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第七十話 最早この俺が父親になるしかないと思った

 そう、それはうららかな春の昼下がりのこと。

 天使は突然、俺の前に現れた。


 ハーフアップでまとめられた茶色の髪。柔らかく流れ落ちる曲線は陽の光を浴びて金色に輝いていた。

 守ってあげたくなるような細い腕。思わず指先で触れてしまいたくなる薄桃色の頬。垂れ下がった焦げ色の眉。


 長く伸びた睫毛から、一粒の雫が零れ落ちた。

 天使の流した涙は頬を伝い、腕枕にした袖に透明な染みを描いていく。


 (俺は君を、どこかで……)



 それが彼女との最初の出会いだった。


 授業中、初めて目にした君の寝顔がとても愛しくて、

 その時俺は、何故かこう思ったんだ。


―――――――――――――――――――――――――――

第七十話 最早この俺が父親になるしかないと思った

―――――――――――――――――――――――――――


 「いや、何で父親なんだよ」

 「本当に気色が悪いですね、先輩。生まれ変わって人生やり直してみたら如何です?」

 「何だよお前ら!」


 大学食堂にて。

 俺は付き合いの長い友人と腐れ縁の後輩に恋愛相談をしていた。


 件の天使の名前は西田(にしだ)紗英(さえ)。彼女との出会いは今から三ヶ月ほど前の春のことだった。

 法学の授業でたまたま席が隣になって、俺が一目惚れしたのがきっかけで話すようになった。奇跡的に彼氏はまだいないらしいので、只今絶賛アプローチ中なのである。


 しかし容姿端麗と噂高い彼女は、サークルの勧誘に混じって幾度となく交際の申込みを受けるもそれら全てをことごとく断ってきたらしい。ちなみに情報のソースは目の前にいる友人である。

 「誰も寄せつけない高嶺の花」――彼女を表すならその言葉が適切なのだ。今年入ったばかりの新入生とは思えない程に知識が深く、聡明で大人びた雰囲気を持つ彼女は、確かに近寄り難い雰囲気を持っているかもしれない。現に一緒になった授業は三年次向けの内容なのだが、彼女曰く「一年次の内容が簡単過ぎるので受けてみた」だそうだ。その他にも何か言っていたような気がしたけれど、顔色一つ変えずに淡々と呟く彼女の一挙手一投足が愛らしくて、あまり話を聞いていなかった気がする。俺の馬鹿め。


 「だが本日、俺は彼女のメールアドレスを入手することに成功したぞ!」


 授業前後に二言三言、言葉を交わす関係になったのが二か月前。アルバイトが忙しいらしく、欠席した授業分のレジュメを見せてあげるようになったのが一か月前。そして、彼女のメールアドレスを入手したのが今日というわけである。

 誰も手出し出来ない彼女(高嶺の花)に信用してもらえるなんて、運命が俺に味方をしているのかもしれない。そうに違いない。


 「……たまたまですね、先輩」

 「……ああ。たまたまだな」

 「うるさいぞ、二人とも!」


 勿論、冷たくあしらわれた日々もあったが、それもきっと彼女なりの――そう、照れ隠しに違いないのだ。


 「え。そうなんですか」

 「察してやれ、後輩ちゃん」


 メールアドレスを入手した俺は早速、次のステップへと移行するぞ。見ていろ、二人とも。遂にこの俺にも彼女が――


 「あーあ。石見(いわみ)先輩って何だか前向きでいいですよね~。あたし、馬鹿って幸せでいいと思うんです。ね、神楽田(かぐらだ)先輩?」

 「ああ。後輩ちゃんの言う通りだな」

 「お前らにだけは言われたくない台詞だよ!」


 話に夢中になっていてすっかり伸びてしまったうどんを一口啜る。勢いに任せたあまり丸テーブルには麵つゆ色の飛沫模様ができあがった。


 年次が一つ上である俺を堂々と馬鹿呼ばわりした後輩の名は、倉元(くらもと)ひかる。

 丸テーブルを挟んで右前に座る彼女は、カレーを掬う右手を止め「ふふふ」と不敵に笑うのだ。


 「先輩。あたしのこと、いつまでも馬鹿だと思って舐めてもらったら困りますよ?」


 腰まで伸びた黒髪に赤縁の細いフレーム眼鏡。キリリと吊り上がった眉。この女、見た目だけは真面目な優等生なのだが、残念なことにその見た目に中身が追いつくことはなかったらしい。

 右手に銀の匙を持った彼女は立ち上がり、ふんす、と胸を張って俺を見下ろした。

 彼女自慢の膝丈ワンピースが揺れる。


 「なんたってあたし、()()()の点より二つ下まで言えるようになったんですから!」


 何だか聞き覚えのない比率が出てきたぞ。


 「なあ、倉元。お前がもし()()()のことを言っているなら、この国じゃ当たり前のことなんだよ」

 「おぅふ?!」


 自分を見下ろしていた赤縁眼鏡の偽優等生は、上げていた右眉を引き攣らせてからへなへなと椅子に座り込んだ。


 「まあまあ高弘(たかひろ)。何も勉強だけが全てじゃないだろ? テストの点数が悪くたって、俺みたいに賢く生きてりゃ()()()()()()んだよ」

 「流石、神楽田先輩。先輩と違ってカッコイイこと言いますね!」

 「だろ? 俺はコイツと違ってデキる男だからな」


 ハンバーグ定食を完食した友人は鼻を鳴らしてから、携帯端末を開き画像を見せてきた。「この前付き合い始めたカノジョ。超可愛いっしょ」大学に入ってから何人目か分からないが、長方形の液晶画面にはコイツと同じように軽そうな女子が映っていた。


 神楽田(かぐらだ)凌介(りょうすけ)。俺と同じ大学三年生。ナルシズムという言葉を具現化したらきっとこの男が出来上がるに違いない。

 涼しげで切れ長な目尻も、自己陶酔症の性格も、俺とは全てがちぐはぐなコイツと高校時代から付き合いが途切れていないのは何故だろう。

 疑問なのは、何故この男がモテるのかということだ。この手のキャラは「残念なイケメン」枠に留まるのが定石じゃないのだろうか。何だよ、顔が良ければいいのか。なあ、そうなのか?!


 「まあそんな辛気臭い顔すんなって、お前らしくない」

 「お前はいいよな。俺はようやくメールアドレスを手に入れたってのに」

 とりあえず、そのリア充写真をしまってくれないか。

 「ハァ。いいか高弘。黙って俺の言う通りにしてればいいんだよ。俺に任せとけって。だから、えっと……()()に乗った気持ちで構えとけ、な?」

 「あ、神楽田先輩それ違います。()()に乗った気持ちで、ですよ?」

 「あ、そっか」

 「大船だろ……?」

 泥船に乗った気持ちだよ。



 昼休みが終わりに近づく頃、俺達は食堂を後にした。

 神楽田はサークル活動へ、俺と倉元は語学の授業へと向かう。途中まで方向が同じ俺達は道中を共にしていた。


 アスファルトの道路沿いに青々とした木々が立ち並ぶ。梅雨が明けたキャンパスのあちらこちらで蝉が鳴いていた。

 期末試験が近いこともあり、食堂を含め大学内はいつもより混雑していた。すれ違う学生達の会話から「単位」やら「過去問」やら、何とも不穏な単語が聞こえてくる。


 「高弘お前さあ」携帯端末でメールを打ち込みながら、左端を歩く友人は言葉を続けた。「その()()()()()をどうにかすればもうちっとモテたんじゃないかと、俺は思うわけだ」


 そして、唐突な侮蔑と曖昧過ぎるアドバイスには流石に俺も抗議せざるを得なかった。


 「ざ、残念な感じってなんだよ!」

 「何だろうなあ。メアド一つではしゃぎ過ぎっていうか」

 「うっ」

 「お前さ、見た目はそこそこ良いんだからもっと頑張れよ。人間、中身が大事なのよ?」

 お前にだけは一番言われたくない台詞だよ!


 神楽田は「よし、送信」と呟いてからボタンを押した。恐らくこれからサークル室で先程の彼女と待ち合わせでもするのだろう。全く羨ましい限りである。


 「確かに先輩って、愛くるしい顔立ちですよね。正直高校生か中学生くらいにだって見えますし。あたしが浪人してるとはいえ、ぷぷ、同じ年齢とは思えないですからね」

 「フッ。残念だったな倉元。おととい誕生日を迎えた俺は既にお前より年上なんだよ。分かるか? ()()()()()なんだよ」


 エセ優等生は顎に手を当て、ふむふむ、と頷く。


 「そうですか。二十一歳、女性と」

 「男だ!」

 倉元ひかるは目を見開き不思議そうにこちらを見ていた。その顔だよお前。



 それから、途中で神楽田と別れた俺達は、広い構内の端にある目的地へと向かった。


 キャンパス中央にある時計台の針が一時半を示し、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。

 生い茂る緑の中にひっそりと佇む学部棟は所々にツタが這っていて、何というか、相変わらず長年の趣が感じられた。すぐ横に大きな樹が立つ入口は木の葉の下で日陰となり、湿り気を帯びた苔と土の香りが学部生を出迎える。


 「先輩。先輩がもしフラれて落ち込んだりしたら、話くらい聞いてあげますからね」


 フラれる前提かよ――思わず突っ込もうとして振り向くと、倉元は黙って俯いていた。


 視線の先で黒髪がなびき、花柄のワンピースが風に揺れる。

 すれ違う学生達が次々と俺達の横を通り過ぎていく。


 「な。どうしたんだよ、急に」

 「あの日、あたしは先輩に()()()()()()()()


 刻々と、三限目が近づいてくる。

 蝉がやけに煩く鳴いていた。


 「誰が何と言おうと、先輩はあたしの命の恩人です」

 「…………」

 「だから、先輩」


 その瞬間――やけに煩く鳴いていた蝉の合唱が、ピタリと止んだ気がした。



 「あれは多分、何かの()()だったんです」



 ふと足元を見下ろすと、短命な蝉の死骸が転がっていた。

 


 石見高弘、二十一歳。何の変哲もなかったはずの俺の日常は、あの日から狂い始めた。

 死神が俺の前に現れた、あの日から。

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