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第四十話 手遅れ

 夜。突然雨の降り出した街の中を駆ける。

 住宅街の屋根を伝い家から家へ。空を駆ける速度を上げる。冷たい雨粒が幾つも顔にあたった。駆り立たせる本能が「急げ」と忠告する。


 (早く……! 早く、戻らないと)


 大罪人を追っている最中、妙な「違和感」を覚えた。

 それは何かの前兆のように感じられて、胸騒ぎが止まらなかったのだ。

 自分の追っていた大罪人(ターゲット)の気配を見失ってしまった今、それは嫌な予感からやがて焦燥感へと変わっていく。


 「未玖、どうか無事でいてくれ……!」


 切なる願望を唱えながら、未玖の家へと急ぐ。

 家の前まで辿り着くと、彼女のいる二階の部屋からカーテン越しに明かりが漏れていた。彼女の身の安全を確信し、俺はひとまず胸を撫で下ろした。


 部屋の窓を軽く叩き、「入れてくれ」と声を掛ける。

 暖色のカーテンが開くと、丸く開かれた少女の瞳がこちらを見つめていた。


 「いやあ、遅くなってごめんごめん」

 「ミタ……」

 「やっぱり俺のこと待っててくれた? なんて」


 軽口を叩いてみせたものの、今日はいつものツッコミは入らなかった。

 未玖が窓の鍵を開ける。俺は照れ臭さを誤魔化すように「いやあ、結構遠くまで散歩しちゃったんだよね」と笑ってみせた。


 革の靴を腕に抱え、窓枠に手を掛ける。

 部屋の中はいつも通りだった。

 白いベッドの上には相変わらずくたびれたクマの縫いぐるみが鎮座している。俺御用達のテレビはちゃんと部屋の角にあるし、勉強机の上には変わらず、積み上げられたまま一億年が経過した参考書達が使われずに眠っていた。


 (…………)


 壁時計の針が静かに時を刻む。


 時折、隣の部屋から未玖の母親と思しき女性の笑い声が聞こえてきた。大方、面白いテレビ番組でも見ているのだろう。

 あのさ――隣の未玖に声を掛けようとした瞬間、彼女は重々しく口を開いた。


 「無理して戻ってきてくれたんだね」


 ――瞳の色、いつもと違うから。

 目を伏せたまま彼女はつけ加えた。


 (……過労(オーバーワーク)、か)


 何と弁明すべきか思いつかず、俺は笑って誤魔化すことで精一杯だった。

 瞬間、未玖は何事もなかったかのようにクスリと顔に花を咲かせた。一瞬戸惑った俺に構うことなく、彼女は踵を返しベッドに腰掛ける。


 「別に待ってないんだから」

 「未玖……」

 「私、ちょうど一人で悠々自適な女子高生ライフを満喫してたところなんだからね」


 《未玖。さては、ずっと俺のこと待ってくれてたんでしょ?》

 《私はミタの居ない快適な暮らしを送っていたんですぅー。ミタのことなんて、これっぽっちも待ってなかったんだからね?》


 口を尖らせながらいつもの台詞を一言。亜麻色の髪を珍しく三つ編みにした彼女は、ベッドの上に転がったクマの縫いぐるみを手に取りぎゅう、と抱きかかえた。

 よれたパジャマ。髪を結うのが絶望的に苦手なのだろう、未玖の三つ編みは所々がぐしゃぐしゃになっていた。それならどうして髪なんか結ってるんだ、と尋ねようとしたけれど、言葉は詰まって出てこなかった。


 縫いぐるみが相変わらず生気の抜けた目でこちらを見つめている。

 腕に抱えられたそれを眺めて、俺は話題を逸らすために尋ねた。


 「やっぱり、その縫いぐるみはもう駄目なんじゃないか?」


 けれど、彼女から言葉が返ってくることはなかった。


 (あーヤバいな。やっぱり帰りが遅くなったの怒ってるな)


 ――って、何で同棲中の恋人同士みたいな台詞を吐いているんだ。


 「いや、あのですね未玖さん。別に浮気してた訳じゃないんですよ? なんちゃって」

 「あはは、浮気って何」


 可笑しそうに笑う彼女はやはり変わらずに見えて、俺は自分の心配が杞憂に終わったことに安堵した。

 勉強机の椅子に腰を掛ける。「あーあ、全く。君は少しくらい俺が居なくて寂しいって言ってくれてもいいのに」茶化すように言葉を吐いてから、大袈裟にため息を一つ。


 頭の裏で腕を組み、背もたれに体重を委ねる。ぼんやりと天井を見上げると、消えかけた白い蛍光灯が明滅を繰り返していた。


 「君が無事で良かった」


 薄暗い天井を眺めながら、俺は思わず安堵の言葉を零してしまった。


―――――――――――

第四十話 手遅れ

―――――――――――


 部屋の角から華やかな音が溢れる。夜更かしの若者に向けたテレビ番組は、今日も視聴者の笑いを取ろうと必死であった。


 「まあそういう訳で、散歩に飽きた俺は暫くまた引きこもり生活を営むわけですが」

 「もうちょっと運動した方がいいんじゃないですか」


 未玖が「本当にダイエット卒業したの?」と首を傾げるので、俺は威厳を保つべく毅然とした態度で反論を繰り出した。


 「いいか。俺の散歩の目的は基礎代謝の向上だ。ムキムキマッチョの死神に、俺はなる」

 「散歩程度じゃ無理だよ?」


 前後逆向きのままうだるようにして椅子の背もたれに顎を載せると、キィ、と軋んだ音が鳴った。

 テレビの中の芸能人が華麗なトークを繰り広げている。司会者の小気味好いツッコミと共にドッと笑い声が湧き上がった。


 「なあ、未玖」

 「何? ミタ」

 「未玖はさ。筋肉ゴリゴリの男と細身のマッチョと、どっちが好みだ?」

 「どうしたの。藪から棒に」


 レースのカーテンがふわりと舞い、窓の外から風が入り込む。夜風は肌寒いのか、彼女は両腕を小刻みに震わせた。

 俺は窓を閉めてから、再び椅子に腰を掛けた。


 「決めたぞ。俺は今日から鍛えることにした」

 「え。でもミタ、テレビっ子の引き籠もりじゃ」

 「安心しろ。テレビを見て部屋に引き籠もりながらでも、筋トレは出来るぞ」

 全てがこの部屋で完結する。ノー・プロブレムだ。

 「ええ。どうやって」

 「いいか。まずお笑い番組で腹筋を割る」

 「やかましいよ」


 彼女は呆れたように肩を落としてから「結局お笑い番組が見たいんじゃない」と続けた。

 お笑い番組が見たくて何が悪い。決して、君が見たがっていたこの番組からチャンネルを変えようとしていた訳じゃないんだからな。


 机の横に置いてあったリモコンに手を伸ばしてから、ベッドに腰掛ける彼女にチラリと視線をやった。

 彼女が「しょうがないなあ」と苦笑するので、少しだけ申し訳なくなった俺は頭を掻きながら言葉をつけ加えることにした。


 「あのさ、未玖」ボタンを操作し、テレビ画面を録画メニューへと遷移させる。「未玖がどうしてもって言うなら、その」口を突いて出てくるのは同じで、いつだって俺は思っていることを正直に言えないまま。


 「ろ、録画したとっておきのお笑い番組、一緒に観てもいいんだぞ?」


 ――特別に俺の解説付きでな!


 意気揚々とつけ加えた言葉は宙を舞い、部屋には再び静けさが訪れた。

 未玖は何も言わず黙っていた。録画メニューで停止したテレビは一切の音を発さない。


 「あ、はは。そんなに俺の解説付きが嫌な……」


 ふとした瞬間だった。

 机の上に飾ってあった写真立てが視界に入った瞬間、




 ――ゾクリと、背筋が凍りついた。



 幼い彼女の写った家族写真。


 色褪せた写真の左端と右端は不自然にちぎり取られていた。

 母と娘の二人だけがのこされた家族写真は、酷く、歪に見えた。


 (何、だ。これは)


 頭の中を幾つもの疑問が駆け巡る。

 これをちぎったのは一体誰だ。未玖は喧嘩でもしたのか。何故こんな物をわざわざこんな所に飾っているんだ。一体何が――


 「ねぇ、ミタ」


 思わず息が止まる。

 俺を呼び掛ける彼女の声は、先程と()()()()()()()()()




 「拓也はね、死んだんだよ」




 その瞬間、全ての音が遠退いていった。



 脳を流れる血液が側頭部の熱を奪い蒸発していく。

 両手足が凍りついていく。


 「あ…………」


 少しずつ世界が音を取り戻していく。


 咄嗟に浮かべた表情は情けなく引き攣ってしまった。


 「な……に、言って」

 「私も一緒に殺されるはずだったんだけど……はは、何でかな。私だけ()()()()()()()()


 タラり、と冷たい汗がこめかみを流れた。


 切れた電球が明滅を繰り返す。

 隣の部屋から狂ったような笑い声が耳朶を打つ。


 《俺、戻ってくるから。必ず戻ってきて君を守るから》


 君の命を守る、と決めたのに。

 君を危険にさらさない、と決めたのに。


 全部嘘じゃないか。

 俺は……本当に嘘つきだな。

 最低の、嘘つきだ。


 「すまない、未玖。君を守るために、俺は、何も……」

 「大丈夫だよ、ミタ」


 気道を絞めつけられるような感覚がして、息が苦しかった。視界が白と黒とに明滅を繰り返している。

 死んだ目の縫いぐるみを大事そうに抱き抱えながら、彼女は告げた。


 「私ね、決めたんだ。()()()()()()()()()()()って」


 何を、言っているんだ。


 「この力はきっと、神様から授かった力」

 「未……」

 「私はもう、あなたが居なくても、自分の存在価値が見つけられるようになったから」


 感情の籠もっていない平淡な声。

 くたびれた縫いぐるみと同じように虚ろな目を俺に向けて。


 「ど、うしてだ、未玖」


 君は、何故。

 何故……




 ()()()()()んだ?

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