第七十一話 生きてくれ。お前に与えた、その力で――後半
「よう、チサ! 遅かったな」
心の靄を押し殺し、俺は白い歯を覗かせた。
腰まで伸びた長い髪がサラリと風に揺れる。鉄柵の上に立ったスタイル抜群の死神は、感情の籠らない冷たい瞳をこちらに向けていた。
「いや、あの。別にお前を待ってた訳じゃないんだからな? 何を隠そう、俺は死神のいない悠々自適な大学生活を」
「くだらん。所詮お前のことだ、私が帰るなり覚えたての一発芸でも披露しようという腹づもりだったのだろう」
それは違うぞ?
「いいか、チサ。今からお前に大事な発表があります。何とこの俺にも遂に――」
意気揚々と携帯端末の画面を見せると、死神は怪訝そうに眉を顰めた。
☆★☆
「決めたぞ。俺は今日から鍛えることにした」
「どうした、藪から棒に」季節にそぐわない革靴を脱いだ死神は、部屋に入るなり呆れたように肩を落とした。
「聞いてくれ、チサ。俺は紗英ちゃんに似合う男になるべく、肉体改造に取り組むことにしたんだ」
「…………」
脱ぎ散らかした服やら読みかけの雑誌やらが広がるベッドの上に仁王立ちし、俺は鼻高々と宣言した。一方、そんな俺の志を、窓の縁に腰かけた死神は開始二秒で打ち砕こうとしてくる。
「テレビっ子の引き籠もりが何を言うかと思えば」
「ははん。テレビを見て部屋に引き籠もりながらでも筋トレは出来るんだよ」
全てがこの部屋で完結する。ノー・プロブレムだ。
「いいか。まずお笑い番組で腹筋を割る!」
「……済まなかったな」
今突っ込むところなのに?!
足の指先で読みかけの週刊誌のページが風に捲れる。今流行りの漫画の連載は、ちょうど主人公が特殊能力で仲間を救い出すシーンだった。
「チサ……」
コイツが何を言わんとしているのか解らない訳ではない。
俺は咄嗟に笑顔を取り繕ってみせた。
「だってほら、落ち込むのは俺らしくないだろ? はは……」
「私はな、お前のような人間なんてどうでも良かったんだ」
「な?!」
ひっでぇ!
「でも今は、こうしてお前の傍にいてやりたいと思っている」
窓の縁に腰かけた死神チサは、神妙な面持ちで言葉を零した。
「お前……」
半分だけ開けた窓から夜風が入り込み、雑誌のページがパラパラと捲れていく。俺はベッドの上に座り込んだ。
彼女は外の景色を眺めていた。
「お前はあの日、殺した人間の走馬灯を見たことを後悔しているか」
「それは……」
「知りたくないか? お前に何故、走馬灯が見えたのか」
それから死神チサは「説明してやる」と言って半ば強引にテレビを消した。音源を失った部屋の中は先程までとは打って変わって静まり返った。
長々とした説明の間、壁時計の針が重苦しい音を刻んでいく。部屋の中には俺と死神、二人の声だけが響いていた。
彼女は言葉を続けた。
「要するに、精神エネルギーの源は人の思念であり、その源は幾つもの情報データが累積する形で形成されていく。すなわち、記憶に近い性質を持つ」
「は、はい」
「下界で死を迎え天界に渡る魂は精神エネルギーを消費するが、一度天界に渡った魂が再び下界に渡り来世を迎える際には、比較にならぬ程エネルギーを多く消費する。激しい消耗の後その源すら失った魂は、それまでの累積がリセットされる。生まれ変わった人間が前世の記憶を有していないのは恐らくそのせいだ。すなわち」
「あの、先生」
「精神エネルギーの源である人の思念こそ。経験の蓄積である記憶こそが、その魂を形作るのだ」
「あ、あの、先生。わかりません」
「………」
窓の縁に腰かけ足を組んだ美人は俺を冷たい瞳で見下ろした。
「まあお前はその、アレだしな。仕方ない。少し嚙み砕いて説明してやるからよく聞け」
(アレって何だよ。アレってお前)
その意味するものは不愉快極まりないところではあったものの、死神が珍しく饒舌だったので俺は黙って項垂れることにした。
「いいか。強い精神エネルギーを保有する魂は蓄積を完全にリセットされないから、前世の思念が能力として具現化する場合があるんだ。下界の人間には見える筈のないものが見えたり、とかな。お前の走馬灯を見る能力もそうだ。天界の力を得たことで具現化したのだろう」
「…………」
「そういう特殊な能力のことを『固有能力』と呼ぶ。経験の蓄積である情報データが残留するということは、理論的には記憶そのものを留めている場合だって考えられる。だがな、私は思うんだ。前世の自分は、本当に自分なのか、と。仮に前世の記憶を留めていたとしても、それは現世の自分の人格と両立し得るものなのか、とな。まあ私はそのような者に会ったことがないから分からないが……まあそれはさておき。どうだ、分かったか高弘」
「えっと、はは。説明は終わったってことで良いのか? とりあえず俺は今からお笑い番組の続きを見ようと思うんだが」
正直、俺は走馬灯のことなんて忘れたいし、早くテレビが見たいんだよ。
「…………」
テレビのリモコンを取り上げられた俺は床の上に正座を余儀なくされた。
「ずっと考えていたんだ。私は何故、お前に力を与えたのか」
見上げると、死神チサは変わらず夜空を眺めていた。
溜め息を一つ零し、すらりと伸びた足の左右を組み替える。窓ガラスに映った奴の瞳は小刻みに揺らいでいた。
「もともと下界には、牢獄から抜け出した大罪人を捕らえるために来た。お前のような人間を助けるなど、正直、時間の無駄に他ならない」
助けてもらったのはありがたいが、随分な言い方だな!
「人間に興味なんてなかった。でも、お前が殺されそうになる『映像』が頭の中を過ぎったとき、私は何故かお前の事を守らなければならないと思った」
「な……」
「お前の事など、知らない筈なのに」
死神は俺の方を一瞥してから、やがてきまりが悪そうに下方へと目を逸らした。
「もしかしたら私達は、天界に由来する何らかの能力を有する人間に呼び寄せられているのかもしれない」
「…………」
「高弘。恨んでいるか? お前にこの力を――wink killerという呪われた力を与えた私を」
俺から目を逸らした大罪人チサは、苦悶の表情を浮かべていた。
奴は肩を上下させ、その声は僅かに震えていた。
「ハハ、何度も言わせんなよ? お前があの時助けてくれなかったら、俺は……」
――死んでいたのは教授ではなく、俺の方だった。
正座した膝の上で拳を握り締め、俺は奥歯を噛み締めた。
震える声を押し殺した後は、再び顔を上げて笑ってみせるのだ。「そしたら俺は、今頃天国で美人な天使に囲まれてハーレムを満喫してたかもな!」気丈なコイツが苦しむ姿を見ていられなくて、俺はいつも苦し紛れにふざけることしかできない。
再び視線を下ろす。ベッドの上に広げられた雑誌には、見開きのページいっぱいに主人公の勇姿が描かれていた。
真っ直ぐで純粋な主人公の姿と、人を手にかけた悪人の自分の姿とが対照的に思えてならなかった。
俺は到底、物語の主人公にはなれそうにない。
「高弘。たとえお前に恨まれたとしても私は、お前に生きていて欲しいと願うよ」
予想しなかった死神の台詞に驚いて、俺は咄嗟に顔を上げた。
「…………!」
思わず見上げた窓の外。
それは、よく晴れた満月の夜だった。
「だからどうか生きてくれ。お前に与えた、その力で」
刹那――夜空を閉じ込めた深い紫の瞳が潤み、宝石に似た涙が一粒零れ落ちる。
冷徹で非情な死神は、確かにこの瞬間、涙を流していた。
「お前、どうして……」
思わず綺麗だ、と思ってしまったのは何故だろう。
目を合わせているだけで、彼女の瞳に吸い込まれそうな感覚がした。
勢いよく頭を左右に振る。両手の拳を強く握りしめてから、俺はおどけたように「お前って案外、優しい奴なんだな」と笑ってみせた。俺の言葉に死神は頬を緩め、いつものように鼻で笑った後に言葉を返す。
「何を戯けたことを。私はいつも優しいだろう?」
「なあ。お前の辞書だけ『優しい』の意味間違ってるんじゃないか……?」
晴れ渡っていた満月の空に灰色の雲がかかっていく。
どうして泣いているんだ――この時喉の奥まで出かかった言葉を、俺は結局口にすることが出来なかった。




