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第六十一話 慈悲、救済。

 ――何も無い。


 最寄り駅の近くにある森の奥に、街の景色を一望できる公園がある。

 観光スポットでも何でもない、手入れの行き届いていない公園には人影一つ見当たらなかった。生き物の寝静まった夜の森は冷え込んでいた。吐く息は白く、やがて冬の空気に混じり合って消えていく。


 遠くの方で風が音を奏でる。深夜の街にぽつりぽつりと明かりが灯っていた。

 都会の喧騒から離れた静かな森の奥に、自分以外の気配は感じられない。


 ベンチに座りながら、私は夜空を見上げた。

 黒い天蓋の下、無数の星が瞬きを繰り返すのを無心で眺めていた。ちっぽけな自分など広い宇宙(そら)の中に吸い込まれてしまいそうな心地がした。このまま吸い込まれてしまったらいいのに、と思った。


 ――何も無い。


 手元に目線を下ろし、深い溜息を一つ零す。電灯が手元を照らし、地面に濃い影を作っている。自動販売機で購入した二人分の紅茶飲料を握り締め、白い息を漏らした。一つを隣のスペースに置き、私は飲料を差し出した相手に言葉を掛けた。


 「こうして、ここで永美と話したことがあったよね」


 左横に視線を移す。ベンチの上には紅茶のペットボトルだけがあった。電灯の明かりに照らされた125mlの小さな器には影が落ちていた。

 物言わぬペットボトルを眺めながら、私は震える声で笑って言葉を続けた。


 「どうしてこうなっちゃったのかな」


 手袋の中で冷えた指先を丸め僅かな熱を共有する。再び夜空を見上げると、小さな星々は相変わらず微細な瞬きを繰り返していた。今にも消えそうな光が懸命に命の灯を放っていた。


 《ずっと、こうしていられたらいいのにね》

 《あなたのこと、ずっと大好きだから》


 ふと、あの日と同じように隣で永美が微笑んでくれた気がしたから。

 驚いて振り向いたけれど、そこには依然として虚空が広がっているだけだった。


 カタンと音を立て、ベンチの上に立っていたペットボトルが倒れる。


 ――何も無い。


 「私も永美のこと、大好きだったのになあ」


 寒さに震えながら私は情けなく笑った。視界が滲んでいく。涙を拭おうと手を伸ばすと、散々泣き腫らした瞼は相変わらず左瞼だけが無様に膨れ上がっていた。

 立ち上がり夜空に右手を伸ばす。空には変わらずあの日と同じように満天の星が広がっていた。

 今は、あの星のどこかに彼女もいるのだろうか。


 「私も、今そっちに……」


 倒れたペットボトルがベンチの上を転がり、地面に落ちる。

 私は崖の縁に歩み寄り、木製の柵に手を掛けた。古びた柵は湿り気を帯びていて柔らかかった。


 そのまま体重を乗せようとしたところで、ふと、脳裏を当たり前の事実が過ぎる。


 「駄目だよね、こんな私じゃ。ゆるしてくれる訳ない」


 ――何も無い。

 もう、生きる意味なんて何も無いのだ。


 「もう、消えたいなあ……」


 このまま何もかもから逃げることが出来たなら、一体どれだけ楽だろうか。

 弟を救えなかった自分からも、友を殺してしまった自分からも。何もかもから抜け出して、自由になることが出来たなら。


 《あなたは死なせない。あなたは私から逃れられない》


 そして、その度に私は思い知るのだ。

 犯した罪からは決して逃れられないのだ、と。


―――――――――――――――

第六十一話 慈悲、救済。

―――――――――――――――


 深夜を迎えた住宅街を見下ろし、私は崖の縁で浅い呼吸を繰り返した。老朽化した柵から手袋越しに水気が伝う。首に巻いたマフラーが解けていく。


 私は目下に続く公園に視線を移した。

 錆び付いた階段の手すり。消えかけた道案内の看板。真ん中にある水の止まった噴水が、余計に寂寥感を煽っていた。


 修理すれば良いのに。

 物悲しさしか感じられないその噴水を眺め、私は心の中で言葉を吐いた。



 「大丈夫。大丈夫よ」


 誰もいないはずの左隣から、聞き馴染みのある声が聞こえた。


 あの日から、幻と現実の境界が曖昧になっている。もう何が真実で、何が虚構なのかすら分からない。

 隣の死神は言葉を続けた。


 「いつか必ず、あなたを救ってくれる人が現れるはずだわ」

 「……私にそんな価値なんて」

 「そんなこと言わないで」


 「あの方」はとても慈悲深いお方だもの――隣の彼女はそう言って、穏やかに微笑んだ。


 星灯りが地上に降り注ぐ。澄みきった空気が頬を撫でる。

 隣の死神は慈愛に満ちた微笑みを私に向けていた。


 どうして()()がそんな事を言っているのか、理解出来なかった。


 自分によく似た死神は私の左腕を掴んだ。「大丈夫」彼女は同じ言葉を繰り返しながら、「私はここにいるわ」私の手袋を外し、自分の胸に私の掌を押し当てた。

 黒いコートの内側に指先が触れる。死人(しびと)を想わせる冷たい温度だった。けれど、確かに心臓の鼓動が感じられた。


 自分と同じ。まるで、そこに一人の生きた人間がいるかのようだった。


 「私はあなただもの。ずっとあなたの傍にいるわ」

 「ど、うして」

 「だからいつか、私のことも」


 ――スクッテホシイ。


 耳元で囁く声。同時に、ザア、と強く風が吹いた。

 分厚い雲が星々を飲み込んでいき、寂れた公園を照らすのはたった一つの電灯だけ。


 乾燥した唇が小刻みに震え出す。

 細切れに浅い呼吸を刻む。

 掌に冷たい汗が滲み手袋にしみていく。


 指先をぬめりとした感触が伝った。隣に視線を移すと、


 「……っ!」


 ――クスクス。クスクス。


 電灯に照らされた彼女は、口から赤を溢れさせながらわらっていた。


 左の掌から流れ落ちるものの正体を理解すると同時に、ゾクリと全身に寒気が走った。込み上げる嘔吐(えずき)をどうにかして抑え込む。見かけは生きた人間と変わりないのに、流れ落ちる血液は人間のものとは思えない程に冷たかった。朽ちた空の器に魂だけが詰め込まれているようだった。


 「大丈夫」

 譫言のように同じ言葉を繰り返しながら、彼女は微笑みを絶やさなかった。

 「大丈夫よ」

 血の涙を流しながら、それでも彼女は微笑みを絶やさなかった。


 《なあ。君は何でそうやって笑って誤魔化そうとするんだ?》


 笑顔を浮かべ続ける彼女の姿が、何故か自分と重なって見えた気がした。



 ミシリ、と音が鳴る。


 驚いて視線を移すと、右手で掴んだ柵が傾いていた。

 ドクンと心臓が跳ねる。老朽化した木の柵と共に身体が斜めに傾く。そして、そのまま崖の下へ落下しようとした瞬間――


 「よかった。危なかったわ!」


 声のする方を見やれば、誰かの腕が私の左腕を掴んでいた。視界の隅で老朽化した柵が奈落に吸い込まれていくのを見て、私はゴクリと生唾を呑んだ。


 私を救済した人物は私を安全地帯まで引き入れてから、再び安堵の言葉を零した。

 彼女は私の顔を覗き込み、白目が見えるほど大袈裟にぱちくりと瞬きを繰り返した。


 フリルのついた白黒のドレスが風に揺れる。腕に抱えられた鼠の縫いぐるみが重力に従って垂れている。首回りに縫い目の痕がある鼠は、星のステッキを手に魔法使いの恰好をしていた。


 「それにしても貴女、一体誰とお話していたの?」


 目前で小首を傾げた「御令嬢」はそう言うと、黒いフードの下で妖しい微笑みを浮かべた。

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