第七十七話 かけがえのない、当たり前の日常
紗英ちゃんと付き合い始めてから半年が経過した。
俺は今、人生初の恋人とクリスマスイブを過ごしている。
雪の降る街を並んで歩く。傘の下、隣の彼女はかじかんだ指先を吐息で温めていた。
傘を右手に持ち替え、左手を繋ごうと伸ばそうとしたところで彼女がチラリとこちらを向く。思わず手を引っ込めてしまう。彼女は悪戯っぽく笑ってから俺の手を取り、何を思いついたのか、突然、何処かへと駆け出した。
「紗英ちゃん、傘! 傘!」
すれ違う人々の間を抜け、小柄な彼女の背中を追い掛ける。
傘から抜け出した彼女のミルクティー色のコートの背中に、綿のような雪が点々とついていく。彼女はショーウィンドウの前で立ち止まり、こちらを振り返った。耳元でキラリとアクセサリーが光る。普段と違う編み込みのヘアスタイルもよく似合っていた。
(天使だ……)
大人びた彼女が時折見せる子供らしい一面に、俺は保護者宛ら顔を綻ばせずにはいられなかった。隣で死神がだらしない顔だとかなんだとか言っているが無視する。
「見て、高弘! このチワワ、凄く高弘に似てるでしょ?」
彼女の隣に並ぶ。愛くるしい犬の姿を眺めながら、彼女はペットショップの前で「可愛い~」と声のトーンを上げた。確かに、よく見ると目元が似ている気がしないでもないが……。
少し複雑な気持ちになったものの、紗英ちゃんが楽しそうで俺は何よりであった。ショーウィンドウに笑いを堪える死神の姿が映っていたが無視する。お前後で覚えとけよ、死神チサ。
「私、この子飼いたいなあ。名前はタカヒロ2号でいいかな?」
「え」
何故俺に許可を?
「だって、この子ばっかり可愛がってたらほら、ふふ。高弘、絶対寂しくなるでしょ?」
どういうことだよ?!
「俺って紗英ちゃんの中で何だと思われてるの!」
「大丈夫。高弘もちゃんと可愛いよ?」
ガラスの向こう側からタカヒロ2号がつぶらな瞳で同情に似た視線を向けてくる。白いチワワから心なしか「どんまい」と慰めの言葉が聞こえてきた気すらした。畜生、何故子犬如きに負けた気持ちにならなければならないんだ。
しかし、ショーウィンドウに映った自分の素顔は相変わらず少年にしか見えなくて、残念ながら先輩の威厳やら男の威厳やらは微塵も感じられそうにない。後ろでチサが「お前、犬に負けなくて良かったな」と煽ってくるので、俺の中でコイツに対する嫌いポイントが1上昇した。お前本当に後で覚えとけよ、死神チサ。
なお、結局タカヒロ2号が彼女の元にやってくることはなかったのだが、
「このぬいぐるみ、高弘に似てる!」
彼女の興味が次のターゲットへと移り変わる度、悪気のない笑顔を前に再び切ない気持ちにならざるを得なかった。
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第七十七話 かけがえのない、当たり前の日常
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都心のビル群連なる地区。その地上高くに位置するレストラン。
この日のために数か月分のアルバイト代を貯金しておいた俺は、男らしいところを見せるべく、普段のデートでは行かない(行けない)ような場所で彼女にランチを振る舞う算段となっていた。
「凄いね、高弘。こんなところに来られるなんて」
解放感溢れる窓の外にはしんしんと雪が降り、港町は一面が真っ白に覆われていた。
生ピアノの音色が聞き馴染みのあるクラシック音楽を奏でている。
「紗英ちゃん。大学三年生の財力を舐めて貰ったら困るよ?」
「ふふ。高弘は凄いね」
女子はこういう場所で食事をするのが理想だと、神楽田も言っていた。悔しいが、人生モテ続けてきたアイツの言う事だ。絶対に喜んでもらえるに違いない。
前菜、スープ、魚料理に続きメインディッシュが運ばれてくる。高級サーロインステーキからは、食欲をそそる胡椒の香りに混じってほのかに赤ワインの香りがした。
ふと顔を上げると、彼女は俯いたまま料理を眺めていた。
シャンパンから小さな気泡が立ち上っていく。
白いテーブルクロスに散らばったパンの欠片をそそくさと集めていたタイミングで、紗英ちゃんはふと「ねえ、もしも――」と言葉を零した。
「私が立証出来ない犯罪で殺されたら、高弘はどう思うのかな」
「えっ」
彼女は髪を耳に掛け、食器を手に取った。
音楽は短調へと切り替わる。メインディッシュにナイフを入れながら、彼女は言葉を続けた。
「存在する筈のない不能犯は、今の法律では裁けない」
メインディッシュから赤ワインが滲んでいく。
「高弘。私を殺した犯人が法律で裁けない相手だとしても、裁かれなければ駄目だと思う?」
「紗英ちゃん……?」
「私は、高弘が殺されたら赦せないよ」
ピアノの音色が止まる。
ナイフを持つ手を止め、彼女は顔を上げた。
「キミのこと、好きだから」
なんて、そんな非科学的なことあり得ないよね――微笑んだ彼女の瞳はどこか遠くを眺めているような気がした。
大人びた雰囲気を纏う彼女は、とても大学一年生とは思えなかった。
☆★☆
夜になると、街の雰囲気は一層ロマンチックになった。
丘の上にある公園はイルミネーションで彩られ、デートスポットなのであろう、俺達の他にも何組かカップルがいた。
展望デッキに並び、二人で雪の降る街を眺める。チラリと横に視線を移すと、隣の彼女の瞳には煌びやかな夜の街が映っていた。
遠くの方でオルゴールの音色が聖夜の賛歌を奏でる。白い淡雪が空中を舞う。展望デッキの柵に手を掛け、彼女は「綺麗」と感嘆の声を漏らした。
手に持った黒い傘の下、ふと、彼女がこちらに視線を向ける。
「ねぇ、高弘……」
彼女は俺の顔を覗き込んだ。
ヤバい、顔が近い。美女にここまで接近されて何も感じない男などいる筈がない。女子特有の甘い香りが俺を誘惑し、俺は思わずゴクリと喉を鳴らした。
彼女は俺の手に指を重ね、段々とこちらに顔を近づけた。
目と鼻の先で交差する呼吸。耳元で鳴り響く心臓の音。オルゴールの音色は遠く、彩られた光の粒が時折淡く瞬く。いつもより大人っぽい彼女の唇は、柔らかくて美味しそうな体貌をしていて――
不意に、彼女はクスリと笑った。
「ふふ。キスすると思ったでしょ」
「…………」
「キミはすぐ顔に出るか……」
――一瞬、時が止まったような感覚がした。
再びオルゴールの音色が流れ出す。しんしんと、傘の上に雪が降り積もっていく。
唇には未だに柔らかい感触が残っていて、照れ臭さを誤魔化すべく、俺は咄嗟にしたり顔を浮かべてみせた。
「今のは、顔に出てなかっただろ?」
黒い傘の下、隣の彼女の瞳が小刻みに揺らいでいた。
咄嗟に唇を抑え、赤面した後――彼女は眉根を歪め、ほろほろと大粒の涙を流した。
(泣かせてしまった……!!)
咄嗟に謝罪する俺に、彼女は首を横に振って「ありがとう」と微笑んだ。なおこの間、小心者の俺の心臓が今世紀最大の鼓動を鳴らしていたことは言うまでもない。
白い吐息が夜の空気にとけて消えていく。
遠くの夜景を眺めながら、彼女はふと「あのね、」と言葉を零した。
「私。昔、好きだった人が死んだの」
咄嗟に口から零れ出した驚きの声は、乾いて音にならなかった。
マフラーに顔を埋め、彼女は虚ろな目で夜の景色を眺めていた。涙の乾いた跡が薄っすらと筋を描いていた。
「それから、世界が灰色になって、何も感じなくなった」
「…………」
「優しい人は必ず、私を裏切って目の前からいなくなってしまうから」
でもね――
虚空を眺めていた彼女はこちらを向き、柔らかい声で告げた。
「高弘と出逢えて、私、また笑えるようになった」
彼女は目を赤くしながら微笑んでいた。
「私のこと、好きって言ってくれてありがとう」
どうして君は泣いているの――
俺には、彼女が寂しそうに笑う理由が理解出来なかった。
「ありがとう、高弘。こんな私をここまで連れて来てくれて。こんな私を好きだと言ってくれて」
「紗英ちゃん……」
「こんな私に、こんなに素敵な景色を見せてくれてありがとう」
港町に汽笛の音が鳴り響く。白い雪が街の景色を染めていく。
ずっと、こんな日々が続くと思っていた。
大切な人が傍にいる、かけがえのない、当たり前の日常が――
――明日には終わってしまうとも知らずに。




