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第七十二話 私、ラーメンは塩味しか認めないので

 空に悠々と浮かぶ夏の雲。風に木々が揺れ、テラス席に広げた参考書の上に木漏れ日が降り注ぐ。

 試験期間中も相変わらず、蝉の鳴き声は止まない。図書館前の中庭に設けられたテラス席には、レジュメやテキストを片手に数人の学生達が試験勉強に励んでいた。



 連絡先を入手してからというもの、俺と紗英ちゃんの距離は確実に近づいていた。

 欠席した授業分のレジュメを見せるお礼として、試験前に勉強を教えてもらう――というのは単なる口実で、俺は遂に彼女と試験勉強という名のデートを果たすことに成功したのだ。


 試験は今日の午後。図書館前の中庭には、優秀な大学一年生に手取り足取り勉強を教わる不出来な大学三年生という構図が出来上がっていた。


 「ここの文章、論理が飛躍してますよ」


 俺の文章を添削しながら、優秀な一女(大学一年生女子)は髪をかき上げ、耳に掛けた。木漏れ日に照らされた茶色の髪は時折金色に輝き、中庭に風が吹く度にふわりと甘い香りがした。

 ああ。きっと、天は地上に天使を遣わされたに違いな――


 「聞いてますか? 高弘さん」

 「え?! あ、ああ勿論! いやあ、それにしてもこんなに難しいなんて思ってなかったからさ。単位が取れる気がしないなあ、ハハ……」

 「頑張ってください。あと少しですから、ね?」

 ああ、何ということでしょう。天使の微笑みが、今、この俺に向けられていますよ。

 「紗英ちゃん。その笑顔だけで俺はあと百年は試験を受け続けられる気がする」

 「百年も受けるんですか?」

 「そうさ。君の笑顔さえあれば、俺は普段の何倍も何十倍も強くなれるんだ」

 たとえこの後に小一時間ぶっ通しで鉛筆を動かし続ける地獄の試験が待っていようとも、今の俺の敵じゃあない!

 「高弘さん……?」


 茶色の瞳に警戒の色が滲んでいた。何だろう、心なしか少し距離を開けられた気がするのは気のせいだろうか。

 加えて後ろからチサの溜息が聞こえてくる。ついでに心無い指摘の数々も。


 (何でだ!)


 おかしいぞ。神楽田に貸してもらった教本(少女漫画)によれば、ここで確実にトゥンクしてたはずなのに。

 つまりこの台詞は少女漫画のイケメンにしか許されないってことなのか。なあ、そうなのか?!



 じりじりと蝉の鳴き声が降り注ぐ。

 慌てて弁明の言葉を並べていたところで、ポケットに入れていた携帯電話から振動音が響いた。


 「ごめん、ちょっと待ってね」


 (誰だ、こんな大事なタイミングで)


 空気が読めないとしたらアイツしかいないだろう――端末を開くと着信画面には予想通りの人物の名前が表示されており、俺はげんなりと肩を落とした。


 「もしもし。あのね、倉元。お前さあ、いつもタイミング最悪なんですよ?」

 電話の向こう側にいる生意気な後輩は、こちらの都合などお構いなしにケラケラと笑っている。コイツは少し空気を読むことを学習して欲しい。

 「分かるかな。俺は今、紗英ちゃんと二人で……」

 「おま、絶対反省してないだろ!」


 電話越しに押し問答をすること数分間。

 押しに弱い俺は結局、後輩からの反省の台詞を聞くことも叶わないばかりか、放課後に神楽田も含めた二人の試験勉強に付き合わされる羽目となるのだった。


 「あの、誰ですか? 女性の声でしたけど……」


 陽光の下、透き通った茶色の瞳が真っ直ぐにこちらを向く。

 腐れ縁の後輩が、と説明すると、紗英ちゃんは何だかむつかしい顔をして黙っていた。


 「さ、紗英ちゃん?」

 「何でもないです。早く続きやりましょう」

 やばい。これは怒らせたかもしれない。

 「ごめん、俺の所為だよね。ごめ、ごめんね」


 俺の後ろではチサが呆れたように溜息をついていた。何だよ、お前なら紗英ちゃんの気持ちが分かるのかよ?


 「そうだ、今日のお昼俺、奢るから!!」


 しかし財布を開けると、石見高弘の財布は先日ゲームに負けて友人と後輩からむしり取られたばかりであった。畜生、俺の阿保め。


 「今度、絶対奢るから……」

 「優しいですね、高弘さんは」


 尻すぼみになっていく俺の台詞を補うように、彼女は「お金ないのに私なんかに奢っちゃダメですよ」と苦笑した。



 開いていたテキストのページが風で捲れていく。ウッドテーブルの上には木の葉の形をした影が落ちており、白い紙から照り返した光が両目に眩しくて、俺は思わず両目を細めた。

 再び瞼を開くと、変わらず、西田紗英の姿があった。

 彼女の指先が俺の綴った文章の上を撫でていく。ハーフアップでまとめられた髪が華奢な肩から流れ、さらさらと、白いルーズリーフの上に落ちていく。


 (やっぱり、君は……)


 まるで一枚の絵画を切り取った光景を眺めているようだった。


 図書館前のテラスには幾人もの学生達がいるのに、気がつけば周りの喧騒が聞こえなくなって、彼女と二人きりで此処にいるような心地がしてくる。

 誰も寄せ付けない高嶺の花。最初は冷たかった彼女がどうして俺に心を開いてくれたのかは分からないが、何処か掴みどころのない彼女が笑顔を向けてくれる度、俺の心は次第に囚われていくのだ。


――――――――――――――――――――――――――

第七十二話 私、ラーメンは塩味しか認めないので

――――――――――――――――――――――――――


 試験期間中の食堂には学生が溢れかえっていた。

 昼食時にも拘わらず座席を埋めつくしているのはレジュメ、レジュメ、レジュメ……。


 暫く歩き回ったところで偶然見つけた友人に頼み込み、俺はようやく近くの席を譲ってもらうことが出来た。


 流れるように、とはいかないものの、座席確保に成功した俺を紗英ちゃんが期待の眼差しで見ている気がする。いいぞ、この調子で夏休みには映画館でデートして、キスして、それからそれから……


 「紗英ちゃんは、お昼ご飯何にするの?」

 ちなみに俺的には今日は曜日替わりカレーがオススメなんだけど。

 「私、塩ラーメンにしますね」

 「うん、良いよね、塩ラーメン。最高だよね!」

 そう、今日は本当に塩ラーメンがオススメでね。


 発券機に硬貨を入れ、各々ボタンを押す。トレーを取り注文口へ向かう。道中、周りからの羨望の眼差しが刺さるようだった。

 フッ、羨ましかろう。不釣り合いじゃないかとか、姉と弟なんじゃないかとかいう言葉がすぐ後ろから聞こえてくる気がするが無視する。

 というか、姉と弟って何だよチサ。俺の方が先輩なんだから普通逆だろ。いいか、死神。この俺は御年二十一だz……


 「高弘さん、お待たせしました」


 ラーメンの注文口から帰ってきた彼女の嬉々とした表情を目にした瞬間、死神とのくだらないやり取りの全てが吹き飛んだ。

 彼女のトレーに視線を移すと、そこには何の変哲もない学食のラーメンが乗っていた。ここの学食はどちらかと言えば味噌とか豚骨とかが名物なのだが、何故敢えて塩を選択したのだろうか?


 「あ、それは勿論。私、ラーメンは塩味しか認めないので」

 「そっそうだよね! うん。ラーメンは塩味しかあり得ないよね、本当」

 よし、俺が味噌派だってことは永久に封印しておくぞ。



 席に着くなり、白い丸テーブルの上でラーメンがもうもうと湯気を立てていた。

 紗英ちゃんが割り端を割る。可愛い。学食クオリティの縮れた麺が小さな唇の中に吸い込まれていく。勿論可愛い。「高弘さん?」彼女が怪訝そうに眉を顰めてこちらを眺めているので俺は慌てて誤魔化した。


 「紗英ちゃんは凄いよね。あんなに的確に俺の文章添削してくれるなんて、本当に大学一年生?」

 「高弘さん。女性の年齢を疑うのは失礼なんですよ?」

 「あ、いや。そういう意味で言った訳じゃなくて! あの、その」

 「ふふ。冗談です」


 紗英ちゃんははい、と言って学生証を見せてきた。ここで律儀に学生証を見せてくるのがまた可愛くて、今まさに俺の中の小人が悶絶して尊い死を迎えたところである。因みに学生証に映った紗英ちゃんも可愛かった。

 それにしても、俺の学生証なんてひどい写真映りでアイツらにも散々馬鹿にされたくらいなのに、この差は何だろう。


 「それにしても、お昼が終わったら試験かあ。解答例みたいに長ったらしい文章、俺には書ける気がしないなあ……」

 「でも文章書くの、楽しいですよ?」

 流石です、西田紗英教授。

 「正直、俺は何度も思ったなあ。何であんなに面倒臭い論述しなきゃいけないんだろうってさ」

 「…………」

 「俺だったら、紗英ちゃんを苦しめる奴は即刻死刑にしてやるけどな! なんちゃって」


 死刑――口から弾みで出た冗談がふと、重たく圧し掛かる。

 注文した曜日替わりカレーライスの上で、トッピングの温玉が崩れていく。蕩けた液体がじわりじわりと広がっていく。


 「……高弘さん」

 「うん?」

 「もし。目の前に縄で縛られた罪人がいて、隣に(のこぎり)が置いてあったらどうしますか」


 え、と思わず声が漏れた。

 紗英ちゃんは俺の反応を気にすることなく、ラーメンを一口啜ってから言葉を続けた。


 「高弘さん。昔の人達は道に拘束した罪人と鋸を並べて、被害者遺族や通行人に鋸を引かせたそうですよ」

 食事中だけど、もしかして、否、もしかしなくても、紗英ちゃん実はそういうの気にしないタイプだったりします……?

 「悪いことをしたら罰する。たとえ証拠がなくても、疑わしければ同じ。本当は罪が無いかもしれない人も含めて、それはそれは残酷に見せしめをしたそうです。二度と犯罪が起きないことの方が大事だったから」

 「…………」

 「残酷だと、思いますか」


 数刻の沈黙。

 スープの表面から白い湯気が立ち上っていく。


 通行人が鋸で人の首を切り裂く姿を想像して、俺は思わず顔を引き攣らせた。

 紗英ちゃんは顔色一つ変えずにラーメンを一口啜ってから、俺に「冷めちゃいますよ?」と目線で台詞を投げ掛けてきた。俺はぎこちなく笑い返すことしか出来なかった。


 彼女はスープをれんげで掬い、俺の様子に意を解することなく言葉を続けていく。


 「証拠も、論理も、大事なことですよ。旧時代から脱した近代の人間は、犠牲を払った歴史から学び、理性的な判断が出来る人間像を作り上げた。『疑わしきは罰せよ』から、『疑わしきは罰せず』に――感情に任せた結論ではなく理性的に判決を下すのが、本当は正しいやり方なんです」


 滔々と言葉を紡いでいくその様は、まるで、自分に言い聞かせているようだった。


 「どんなに回りくどくても、冷静に、多角的な視点から議論を重ねなくちゃいけない。そうして理屈を捏ね回した上で、その人に責任があるか無いか結論を出す。人が人を裁くのはとても難しいことだから」


 《だから人が人を裁くってのは難しいんだよなぁ》


 ふと、土井教授の台詞が脳裏を過ぎる。


 「でも、理屈は完璧じゃない。人間はいつも理性的に判断出来る訳じゃないんです」

 「…………」

 「人間は神様じゃない。人間は、完璧じゃない」


 彼女は俯いたまま手を止めた。

 白湯スープは冷え、立ち上っていた湯気はいつの間にか消えていた。


 (人間は完璧じゃない、か)


 土井教授はあの時、何を思って俺を殺そうとしたんだろう。

 それを考え出すと胃の奥がざわついた。次に繋げるべき言葉が上手く見つからなくて、俺は手をつけていないカレーの温玉の中から黄味が溢れ出していくのをただ眺めていることしか出来なかった。



 「ねえ、高弘さん。どうしていつも私とお話してくれるんですか」


 重たい沈黙を破ったのは、紗英ちゃんの方だった。


 顔を持ち上げる。彼女は食べる手を止め、ラーメンの器には箸が揃えて置かれていた。

 紗英ちゃんは視線を下方に反らし、言葉を紡いでいく。


 「高弘さんは友達が沢山いて、誰にでも優しいですよね」

 「そ、そんな……俺は」

 「時々思うんです。こんな私と一緒にいて、高弘さん、本当に楽しいのかなって」


 俯いた表情は前髪に隠れて見えなかった。

 その声は震えていて、俺は思わず言葉を失ってしまった。


 「私、ずっと友達がいません。勉強しか出来ないし、面白い話も出来ないし……」

 「ち、違うよ。紗英ちゃんは」

 「高弘さん。本当は私、人間(ひと)が怖いんです。ふと、笑顔の裏で何を考えてるんだろうって考えて、怖くなるんです」


 (紗英ちゃん……)


 ああ、そうか。

 冷たくて誰も寄せ付けない高嶺の花は、きっと、本当は何よりも繊細なガラスで出来ているのだろう。

 真面目で、不器用で、人と話すのが不得手で、けれど何処までも真っ直ぐな、そんな女の子なのだ。


 (…………)


 俺はただ、目の前で小刻みに震える細い腕を守りたいと思った。

 初めて彼女と出会った頃のような熱い感情が込み上げてくる。気がつけば、俺の口からは想いが溢れていた。


 「紗英ちゃん。俺は初めて君に会った時、何ていうか、そう。君の父親になるしかないって思ったんだ!」

 「…………」

 「な、何でかは分からないんだけど……」


 照れ臭さに一瞬視線を泳がせてから、俺は言葉を続けた。


 「だから、俺の気持ちは理屈じゃない。一緒に居たいんだ」

 「…………」

 「好きだから。どうしても君を守りたいと思ったんだ」


 我ながら、勢いに任せた不格好な言葉だった。

 神楽田に貰った教本に出てくるイケメンはもっとロマンチックな場所で愛を囁いていたけれど、これだけは、今伝えなきゃいけない気がしたから。


 君が寂しい思いをするくらいなら、俺は何度だって同じ台詞を伝えよう。

 いつか、君に返事を貰えるその日まで。


 「優しいですね。高弘さんは」


 驚いていた彼女は、クス、と笑ってからそう付け加えた。

 心なしか彼女の頬が淡く色づいていた気がした。


 「父親って、ふふ。意味が分からなくてちょっと気持ち悪いですけど」


  ☆★☆


 昼食を終え、食堂を出て学部棟へと向かう。

 次の試験に出てくる論点を必死に反芻する男子大学生の隣で、彼女は試験とは全く別の事を考えていた。


 試験会場に到着した男子大学生は、座席表から真っ先に彼女の座席番号を探し出し、彼女を指定座席まで送り届ける。後になってから自分の座席を失念していたことに気がついた彼は、額から汗を流して苦笑を浮かべた。


 慌てて座席表に戻っていく男の背中を見つめながら、彼女はポツリと言葉を零した。


 「やっぱり優しいね。キミは」



 陽の光が教壇に降り注ぐ。窓から覗く緑が風に揺れ、大教室の通路に出来た影が形を変えていく。

 三限から始まる試験を前に、蝉の鳴き声は相変わらずじりじりと鳴り響いていた。

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