第七十九話 それが、俺の生きている価値だからだ
街外れの廃倉庫に静かな声が響く。
人一人通れるくらいに開かれた扉の向こうからは冷たい海の香りがした。
「誰が殺せっつったよ?」
穴の空いた天井が薄曇りの空を映す。
コンクリートの地面に膝をつく。無機質な冷たさが体温を奪っていくのも気にならなかった。
俺は腹部を殴られた痛みすら忘れ、目の前で繰り広げられる事象をただ呆然と眺めることしか出来なかった。
「リーダー、何で……」
刈り上げ頭の男は言葉を失っていたが、暫くして我に返ると、咄嗟に後退り、弁明の言葉を並べ始めた。
「ハハ、でもだってコイツ、すっげームカついたんすよ」
「……いや、そうじゃねぇだろ」
現れた人物は呆れたようにハァ、と息を吐いてから黙り込んだ。
沈黙。
静かな倉庫に男の荒い呼吸が響く。「なあ。孝太郎」コツ、コツと足音が響く。男は浅い呼吸に浅い呼吸を重ねていく。フードを被ったその人物は男の目の前まで近づくと、男の胸倉を掴み上げ――次の瞬間、男の横腹目がけて勢いよく蹴りを入れた。
地面に蹲る男。男と同じ柄の黒パーカーを羽織ったその人物は、男を見下ろし、丸まったその背中を足で踏みつけた。男が呻くのも構わず、まるで地面を這いずる虫でも踏み潰すかのようにギリギリと体重をかけていく。
「お前さぁ、まず言うことあんだろ?」
「す、すんませんって、ひかるさん……」
「お前、悪人面の割に相変わらず気が弱ぇのな。丸腰相手にバット振ってんじゃねぇよ、カスが」
「すんません! すんませんって! い、ちょっ、ちょっと痛い、痛いっスよ!」
「……チッ」
被ったフードの下、男を見下ろす彼女の目はどこまでも冷たかった。
「次勝手な真似したらぶっ殺すかんな」
男は顔を引き攣らせた後、乾いた笑い声を漏らした。
(まさか……)
嫌な予感がしてたまらなかった。
それを否定するための論理を必死に組み立てようとしても、結局は一つの最悪な結論に至ってしまう。
突如現れた人物。
いつもと違う服装でも。
いつもと違う言葉遣いでも。
赤く縁取られた眼鏡はかけていなくても。
彼女の声に、聞き覚えがある気がした。
彼女の姿に、見覚えがある気がしてならなかった。
《すっ、すんませんって、ひかるさん……》
あの男の言葉に、俺は耳を疑った。
だってその名前は、俺のよく知っている――
「倉元、なのか……?」
大事な後輩の、名前だったのだから。
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第七十九話 それが、俺の生きている価値だからだ
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薄曇りの空からポツリ、ポツリと雨が降り始める。腫れた頬に真冬の海風が凍みる。
刹那――彼女が笑ったような気がして、思わず息を呑んだ。
その答えを聞きたくなかった。
倉元がこの場所にいるなんて、信じたくなかった。
「先輩……?」
けれど、彼女は俺の方を見るなり、小動物のように軽やかに駆けてくるのだ。
「あはっ。無事でよかった~」
いつもと同じアイツの声。いつもと同じアイツの笑顔。
目の前にやって来たその女は紛れもなく、俺のよく知っている倉元ひかるだった。
だからこそ――不気味で仕方がなかった。
「お、お前……」
「あたし心配したんですよ? でもよかった、先輩が無事で」
「倉元、どうして」
彼女は地面にかがみ、俺の顔を覗き込んだ。
俺は彼女を見上げることしか出来なかった。
「あれ、もしかして先輩、感動してます? あたしが先輩を助けに入ったこと、感動してます?」
「な……」
「って、先輩固まっちゃいましたか。まあ、しょうがないですよね。さっきアイツに殺されかけたんだし。なあ? ……孝太郎」
言葉尻で声のトーンを落とし、彼女は背後にいる男をギロリと睨みつけた。孝太郎、と呼ばれた男は自らの失態を詫びるべく謝罪を繰り返している。
(な……)
なんだ、これ。どうなってんだ。
これじゃあまるで、お前が初めからあの男と知り合いだったみたいじゃないか。
だったらあの時、どうしてお前はあの男に襲われたフリをしたんだ?
どうして、お前……
「まあ。何はともあれ、先輩」
倉元はそう言うと、俺の上に圧し掛かった。
混乱していた俺は抵抗もままならぬまま、両肩と両足を押さえつけられる。困惑する俺を見下ろしながら、彼女は笑って言葉を続けた。
「あたし達は、先輩を助けに来たんですよ」
何を言っているのか、分からなかった。
コイツが何をしようとしているのか、分からなかった。
「お前……」
あの男と、仲間なのかよ。
だったらどうして、あの時襲われるフリなんかしたんだよ。
俺を助けに来たって、どういうことだよ。
お前らさっき、俺のこと殺そうとしただろ。
お前、俺に恨みでもあんのかよ?
(どうしてだ、倉元)
だとしたら、どうして紗英ちゃんを傷つけようとするんだ。
俺に恨みがあるなら、俺だけをどうにかすればいいじゃないか。
紗英ちゃんは関係ないだろ……!
「大丈夫です、先輩。きっとこれで幸せになれますから」
そう言って、彼女は笑った。
《あたし、分からないんです。人の幸せって何なのか》
訳が分からなくなった。
だってそれは、とても嘘をついているとは思えないくらいに穏やかな微笑みで。
「あの日、あたしは先輩に命を救われました」
「…………」
「だから、先輩のことどうしても助けなきゃって思ったんです。あの女から」
倉元が睨みつけた先にあったのは、両手足を拘束されて横たわる紗英ちゃんの姿。
彼女は俺の両肩を掴む手に力を籠め、歯ぎしりしながら言葉を吐いた。
「あの女。優しい先輩を、よくも……!」
一体何を言っているのか分からなかった。
紗英ちゃんから俺のことを助ける?
何を言っているんだ。
紗英ちゃんは、俺に何もしていないのに。
何でコイツは、紗英ちゃんのことを……
「絶対に許せねぇ。あの女だけは」
「お前……」
「ああ。安心してください。先輩に危害を加えるつもりはありませんから」
「お、お前……何を……」
「今からあの女は汚れるんですよ? 先輩が愛する価値もないくらいに」
倉元は笑って告げた。
「だから、あんな人間のこと、もう忘れてくださいね?」
腐敗した天井からぽつり、ぽつりと雨粒が零れ落ち、俺には何故か、笑っているコイツが泣いているように見えた。
(何言ってんだよ、倉元)
汚れるって、何だよ。
お前、何言ってんのか、全然分かんねーぞ。
だって、お前はどうしようもなく馬鹿で、そのくせいつも俺のこと馬鹿にしてきて、
《きっと大丈夫ですよ。先輩》
でも本当は優しい奴で、俺のことを認めてくれて、応援してくれたじゃないか。
お前は、こんなことする奴じゃないだろ。こんな奴じゃ……
「ひかるさん、本当にヤっちゃっていいんすか」
「…………」
倉元は低い声で唸った。
「この女はゆるせない」
男が紗英ちゃんの方に近づいていく。
紗英ちゃんの悲痛な叫び声がする。
「先輩。先輩はあたしのこと、どう思ってますか」
どうしたんだよ、倉元。
「あたしは、先輩が大事ですよ」
どうして、紗英ちゃんを傷つけようとするんだ。
「だから絶対に、何をしてでも、先輩のこと守りたいんです」
倉元は俺を見下ろしながら笑っていた。
今までのコイツは、全て嘘だったのだろうか。
笑い合って一緒に過ごしてきた他愛のない日常も、お前を助けに行った、あの時だって――
でも、お前のことを襲ったアイツはお前の仲間なんだろ。
だとしたら、お前は今までずっと俺のこと騙してきたっていうのかよ。
「……守るんだ」
男が紗英ちゃんの髪を掴み上げる。
紗英ちゃんの苦しむ声が聞こえる度、胸が強く締めつけられた。
「俺は、紗英ちゃんを守る」
《だから、あんな人間のこと、もう忘れてくださいね?》
倉元、俺はお前が何と言おうと、紗英ちゃんを助けるんだ……!
情けないことに、俺の華奢な身体は女である倉元の拘束からすら抜け出すことができなかった。
それでも、必死に抵抗する。
「先輩、どうして……っ!」
俺の両腕を掴む倉元の手に、さらに力が入る。
彼女は表情を苦悶に歪めた。
「どうして? あの女は、先輩のこと騙しているのに……っ!」
一瞬、全身の力が抜けてしまう。
紗英ちゃんが、俺のことを騙している?
何を言っているのだろう。
「先輩は、あの女に騙されてるんです!」
紗英ちゃんが、俺のことを騙している筈がない。
だって、紗英ちゃんは……。
《優しい人は必ず、私を裏切って目の前からいなくなってしまうから》
紗英ちゃんは……。
《私、感謝してるんですよ。何か大切なことを思い出せた気がするから。あなたと出会えて》
《笑うことって、こんなに素敵な気持ちになれるんですね》
今まで俺に向けてくれた彼女の笑顔が嘘だなんて思いたくない。
俺に掛けてくれた彼女の言葉が嘘だなんて思いたくないのに……。
「先輩は愛されてなんかいない! でもあたしは、先輩のことずっと」
「はは、そうだよな。そうだった」
何を考えているんだ、俺は。
決めたじゃないか。
「俺は紗英ちゃんのことを守りたいんだよ。たとえ彼女に嫌われたとしても」
「ど、どうしてっ……!」
「それが、俺の生きている価値だからだ」
《俺、生きてて良かったんだなあ》
俺は紗英ちゃんと出会って、生きる意味が分かった。
人を殺して、その家族の幸せを奪って、決して赦されることのない罪を背負ったこの俺が。彼女と出会えて、彼女を好きになって。奪った幸せの分だけ誰かを幸せにすれば、赦されるような気がしたんだ。
彼女が初めて、俺に生きる理由を与えてくれたから。
「先輩……」
倉元は目を大きく見開き、唇を震わせた。
吸い込まれそうなほど黒いその瞳に映っていたのは、深い、深い――絶望だった。
「……ッフフ、あはは!」
彼女は天井を見上げ、突然吹き出したように笑い出した。
「どいつもこいつも守るだとかなんだとか、口先だけなら簡単だもんなあ?!」
「倉元……」
「だからあたしは、お前らみたいなギゼンシャが大嫌いで堪らないんだよォあはははは!!」
お腹を抱え笑い出した彼女を、俺は呆然と見上げていることしかできなかった。
ひとしきり笑った後――彼女は笑顔を顔に貼りつけたまま、一筋の涙を零した。
薄曇りの空が晴れていく。
廃倉庫の天井から光の柱が降り、彼女を照らした。
「あーあ。神様には随分前から死ねって言われてたのになあ」
俺を見下ろす彼女の瞳は、どこまでも冷たかった。
それは、この世界の全てを悲観したような目だった。
「死ね。ギゼンシャ」
頭上で何かが鈍く光る。
と同時に、彼女の瞳から温かく湿ったものが頬に落ちた。
「 」
――気がつけば俺は、右目を瞑っていた。
カラン、と金属ナイフが地面に落ちる音が響く。
倉元は目を大きく見開いたまま、力なく俺に倒れ掛かった。
覆い被さった彼女の体温が少しずつ失われていく。
目の前に、白黒映画のようなモノクロの景色が広がっていく。
初めて土井教授を手に掛けたあの日から、俺には死にゆく人間の走馬灯が見えるようになった。
映し出された映像は、彼女の真実を、あの夜、研究室で起きた真実を映し出していった――。




