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第七十六話 君を守るために――後半

 昼空を雲が覆い、燦燦と地上に降り注いでいた光が和らいでいく。川辺で遊ぶ子供達は夏休みを謳歌しており、軽やかな子供達の声と共にウッドデッキが軋む。隣のベンチに腰掛ける老夫婦は、駆け回る小学生達を眺めながら顔を綻ばせていた。


 「それにしても、高弘さん。こんな都会の高層マンションに住んでたんですね」

 「えっと……」


 紗英ちゃんはベンチの縁に手を掛け、目の前のマンションを見上げながら「お金持ちはいいなぁ」と口を尖らせた。

 一方俺はというと、目の前に彼女がいることが信じられないまま、情けなく口をパクパクさせることしかできず――


 「高弘さん?」


 彼女は大きな瞳をぱちくりさせながら、ずい、と俺の顔を覗き込んだ。

 目と鼻の先程の距離に彼女の顔があった。思わず息を止めてしまう。彼女の瞳のガラスの中には、身振り手振りで挙動不審な動きを繰り出す男の姿が映っていた。


 ハーフアップでまとめられた茶色の髪が柔らかく揺れ、彼女はふわりと微笑んだ。

 風に乗って女子特有の淡い桃色の香りがした。



 (紗英ちゃん、君は……)


 何故わざわざ俺の家の近くまで来てくれたのだろうか。

 この間デートの途中で抜け出してしまった俺のこと、本当は怒っているんじゃないだろうか。


 喉まで出掛かった言葉がどうしても口から出ていこうとしない。


 「私、高弘さんがまたあの人のところに行っちゃうんじゃないかと思って」

 「…………!」

 「そうしたら居ても立っても居られなくなったんです」


 まるで俺の心中を見透しているような台詞だった。


 老夫婦の談笑。ウッドデッキの上で軽やかに弾む子供達の足音。

 駆け回っていた子供の一人が転んで泣き出してしまう。すると、遊んでいた二人の男子は同時に彼女へ手を差し伸べた。


 「お二人の間には、きっと何か特別なものがあるんでしょうね」


 転んだ女子は、そのうち一人だけの手を取った。


 「それはきっと、私にはお話出来ないような秘密、なんでしょうね」


 憂いを帯びた彼女の瞳は前だけを映していた。

 俺は曖昧な言葉を返すことしか出来なかった。



 「ふふ。嘘です、冗談ですよ。ちょっと拗ねてみたかったんです」


 高弘さんは優し過ぎるからなあ――彼女は眉尻を下げて笑った。

 子供のように足をぶらぶらと遊ばせながら。見渡せば、駆け回っていた子供達の姿は無くなっていた。曇り空の下、凪いだ川がマンションを逆さまに映していた。


 謝罪の言葉を伝えようとした瞬間、紗英ちゃんはチラリと俺の顔を見やった。

 「高弘さん……」それから、彼女は興味津々といった表情でこちらに身を乗り出した。本日二度目の至近距離に思わず胸がドキリとしてしまう。


 彼女は数回瞬きを繰り返した後、ふと吹き出したように笑うのだ。


 「ふふ。やっぱり見てるだけで面白いなあ」

 「え?」

 「だって高弘さん、台詞が全部顔に出てるんだもん!」


 彼女は可笑しそうに笑いながら、タタ、と川辺まで駆けていった。

 「待って」遠くの鉄橋を紅白の電車が通り抜けていく。次第に雲が晴れ、夏の日差しがウッドデッキを照らしていく。「紗英ちゃん」俺は立ち上がり、彼女の名前を呼んだ。


 風が吹き、川縁に佇む彼女のワンピースがふわりと膨らむ。


 「高弘さん。私、感謝してるんですよ」


 晴れた雲の隙間から日の光が降り注ぐ。

 俺は眩しさに思わず目を細めた。かざした指の隙間から、穏やかに微笑む彼女の表情が見えた。


 「何か大切なことを思い出せた気がするから。あなたと出会えて」

 「…………」

 「ずっと忘れてたんです」


 その時、彼女の浮かべた満面の笑みが忘れられなかった。



 「笑うことって、こんなに素敵な気持ちになれるんですね」



 降り注ぐ日差しよりも眩しくて、太陽のように温かい笑顔。

 風に揺れる茶髪が、日光に照らされてキラキラと輝いていた。


 (紗英ちゃん……)



 俺は、どうして君を好きになったんだろう。


 初めて出会った、うららかな春の昼下がり。

 あの日、君の寝顔はとても可愛らしくて、


 《…………》


 初めて目にした君の寝顔を俺は、


 《俺は君を、どこかで……》


 何故か、()()()()と思ったんだ。


――――――――――――――――

第七十六話 君を守るために

――――――――――――――――


 初めて君に会った時、言い知れぬ感情が沸き起こったのをよく覚えている。


 それは父親が娘に対して抱くような、優しくて温かい感情のように思えた。

 それはある種の使命感に似た、心の奥底から感じる決意のようにも思えた。


 《さっ、紗英ちゃんはさ、好きなテレビ番組とかある?》

 《……別に》


 初めは何度も君に冷たくあしらわれたけれど、


 《メールアドレス! 貰ってもいいかな!!》

 《いいですよ》


 少しずつ、少しずつ。

 君は笑うようになってくれた。


 《本当は私、人間が怖いんです》


 君が弱さを見せてくれた時、無性に胸が高鳴った。

 誰も寄せ付けなかった冷たい彼女が、俺にだけ心を開いてくれたのだと。


 何処か掴みどころのない君の笑顔は天使のようで、気がつけば俺の心は囚われていた。


 「紗英ちゃん、俺……」


 俺は、もっと傍で君の笑顔を見ていたい。



 「紗英ちゃんのことが好きだ」



 彼女は一瞬、目を見開いた。


 「相変わらず優しいですね。高弘さんは」


 彼女はすぐ、顔を逸らした。


 「それで、私の父親になってくれるんでしたっけ?」


 広々とした川辺に風が吹く。風上にいる彼女の方からは淡い香りがした。

 反対側を向いた彼女の表情は見えない。「ええと……」照れ臭くなって人差し指で頬を掻いていると、紗英ちゃんは向こう側を向いたまま「冗談ですよ」と笑った。


 「お、俺は。ずっと君の傍に居たいし、君のためなら何だって出来るんだ」


 そうだ。

 君と初めて出会った時から、君は――


 「特別、なんだよ」



 初めて君と出会った時に抱いた、不思議な感情。

 微睡の中で流していた君の涙を見た瞬間、何故だか強い感情が沸き起こった。


 君の前に立ちはだかる障害を全て排除して。何としてでも、君を守らなければいけないと思ったんだ。


 《君を傍で守りたい》


 たとえ、どんなことをしてでも。


 《ぱぱ、大好き!》



 ――君の人生を台無しにする人間は、()()()()()



 (俺、今何て……)


 「特別……」


 彼女は淡々と、淡々と、繰り返し呟いてから、こちらを振り向いた。

 肩まで伸びた髪がふわりと舞う。太陽の下、細い糸がキラキラと輝いていた。


 彼女はふと、表情を緩めた。


 「ありがとう」


 目尻から一滴の何かが零れ落ちた。

 キラリと輝いたそれはまるで涙のようで、



 「私も、高弘さんのことが好きです」



 その言葉を聞いた瞬間、強張っていたものが解れていくような感覚がした。



 「紗英ちゃん……」


 この瞬間だけで、十分だと思った。

 この瞬間だけで、俺が生きている意味が分かったような気がした。


 《お前に生きる価値がないなら、俺は……》


 ああ、そうか。

 俺は、そのために。


 「高弘さん、どうして泣いてるんですか」

 「あ、はは」


 ずっと分からなかった。

 どれだけ気にしないように取り繕ってみせても、俺はいつだって過去に怯えて生きてきた。


 君の傍にずっといることで、罪滅ぼしになるような気がして。

 奪ってしまった笑顔の分まで誰かを幸せに出来れば、赦されるような気がして。


 「俺、生きてて良かったんだなあ」


 だから、君の言葉に救われたんだ。



 見上げると、両手では抱えきれない程の空が広がっていた。

 空は青く晴れ渡っていて、何故だか笑いが止まらなかった。何故だか涙が止まらなかった。


 「俺、君を守るから。絶対に、絶対に守るから」

 「高弘さん……」


 自分がどうして死神の力を手にしたのか、やっと分かった気がした。

 どうすれば自分が赦されるのか、やっと分かった気がした。


 《ずっと忘れてたんです》

 《笑うことって、こんなに素敵な気持ちになれるんですね》


 二度と使わないと決めた力だったけれど、ようやく覚悟が出来た。


 ようやく笑顔を取り戻した君が、二度と笑顔を失わなくて済むように。

 君を守るためなら、俺は――



 青空から淡い光の粒が零れ落ちる。

 鉄橋の向こう側は曇り空で、こちら側だけが晴れ渡っていた。

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