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第五十七話 和カイ

 風が周囲の木々を揺らす。

 吐く息は白く、コートの袖からはみ出した指先が冷たい空気に触れてかじかんだ。


 「何言ってるの、永美……?」

 「我ながら愚問だったわね。こんな事聞いても答えられる訳ないのに」


 左隣の彼女は乾いた微笑を浮かべた。

 人気のない裏道に二人分の呼吸の音だけが響く。私はゴクリ、と唾を飲み込んだ。


 永美は呼吸を整えてから、スゥ、と息を深く吸った。



 「堀口君を殺したのは、あなた?」



 ドクン、と強く心臓が鳴った。

 左手で差した傘の上にしんしんと雪が降り積もっていく。靴底から冷気が浸透して足の指先の感覚が失われていく。


 「ち……ちが……」


 咄嗟に口先を出たのは、自分を守るための嘘だった。


 沈黙。沈黙。血の気が引き、傘を持つ手首が震えた。私は情けなく視線を泳がせた。周囲を取り囲むのはどれも同じような木々だった。葉を落とした枯れ木が白い雪を纏っている。都会の喧騒から離れた林の中に人の姿は見当たらない。


 心臓が強く鼓動する音が全身に響く。どれだけ息を吸っても肺が広がらない気がした。浅い呼吸にさらに浅い呼吸を重ねていく。今にも逃げ出してしまいたいのに、足が竦んで動かない。肩で呼吸を繰り返しながら、私はおそるおそる隣の彼女に目を向けた。


 ――刹那。強い衝撃が私を襲った。


 バランスを崩した私は、気がつけば雪の上に転がっていた。


 薙ぎ払われた朱色の傘が宙を舞い、少し離れた白の上に落ちる。

 左頬が焼けるように熱かった。千切れるような痛みがじわりじわりと伝う。怖々と左手を伸ばせば、指先にぬるりとした赤い液体が付着した。


 「……嘘を吐くなよ、この殺人鬼が」


 それが自分の血だと理解するまでに時間は要さなかった。

 見上げれば、彼女が手に持った銀色のそれは、曇天の中で鈍い光を放っていた。鋭利に輝く切っ先からは私の左手に付着したものと同じ液体が滴り落ち、白い雪の上に鮮やかな華を咲かせている。


 「私は騙されない! 騙されねェからな!!」

 「な、んで……」


 千切れた皮膚から痛みが伝う。地面から雪が服の中に染み込んでいく。


 ――殺されるかもしれない。


 私は咄嗟に後退った。何故。どうして。幾つもの感情が頭を駆け巡っていく中で、本能だけが「逃げろ」と危険信号を発していた。けれど強張った身体は思うように動かず、床に尻をつけたまま不様に後退することしか出来なかった。

 やがて背中が一本の樹にあたり、私は最早逃れることすら叶わなくなった。


 「い、嫌」


 左頬が火照ったように熱い。恐怖に身体が竦む。

 永美は私を見下ろしていた。まるでゴミでも見ているかのような目だった。抉るような痛みが胸の奥を支配していく。


 「私の父親はこの事件を追っている刑事だ」


 呼吸を整えた彼女は低い声で唸った。


 全ての嫌な予感が一つに繋がっていく。

 それは、信じまいとしていた唯一の可能性だった。


 「お父さんには関わるなって言われたけど、()()()だけは私の味方になってくれた」

 「な……何を言って」

 「もう、こうするしかないだろうって」


 血のついたナイフが目の前に突き付けられる。

 私を見下ろす永美。その手に持った鈍色の凶器は酷く震えていた。


 「私は、あなたのゲームの駒になんてならない」


――――――――――――

第五十七話 和カイ

――――――――――――


 黒灰色の空から、白い雪が舞い降りる。

 口から漏れ出した息は辛うじて温もりを保っていたが、すぐさま冷たい空気にとけて消えていく。


 永美は私を見下ろしたまま声を震わせた。


 「どうして堀口君を殺したの……?」


 視線の先で彼女は唇を強く噛み締めていた。凶器を持っていない左手で頭をぐしゃぐしゃに掻き乱す。右手に握った刃物を振り下ろせばすぐにでも私の命を絶つことは出来るのに、彼女は躊躇したまま瞳孔を揺らしていた。


 (どうして、永美が)


 何故彼女の口から彼の名前が出てくるのか。

 一瞬、最悪な予想が頭を過ぎる。そしてその予想は次の瞬間、確信へと変わった。


 「私はずっと孤独だった。でも、堀口君はこんな私の傍にいてくれた」

 「…………」

 「そしてあなたも……!」


 あの日、元恋人の隣に居た少女が誰だったのか、私はようやく理解した。

 目の前が暗くなっていく。生温かい傷口に氷の粒が沁み込んでいく。


 「二人とも、私の傍にいるって言ったじゃない」

 「…………」

 「どうしてよ!!」


 冷え切った世界の中で、左頬だけが焼けるように熱かった。

 呼吸の一つ一つが重たく感じた。全身に見えない何かが圧し掛かっているような感覚がした。


 《堀口優という人間を、知っているかしら》


 あの時永美がどうしてそんな事を聞いてきたのか、私はようやく理解した。

 同時に、何も知らずに綺麗事を並べていた自分がどうしようもなく愚かで滑稽に感じた。


 「…………ハハ」


 気がつけば私は、乾いた自嘲めいたものを零していた。

 黒々とした空を見上げれば、氷の粒が両目に染みた。咄嗟に両瞼を閉じる。瞼の上に乗った雪が皮膚の温度を奪っていく。


 つまり、何もかも自分の所為だったのだ。

 つまり、私が彼女に何を言ったところで何の意味も為さなかったのだ。


 私はただ、全てを狂わせた罪人に過ぎなかったのだから。


 「……殺されると思ったんだ」


 全ての始まりとなったあの日の出来事が脳裏を過ぎる。


 「あの日。堀口君は私を殺そうと――」


 視界の隅で、朱色の傘と学生鞄が雪に埋もれていた。

 人通りのない雑木林の中に女子高生が二人。次第に周囲の音が遠退いていく。枷が外れてしまえば、苦しかったはずの呼吸も楽になったような気がした。


 私の口からは、滔々と言葉が溢れていた。


 「怖かった」「悲しかった」


 私の口からは、止めどなく感情が溢れ出していた。


 「気がついたら堀口君は目の前で倒れてた」


 あの日から、何度も後悔を繰り返してきた。

 あの日から、何度も自責の念に駆られてきた。


 それでも、必死にもがいて生きてきた。


 「死神が言ったの」「それは私に与えた死神の力だって」


 私に力を与えた死神が生きてくれと言ったから。

 親友に死が迫った時、大切な人を守りたいと思ったから。

 弟を守れなかった時、それでも私を支えてくれる人達がいたから。


 「だから、勘違いしてた。こんな私でも生きる価値を見つけられたんだって」


 涙が零れ落ちていく。

 懺悔とともに、私は彼女に真実を打ち明けた。


 右目を瞑ることで人を殺めてしまうことのできる恐ろしい力を手に入れたことを。

 死神の力で今までに何人もの人の命を奪ってしまったことを。



 永美は信じられないといった表情で私の話を聞いていたけれど、全てを聞き終わった瞬間、崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。


 「そう。そうだったのね」


 膝を崩した彼女は、私を抱き締めた。

 びくりと身体を震わせた私に、彼女は何度も謝罪の言葉を告げた。彼女の白いマフラーが頬に触れる。永美の身体は酷く冷え切っていた。背後から涙混じりの彼女の声が聞こえた。


 「ようやく本当の事を言ってくれた」


 優しい声。彼女の言葉が懐かしく感じられて、私は喉に声を詰まらせた。


 「あなたも苦しんでいたのね」

 「…………」


 友人の名前を呼ぼうとしたけれど、掠れた声は上手く言葉にならなかった。


 「私、ずっとあなたのことを信じられなかった」

 「…………」

 「満咲も花もあなたのことを信じているのに。私だけがあなたのことを信じてあげられなかった」


 黒灰色の空から冷たい雪が舞い降りる。

 口から漏れ出した息は温もりを失いかけていて、すぐさま透明な空気に混じって消えていった。


 「けれど、ようやくこれで私も」


 私を抱きしめる彼女の腕に強く力が籠る。

 私は安堵に頬を緩め、胸を撫で下ろした。



 ――あなたのことを、信じられるわ。



 「『そんなの、嘘に決まっているでしょう?』」



 その瞬間、無意識のうちに自分の口から出ていた言葉の意味を理解出来なかった。

 気がつけば私は、永美の事を咄嗟に突き放していた。


 嫌な予感がした。

 嫌な予感がした。


 「……よく気がついたわね」


 永美はバランスを崩し、地面に倒れ込んだ。

 呼吸が荒くなっていく。背を起こした彼女は、乾いた涙を拭い低い声で唸った。



 「今、私が未玖を殺そうとした事」

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