彼女の固有能力は一体……。
屋根伝いに深夜の街を駆けていく。
未だ明かりの消えない夜の街に、誰にも聞こえることのない死神の足音が響く。
《私達は大切な者を失う連鎖に巻き込まれている》
《恐らく私達は、それに抗えないように出来ている》
俺達はどうして、理不尽な悲劇を繰り返さなければならないのだろう。
この連鎖に巻き込まれる人間が皆、高い精神エネルギーを持ち、今なお前世と何らかの関わりを持っているのだとしたら、俺達は何故、こんな連鎖に巻き込まれてしまったのだろう。
(頼むから間に合ってくれよ……!)
誰もいない住宅街の道路に降り立ち、巻き込んでしまった少女の元へと急ぐ。
《いいか、高弘。よく聞け》
《この連鎖を作り出した原因の話だ》
《この連鎖を作り出した原因?》
《ああ。これは偶然なんかじゃない。恐らく誰かに仕組まれている》
《牢獄から私を逃がした奴がいる。誰かは思い出せないが、必ず見つけ出してみせる》
《高弘。お前には守らなければならないものがあるはずだ》
俺達は悲劇を繰り返している。
《急げ。私に構うな。まだ、間に合うんだろう?》
この呪いが生まれたのは、何故だろうか。
これがもし、誰かの仕組んだ悲劇なのだとしたら、
《お前がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている》
この呪いは一体、何の為に生み出されたのだろうか。




