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第三十二話 また、月曜日

 金曜日。放課後。

 HRの終了を告げるチャイムが教室に響き渡る。


 「か、蒲田!」


 彼女は勇気を振り絞り、席を立とうとする隣の席の男子を呼び止めた。

 珍しく互いの部活が休みの今日、彼女――片梨夏希(かたなしなつき)は、(はや)る心を抑えどうにかして彼の足を止めることに成功した。


 「はっ話聞いてやるから、またあたしにいちご牛乳奢れ」

 「……新手の恐喝か何かか?」

 「ち、ちげぇよ! あ、あたしはただその、あの後お前の様子が気になって気になって仕方なかったから話聞いてやろうと思っただけだろ! たまたま今日はお互い部活休みだしな、お前がどうしてもあたしに相談したいって言うなら、いちご牛乳一つで勘弁してやることもやぶさかじゃな」



 屋上にて。

 西陽差す屋上のベンチで、横に並ぶ二人。彼女はいちご牛乳と書かれた紙パックを手に、両手を広げ大きく伸びを一つした。清々しいほどの伸びの後、身長百四十センチの小柄な彼女が項垂れるのに合わせ、ポニーテールが寂しそうに揺れる。


 「なるほどな。で、姉ちゃんの前でまた素直になれなかった、と」

 「そ……それは」

 「素直に言えばいいだろ? 『俺は姉ちゃんが好きだから放って置けないんです』って」

 「ななな、何言ってんだお前?!」

 「うるせぇ。くだばれシスコン野郎」


 びゅう、と吹いた風に前髪がなびく。秋の夕暮れは少し肌寒くて、彼女は小刻みに震える身体を両腕で抱き締めた。

 夕陽の赤が屋上を照らし、カラスの群れが飛んでいく。


 「……そろそろ名前くらい呼んでくれたっていいだろ」


 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声は、カラスの鳴き声に掻き消されてしまう。隣の男子が「何か言ったか?」とこちらを向くので、夏希は慌てて「なんでもねーよ」と誤魔化した。両腕を握る手にギュッと力が籠る。


 「あ……ありがとな、蒲田」

 「何だよ、急に」

 「その、なんだ。いつもあたしにいちご牛乳奢ってくれて」


 これはそのお礼だ、とぶっきらぼうに呟いてから、彼女は照れくさそうに視線を逸らした。鞄の中から透明なラッピングを取り出し、隣の男子に差し出した。突然の出来事に驚いたのか、拓也は暫くの間口をパクパクとさせていた。丸く見開いた瞼の下で焦茶色の瞳が小刻みに揺れ動いた。

 中身の見える袋の中に、恐らく手作りと思われるクッキーが三、四つ。金色のリボンで結わかれたそれは、まさに時季外れのバレンタインを想わせる代物だった。


 「お前……これ」

 「何だよ。あたしの手作りだ、ありがたく食え」


 ハートや星の形をしたそれらは、およそバターと小麦粉で出来ているとは思えないような黒い色をしている。

 暫くの間突き出された黒い塊を眺めていた拓也だったが、やがて吹き出すようにしてプッと笑い出した。


 「お前、俺に毒盛る気か」

 「な……!」

 「この発がん物質の塊を、俺に食えと」

 「な、なんだと!」

 「ハハ、冗談だよ」


 拓也は「ありがとな」とはにかんでから、こちらに手を伸ばした。

 一瞬、指先が触れる。夏希は照れくさくなって思わず顔を背けた。


 上手く作れた訳ではないことくらい、分かっている。

 上手く話を聞いてやれた訳ではないことくらい、分かっている。


 それでも、いつだって自分に感謝の気持ちを示してくれる。

 彼のそんな優しいところがどうしようもなく好きで、西陽に照らされた夏希の頬は赤く染まるのだった。


―――――――――――――――

第三十二話 また、月曜日

―――――――――――――――


 夏希の隣に座っていた拓也は立ち上がり、緑のフェンスから校庭を見下ろした。

 夕焼け色に染まる校庭を眺めながら、彼は夏希お手製の黒いクッキーを一口含み、思わず顔を顰めた。


 「やっぱりお前、クッキー作るの絶望的に下手過ぎるだろ」

 「な……っ」


 拓也は「こんなに苦いクッキー食べたの初めてだわ」と揶揄うようにして笑った。夏希は悔しそうに頬を膨らませてから、黙っていちご牛乳のストローを口に運んだ。掌の中で紙パックが収縮していく。散々にけなされているのに、不思議にも嫌な心地がしなかった。ひんやりとした甘さが喉を潤していく。

 風が撫で、ひぐらしの鳴き声がこだまする。校庭を見下ろす男子の背中は夕陽の影になって黒く映った。フェンスの隙間から後光のように西陽が射し、彼女は眩しさに目を細めた。


 「俺達、似た者同士だよな」


 彼は校庭を眺めたまま、ふと零した。


 「どうしたんだよ、急に」

 「何だろうな。()()()()()()()なところ、っていうかさ」

 「…………」


 夏希は言い返す言葉が見つからなかった。立ち上がり、彼の隣に並ぶ。緑の柵を握り締めると、金属の冷たさにじんわりと掌の温度が失われていった。


 見下ろした校庭では野球部が放課後の練習をしていた。

 キィン、と鳴り響く金属音。エースの選手に向けられる声援がやけに煩かった。


 校庭の隅の方で一人ランニングをしている部員が目に入った。

 頭の中に「落ちこぼれ」という単語が浮かんだ瞬間、夏希の胸は苦しくなった。


 「届かない虹を掴もうとして、でも上手くいかなくて」

 「…………」

 「一緒なんだ」


 隣の男子は自嘲気味に笑う。

 夏希は冷たい柵を握る手に力を籠めた。


 「実は俺さ、サッカー部でいつも一人で走らされてるんだ。ハハ、情けないだろ?」


 一人でランニングしていた野球部員が、足をもつらせて転んだ。

 見えない位置からそれを見守っていた女子が、不安そうに顔を青くした。


 「うっせぇ。足りねぇ奴が努力するのは当たり前だろ」


 夏希はストローを噛み潰した。好きな事と得意な事は違う。生まれ持った才能には限りがある。努力しても埋まらない差もある。どんなに欲しいと願っても手に入らないものもある。

 そんなことは、嫌という程知っているから。


 「バレー部であたしみたいなチビは役に立たねぇ。ただそれだけだ」

 「でも、諦めたくないんだろ」


 芯のこもった声だった。

 驚いて隣を見やると、彼は真っ直ぐに校庭を見つめていた。


 立ち上がり、再び走り出す。

 何度でも前に向かって進む野球部員の姿を。


 「俺は強くなる」


 その言葉は真っ直ぐで、


 「姉貴を守ってやれるくらい、強く」


 たとえどれだけこうして話を聞いてやろうとも、今後彼の目に自分が映ることはないのではないかと思った。


 哀愁漂うひぐらしの鳴き声が、澄み切った秋空にとけて消えていく。

 太陽が地平線の下に沈んでいく。


 「何だよ。いつも姉貴、姉貴って」


 思わず掠れた声が零れた。


 《実は俺もさ、サッカー部でいつもああやって一人で走らされてるんだよ。ハハ、情けないだろ?》


 ”あたしはずっと、お前が一人で走ってるところ見てきたのに。”

 喉まで出掛かった言葉を辛うじて呑み込んでから、夏希は震える声を必死に押し殺した。


 隣の男子に貰ったいちご牛乳をギュッと握りしめる。喉の奥がキュッと締め付けられて痛みを覚えた。

 気を抜くと溢れ出しそうになる涙をどうにかして堪えると、不意に零れたのは笑顔。


 「くたばれ、シスコン野郎」


 ――あたしの入る隙なんて、どこにもねぇのかよ。

 心の叫びを押し殺して、道化師のように笑いながら。


 「諦めんなよ。は……話くらい、いつだって聞いてやるからさ」


 思ったように声が出せなくて、情けなく上ずった声は説得力の欠片もない。


 上手く話を聞いてやれる訳ではないことくらい、分かっている。

 好きな人間が自分に興味を持ってくれそうにないことくらい、分かっている。


 そんな出来損ないの自分に対しても、目の前の男子は優しくはにかむのだ。


 「ありがとな、片梨。また、月曜日な」



 (アイツ、初めて名前呼んでくれた)


 屋上にのこされた彼女はひとり、潰れた苺のように真っ赤に染まった空を見上げた。

 空になった掌サイズの紙パックを潰し、ベンチに置く。


 「日曜日は姉ちゃんとデートか、アイツ」


 次第に暗くなっていく空はどこまでも高いところにあった。

 藍色に染まりゆく薄雲に手を伸ばそうとしたけれど、やがてそれはどれだけ手を伸ばそうと到底届かないものと知る。


 なんてことはない、当たり前の話だ。


 「いいなあ。あたしもお前とデートしてぇよ」


 口に出してみれば、それは叶いそうにもない荒唐無稽な願いのように感じられて、腹の底から可笑しさが込み上げてきた。

 吐き捨てるように溜息を零す。好きな事と得意な事は違う。天から与えられる才能には限りがある。努力しても埋まらない差もある。どんなに欲しいと願っても手に入らないものもある。

 そんなことは、嫌という程知っているから。


 「また月曜日、か」


 見上げた空がじわりと滲んでいく。目頭が熱くなり、酸味を帯びた感情が胸の奥を締めつけた。

 彼女は恨みがましく(そら)を睨みつけながら、強く唇を噛みしめた。

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