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第六十五話 逃避、救済。

 目を覚ました私は、廊下に佇んでいた。


 「ここは……」


 手前の蝋燭にボゥ、と灯りがともる。人が一人通れるくらいの狭い廊下に、真っ赤な絨毯が伸びていた。先は暗闇でよく見えないが、黒い壁が延々と続いているようだった。


 夢に出てくるいつもの景色。


 燭台に一つだけ灯った炎が、風もないのに妖しく揺らめく。生命の気配が感じられない廊下に音はなく、自分の呼吸する音だけが耳元で繰り返している。吐く息は白く、今にも指先が凍りついてしまいそうだった。


 左手を壁につくと、ざらついた感触がした。驚いた私は手指の腹を眺めた。

 指先に残った感覚は、いつもの夢よりもずっとリアルだった。


 「私、死んじゃったのかな」


 ボゥ、と蝋燭の炎が一際大きく揺れる。

 包丁のようなもので胸部を一突きされたのだから、きっとそうなのだろう――無意識のうちに口から零れ出た「死」という言葉が、自分でも予想外に淡白に感じられた。


 でもきっと、これでもう誰も傷つけずに済むのではないだろうか。

 死後に思い浮かんだ最初の感情が、自分自身ですら情けなく感じられた。


 ――私が死なせてしまった人達は、死んだ後に何を思ったのだろう。


 「ごめんなさい……」


 私は黒い壁に両手をつき、その場で崩れ落ちた。


 自分がこれまで命を奪ってきた人々の顔が浮かんでは消えていく。

 自分が救えなかった人々の顔が浮かんでは消えていく。


 彼らにも同じように、必死に藻掻いて生きてきた過去があったのかもしれない。

 彼らにも同じように、この先を笑って過ごせる未来があったのかもしれない。


 生命の気配が感じられない廊下に、自分の呼吸する音だけが耳元で繰り返していた。

 「死」とはきっと、「孤独」なのだろうと思った。


 「ごめんなさい……」


 完全にしゃがみ込んだところで、今頃になって全身に言葉の重みが圧し掛かってきた。

 視界が滲む。目元から熱を帯びた粒が溢れ出す。雫が一粒、また一粒と、重力に従って柔らかい絨毯に吸い込まれていく。


 「どうか、ゆるして……」


 きっと、私が赦されることはないのだろう。

 私は、ただ謝罪を繰り返すことしか出来なかった。


 「もう一度会いたいよ……拓也、永美」


 きっと、許されないと解っているのに。

 私は、幼い子供のように繰り返すことしか出来なかった。


 死に際の二人の表情が脳裏に焼き付いて離れない。

 困ったように笑った優しい顔が、心の奥を締めつけていく。


 (全部、私の所為だ)


 赤い絨毯の上で透明な染みが濃淡様々の斑模様を描いていく。蝋燭の炎が揺れる度、地面に映る私の影も不安定に揺らめいた。



 ――何も無い。

 私が存在する意義は、もう、何も無いのだ。


―――――――――――――――

第六十五話 逃避、救済。

―――――――――――――――


 私は、あてもなく廊下を歩いていた。

 閉塞した空間を進む。一歩一歩進む度に蠟燭の炎が灯り、地面に伸びる赤い絨毯を幽かに照らす。


 ふと、誰もいない筈の廊下の向こうから、誰かの啜り泣く声が聞こえた。


 一本道の廊下を真っ直ぐ歩くと、扉が一つあった。古く濁った白木の扉から、聞き覚えのある声が漏れ出していた。

 風もないのに蝋燭の炎が大きく揺らめいた。


 (あなたは、どうして泣いているの……?)


 緑青(ろくしょう)色の錆びついたドアノブを握る。金属に熱を奪われ背筋を寒気が走った。

 古びた取っ手をひねり、ゆっくりと体重を乗せる。扉はキィ、と軋んだ音を立て私を中へ吸い込んでいく。


 見覚えのある部屋だった。


 四畳程度の小さな空間の中央に、涙声を震わせる死神の姿があった。

 四方は黒い壁で囲われ、左方に一つだけ灯った蝋燭が狭い部屋に明かりを灯している。壁に視線をやると、引き摺った手形のようなものが無数にこびりついていた。思わずヒッと息を呑んだ。


 「た、すけて」

 「たすけて……総督様」


 きっと、彼女も何度も助けを求めたのだろう。

 けれど、助けが来ることはなかったのだろう。


 燭台に灯った炎が一際大きく揺れる。

 黒い壁にこびりついた幾つもの手形。苦しそうに藻掻いた跡。歪なアーチを描く無数の飛沫。

 

 彼女は一体どれ程の時間をここで過ごしていたのだろう。


 あとどれ程の時間が経てば、私も――


 《私はあなただもの。ずっとあなたの傍にいるわ》

 《だからいつか、私のことも》


 ――タスケテ。


 孤独な死神はひとりきり細い肩を震わせていた。

 彼女は悉く私を苦しめてきたはずなのに、私は目の前の彼女を見捨てることが出来なかった。


 華奢な肩に手を伸ばす。

 しかし、伸ばした手はすり抜けて虚しく宙を舞うのみだった。



 彼女は泣き続けていた。

 それから何度か声を掛けたけれど、彼女に私の声が届くことはなかった。


 部屋を見渡す。黒い壁には左方と前方の壁にそれぞれ一つずつ絵画のようなものが飾られていた。

 左方の絵画は茶褐色で汚れており、額縁もところどころ金メッキが剝がれていた。もう片方は比較的新しそうに見えたが、肝心の作品は黒く塗りつぶされていて描かれているものは分からない。

 再び左方に視線を移す。古い絵画の中には黒いマントを羽織った死神の姿があった。


 「これって……」


 気がつけば、私は吸い寄せられるように絵画の方へ歩み寄っていた。

 キィ、とドアの軋む音。ひとりでに扉が閉まっていることにも気がつかず、私は黒い壁に掛けられた作品を覗き込んだ。


 絵画の中では、異国の宮殿を思わせる広い空間に一人の死神が佇んでいた。

 やがてその景色が()()()()のにも構わず、私は無心で、作品の中で描かれる光景を眺めていた。



 窓の外から幾つもの光の柱が差し込んでいた。

 白いローブを羽織った金髪の人物が一人の少女に近づく。聞こえないはずの足音がコツ、コツ、と耳元に響く。絹糸で編まれたレースのカーテンがふわりと舞い、全身黒一色の少女の装束が風に揺れる。

 金髪の人物が少女の頭に触れ、柔らかい手つきでフードを外した。フードの下から覗いた少女の頬は淡く色づいていた。


 ――少女は微笑んでいた。


 白いローブを纏った金髪の人物が少女の髪を撫でる。長い栗色の髪が風になびく。


 ――少女は微笑んでいた。


 次の瞬間、金髪の人物の右手が、その手に持った白銀の剣が、少女の黒装束を貫いた。

 ”処刑”の二文字が脳裏に浮かんだ。


 ――それでも、少女は微笑んでいた。

 血の涙を流しながら。


 《彼女は契約に反して『あの方』を裏切り、処刑された》


 絵画から赤い絵の具が溢れ出していく。


 《私は決して忘れたりしないわ。あの日、剣で貫かれて殺された時のこと》


 絵画の中の少女は微笑んでいた。

 やがて動かなくなる、最期の瞬間まで。


 『モウ キミニ ヨウハ ナイ』


 その瞬間、聞こえない筈の誰かの声が聞こえた気がした。

 この言葉をずっと昔に、何処かで聞いた事があるような気がした。



 絵画から溢れ出す絵の具がじわりじわりと深紅の絨毯に染み込んでいく。それはやがて床を覆い尽くし、踝を飲み込み、狭い部屋に満ちていく。

 壁に掛けられた蝋燭が大きく揺らいだ。炎は消え、暗がりが部屋の中を覆う。


 ――たすけて。


 きっと、彼女も何度も助けを求めたのだろう。

 けれど、助けが来ることはなかった。


 膝を飲み込み、腰の辺りまで埋め尽くした絵の具は鉄錆の臭いがした。

 この場から逃げ出そうと何度もドアノブを回したけれど、閉じられた扉はびくともしなかった。


 やがて絵の具が胸を覆い、口元を覆い尽くしていく。

 呼吸がままならなくなった私は必死で藻掻いた。しかし、抵抗も空しく、泡を吐いた後は少しずつ意識が薄らいでいった。


 ――たすけて。


 生命の気配が感じられない部屋で、私達の声を聞く者は私達の他にいなかった。

 「死」とはきっと、「孤独」なのだろうと思った。




 再び目を覚ました私は、浅い池の上で仰向けになっていた。

 黒々とした夜空から、真っ白な月が静かに地上を照らしていた。


 ――ピチャン、ピチャン。


 私はあてもなく彷徨い歩いた。

 地上は足首程度の黒い水に覆われていて、周囲を見渡すと不揃いな十字架が立ち並んでいた。


 天上から降り注ぐ白い光。ところどころで描かれる波紋が月に映えていた。


 「可哀想に」


 ふと、聞き覚えのある声がした。

 冷たい声。顔を持ち上げると、血に塗れた鎌を掲げた死神が一人、私を見下ろしていた。


 目の前に立ち塞がる黒い山。よく見ると、首の無い人形が幾重にも折り重なっていた。驚いた私は咄嗟に後退り、水の中で足を縺らせて転倒した。尻餅をついた私を見て、死神は山の天辺で可笑しそうに笑っていた。

 等身大の人形の腕がだらりと垂れる。重なり合う人形の一つ一つが本物の人間のように思えてならなかった。

 暫くの間クスクスと笑っていた彼女だったが、一瞬、青い光に包まれたかと思えば、目の前から彼女の姿が消えていた。一体どこへ――辺りを見渡していたところで、すぐ右隣から彼女の声がした。


 「可哀想に。身も心も、こんなにボロボロになってしまって」

 「…………」

 「友達も、家族も失った。ずっと傍にいてくれた死神にも見捨てられた」


 ――クス。クスクス。

 生者のいない広場に、死神の笑い声が響く。


 「『愛』に飢えたあなたの弱みに付け込んで、あなたを人形にしようとしたあの女」


 人形、という言葉を耳にした瞬間、両腕にゾワリと鳥肌が立った。


 「最低よね」


 左腕に視線を移す。白い包帯がするすると解けていき、刺繍を施された左掌が露わになる。

 初めて目にした痛々しい縫い跡。「あ、あ……」心臓の鼓動が加速する。無意識下に封じ込めていた痛みを思い出す。ハート柄のアップリケが赤く滲んでいく。「あ、あああ……」縫い際がミシリと音を立てて軋む錯覚に陥る度、否応なしに激痛が蘇る。


 身体の奥深くから黒い靄のようなものが溢れ出していく。ガラス瓶に亀裂が入っていく。どす黒い感情が瓶からこぼれそうになる度に、奥歯を噛み締めて必死で堪えた。負の感情を飲み込む度に、酸に喉の奥が焼かれていくような心地がした。


 (どうして、こんなことに)


 視界が朦朧とする。呼吸がままならなくなる。痛みに胸を押さえれば、掌にぬるりとした温かい感触があった。

 鮮血に染まった右掌を眺め、私は思い出した。


 私は人を殺し、そして人に殺された。

 私も、いつかの私も、同じようにして胸部を貫かれ殺された。


 助けを求めたところで、罪深い私達を救ってくれる存在などある筈がなかったのだ。

 綺麗事を並べたところで、所詮私は初めから――


 「ようやく気がついたようね」


 ふわり、と亜麻色の髪が舞う。

 白い月の下、目前に佇んだ死神は淡々と事実を告げていく。


 「あなたも所詮は人殺し。何をしたって罪は消えないし、罪人に救いがある筈もない」


 死神は青白い手を伸ばし、私の耳元で「可哀想に」と吐息を零した。

 細い指先が頬を撫でる。冷たい手指が私の熱を奪っていく。私は浅い呼吸を重ねることしか出来なかった。


 「友達にも、家族にも。『正義』、『友情』、『愛』――ある筈のない幻を見せられて」


 彼女の指先が首筋へと延びる。

 私の姿をした死神は、低い声で囁いた。


 「幻の裏にある『悪意』を見抜けていたら、あなたがこんなに苦しむことはなかった」

 「あ……くい……?」

 「そう。それこそが、幻の本当の姿」


 彼女はスゥ、と息を吸ってから私に向き直った。

 虚ろな目。絵画の中にいた頃の澄んでいた瞳は黒く濁り、栗色の虹彩に縁どられた瞳孔は深い、深い闇を映していた。


 「あなたも私と同じ。ある筈のない幻に縋って、同じように騙されて、挙句棄てられたのだから」


 星空の見える崖の上で、彼女の傷口に触れた記憶が蘇る。


 《モウ キミニ ヨウハ ナイ》


 あれが、彼女に向けられた最期の言葉だったのだろうか。


 「あなたと私は同じ魂。同じような運命を辿るのもまた、必然よね」


 死に際まで微笑みを絶やさなかった彼女の瞳が、柔らかな彼女の髪が、次第に血の色に染まっていく。


 「苦しいのね」私は、沢山の人を傷つけてきた。「逃げてしまいたいと、思っているのでしょう?」もう、誰も傷つけずに済むのなら。「あなたが苦しんでいること、私は理解してあげられるわ」


 もう、消えてしまいたい。



 「大丈夫。大丈夫よ」


 慈愛に満ちた声。私と鏡写しの彼女が、こちらを見つめていた。

 

 「心配しないで。私が、あなたの代わりに生きてあげる」


 彼女が私に手を差し伸べる。

 私はその手を躊躇うことなく取った。


 そうすれば、このまま消えてしまえるような気がしたから。


 この暗闇からも。この世界からも。



 彼女の腕が私を引き寄せた。

 私の意識は次第に闇の中に溶けていき――。


 「おやすみなさい。いつか(来世)の私」



――――――


That day, she killed someone who loved her.

That day, she was killed by her loved one.


あの日、彼女は自分を愛する人を殺しました。

あの日、彼女は自分が愛する人に殺されました。


――――――



 薄暗い地下空間の一点が緑色の光に包まれる。目隠しの布が崩れ落ちていく。

 少女の瞳はようやく現実世界を映した。その身体は未だに痛みを訴え掛けていた。


 「嗚呼。長い、長過ぎる時間だったわ」


 彼女を縛っていた縄は崩れ落ち、左掌に巻きつけられた包帯がボロボロと劣化していく。

 血液が、細胞が、組織が修復していく。地面に零れ落ちていた赤い斑点が()()()()()()()()()()()()消えていく。


 「永遠を願った者は消滅し、消滅を願った者は永遠から逃れられない」


 「皮肉なものね」と少女は呟いた。

 死臭の漂う地下で一人。少女の独り言を聞く生者は他に誰もいなかった。


 ――コツン、コツン。


 乾いたコンクリートの上に革靴の音が響く。

 薄暗い天井を見上げ、少女は怨嗟の籠った低い声で唸った。


 「そう思うでしょう? ……総督様」

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