第七十四話 もう、二度と使わないって決めたんだよ
「倉元、今どこにいる!」
「あ、あたし今、大学出たところで」
「分かった。今そっちに――」
そこまで言いかけたところで、はっと我に返った。
今、目の前に紗英ちゃんがいる。紗英ちゃんをこのままここに置き去りにしてアイツのところに行くなんて、俺にはできない。
でも、このまま俺が倉元を助けなければアイツはどうなってしまうのだろう。
(俺は、アイツを見捨てるのか)
倉元は生意気で、空気が読めなくて、最低の奴だけど、
《先輩はあたしの命の恩人です》
《助けてください、先輩……!》
友達一人いない後輩が頼れるのはきっと、俺しかいないだろうから。
「大丈夫ですか。高弘さん」
紗英ちゃんは小首を傾げ、じっとこちらを見つめていた。
石畳の商店街が橙色に染まっていく。潮の香りが鼻の奥を突いてやけに痛かった。
「紗英ちゃん。俺……」
「ふふ。相変わらず優しい人ですね」
白いレースが風に揺れる。
「行ってきてください」
彼女は寂しそうに笑った。
遠くで汽笛の音がした。雲の向こうから光の柱が降りて、目の前の彼女を淡く照らしていた。
「ふふ。高弘さん、どうしてそんなに泣きそうな顔してるんです?」
「お、俺……」
こうして躊躇っている間にも、倉元の身に何か起こっているかもしれない。
でも。
「やっぱり、君を置いてアイツのところに行くなんてできない。まだ君に大事な言葉を……」
「あーあ。やっぱり飽きちゃったなあ」
彼女はそう言うと、小走りで前に駆けていった。
「今日は高弘さんのエスコートもまあまあでしたし。私、もう一人で帰っちゃいますね」
一つ先の街灯の下で立ち止まった彼女は、ふとこちらを振り返り、意地悪そうに笑った。
その言葉で、俺は理解した。
これは、紗英ちゃんの優しさだ。
なかなか素直に言葉に出してくれない彼女らしい、おそらく精一杯の優しさ。
そんな彼女の想いを、俺は無駄にすることなんてできない。
(ごめん。ごめん、紗英ちゃん)
「紗英ちゃん。俺、アイツのとこ行ってくる!」
「…………」
「でも、絶対! 絶対に俺、今度続きを伝えるから! 何度でも。何度でも伝えるから!」
俺は彼女に背を向けて走り出した。
風の音が耳元でヒュウ、と大きく鳴る。次第に空が赤く染まっていく。
携帯電話を握りしめながら、俺は駅に向かって全力で走った。
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第七十四話 もう、二度と使わないって決めたんだ
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大学の最寄り駅に辿り着いた俺は、再び後輩に電話を掛けた。
携帯電話を耳元にあて、改札を出る。発信中の音。発信中の音。地下鉄から地上への階段を急ぐ。数十段ほどある階段を走って上りきったところで、ようやく電話が繋がった。
「はあ、はあ……倉元、お前無事か? 大丈夫なのか?」
「せ、先輩」
電話の向こうから聞こえてくる声はいつになく震えていて、これが緊急事態だと察するには十分だった。
「今駅に着いたから、とりあえず落ち着け。大丈夫だから、な?」
「怖いんです。まだつけられてる気がして」
「すぐにそっちに向かう。お前今、どこにいるんだ?」
「だ、大学の東門の近くに」
「分かった。すぐ行くから待ってろ」
「先輩」
ごめんなさい――携帯電話から聞こえた謝罪の言葉は今にも消え入りそうな程にか細くて、俺は息を切らしながら精一杯笑ってみせた。
「馬鹿、お前が謝る必要なんてどこにあんだよ。いいか、馬鹿倉元。お前は俺が来るまで明るいところで待ってろよ」
「うぅ」
いつもの生意気からはあり得ないほど素直な返事から察するに、おそらく相当な精神的ダメージを受けているのだろう。
通話中の携帯端末を握り締める掌に力が籠る。端末がミシリと音を立てた。
《ゼミで一番頭の悪い君達に構っているうちに、娘や息子みたいに思えてきたからかもしれないなぁ》
《君達が裏切ったからだ》
「頼むから何も起こらないでくれよ……!」
以前俺と倉元の目の前で起こった悲惨な出来事を思い起こしながら、二度とあのようなことが起こらぬよう切に願った。
もう、あんな風に苦しむアイツの顔は見たくない。
目的地に辿り着く。
しかし、東門付近に彼女の姿は無かった。
門の手前にあるベンチは沈みかけた夕陽に照らされて閑散としていた。ベンチの上に一つ、見覚えのある荷物が置いてあった。
――否、置き去りにされていた。
「…………!」
それは、やたらと大きい空っぽのリュックサックだった。
見た目ばかり真面目で中身は何も詰まっていない、実にアイツらしいリュックが一つ、持ち主不在のまま不自然な程乱雑に置き去りにされていた。
まるで、彼女だけが連れ去られてしまったかのように。
「まさか……」
東門の警備員室に立ち寄る。空っぽの部屋にはいつも通り、時計の秒針の音だけがチク、タク、と響いていた。
通話中の携帯端末をもう一度耳にあてようとしたその時、門を出た向こう側から、よく知った人物の叫び声が聞こえた。
「……っ!」
嫌な汗がタラリ、と背筋を流れる。
間違いない。アイツの身に何かあったのだ。
急がなければ。アイツはまた、あの恐怖を――。
暮れなずむ空が地面を真っ赤に染めていく。
門を出た先にひっそりと佇む細いトンネル。人通りのない鬱蒼とした空間にひぐらしの鳴き声が反響している。
トンネルの出口側に見える空はまさに血の色をしていた。
夕陽が薄暗い空間を照らし、次第に暗闇の中のシルエットが浮かび上がっていく。
その光景を目にした俺は、思わず言葉を失った。
「せ、んぱ……」
倉元は、見知らぬ男に首を絞められていた。
薄暗い夕闇にも徐々に目が慣れていき、情景が鮮明になっていく。
その男――刈り上げた坊主頭に凶悪な目つきをした男は、同年齢か少し下程度だろうか、倉元が苦しむ様子を前にしても顔色一つ変えていなかった。
「お、まえ」
薄汚れた黒い服。片翼を捥がれた天使。
入口の電柱に取り付けられた明かりが灯る。薄明りと共に、倉元の抵抗した跡なのか、背中に靴の裏側の模様が浮かび上がっていく。
「は……離せよ」
枯れた喉から音を伴った言葉を絞り出すまでに、どれくらい時間が掛かっただろうか。
震える手足。重圧に耐えかねて全身の筋肉が硬直し、鉛のように重たくなった身体は思うように動かすことすら叶わない。
辛うじて喉から零れ出した声は、上ずって威嚇の意味をまるで成していなかった。
「誰すか? 邪魔しないでくださいよ。リーダーの命令なんすから」
男は顔色一つ変えないまま、ギロリと視線だけをこちらに向けた。
地べたを這いずる虫けらでも見るような目。
男に睨まれた瞬間、先程映画館で流し込んだ飲み物が胃から逆流しそうになった。
それでも、
「は、離せよ……!」
爪の先を掌の内側に食い込ませる。痛みで恐怖を紛らわせる。
下唇に歯を突き立て、両眼に力を籠め、唸るような低い声を上げ、逃げ出したくなる感情を嚙み殺して。
「ソイツは俺の大切な後輩なんだ」
本能が逃げろと叫んでいた。
両膝の震えが止まらなかった。
けれど、倉元はきっと俺を信じて助けを求めただろうから。
視線の先で、生意気な後輩が赤縁眼鏡の奥からぽろぽろと大粒の涙を零していた。
遅くなって済まなかった。
もう大丈夫だ、倉元。今俺が――
「後輩、ねェ」
男は倉元から手を離した。
地面に崩れ落ちた倉元は咳込んでいた。
「はは。ははハハハハハァ!!! そうかそうか、お前がァ。ヒハはははは」
「…………!」
「随分ひょろい身体してんすね。女かと思ったわ」
瞬間――男の表情が豹変する。
「死ねよ。お前」
男が一歩ずつこちらに近づいてくる度、無意識のうちに後退りしてしまう。
吊り上げた口の端から八重歯がギラリと光っていた。その瞳に宿っているのは狂気に満ちた殺気に違いなかった。俺は何故か死を予感せずにはいられなかった。
《土井……教授……何で……っ》
ああ。あの時と同じだ。
俺は男に何度も顔面を殴られた。
トンネルの壁を背にして、何度も。何度も。何度も痛みが続いた。訳も分からないまま、痛みだけが広がっていった。
(な、んでだよ……)
少しずつ感覚が遠くなっていく。
遠くの方で死神の叫び声が聞こえる。
死神は表情を苦悶に歪ませながら「早く力を使え」と叫んでいた。
視界の端で倉元が大粒の涙を零していた。
(何で。何で何でこんなに)
俺達は、どうして恨まれなければならないのだろう。
《何で、だと? 決まっているだろう。君は……》
教えてください。教授。
あなたはあの日、どうして俺達を殺そうとしたんですか。
「この男を殺せ、高弘! 死にたいのか!」
(そうだ。ここでコイツを殺せば)
目の前に立ち塞がる理不尽を全て排除して。
大切な人間を守って。
それで、それで、それで、それで。
《ぱぱ、大好き!》
そうすればいつかは終わるのだろうか。
俺を縛り続けるあの少女の笑顔も、いつかは消えて無くなってくれるのだろうか。
(何考えてんだ。俺)
父親を失ったあの少女には何の罪もなかった。
きっと、名前も知らないあの娘の笑顔を奪った罪を、俺は一生背負っていかなければならないのだろう。
だから、この力で教授を殺してしまったあの日、俺は誓ったのだ。
俺はもう――
「この力はもう、二度と使わないって決めたんだよ……!」
失っていた力が次第に戻っていく。俺は拳を強く握りしめた。
男の死角から急所に膝蹴りを一つ。予想外の反撃に刈上げ男は上半身を仰け反らせていたが、やがて大きく振りかぶり――
「や、めて、ください」
男のパーカーの端を掴んだのは、予想外の人物だった。
「倉元……!」掠れた声が漏れ出す。逃げろ、と叫ぼうとしたけれど、結局その声が音になることはなかった。
刈り上げ男は斜め後ろに視線を映し、目を見開いて硬直した。
その瞳孔は小刻みに揺れ、見間違いだろうか――一瞬だけ、恐怖が混じって見えた気がした。
数刻の沈黙が流れる。
やがて、男は舌打ちを一つしてから、乾いた笑い声を漏らした。
「ああ。何つー命令してくんすかねぇ」
「………………」
「ヒヒヒヒ。酷いなぁ、うちのリーダーは」
周囲の木の葉がさざめく。腫れた頬がヒリヒリと酷く痛んだ。
男は何も言わずにその場を立ち去っていった。
トンネルの中には呆然と立ち尽くす俺と、安堵する死神と、噎せ返りながら座り込む倉元だけが残った。




