第二十八話 星空の下――後半
再び満天の星を見上げる。
俺は隣の彼女から貰ったミルクティーを再び口元に運んだ。口の中に優しい甘みが広がっていく。
「その……ミタ」
「何ですか」
「先程の続きですけど、例の死神の件、うまくいきそうですか」
「…………」
俺は飲みかけのキャップを閉め、ペットボトルをギュッと握りしめた。
少し冷えてきただろうか。両掌に消えかけの温もりが伝っていく。
「いえ。気配は感じていますが、まだ……」
彼女は夜空を見上げたまま、「そうですか」と呟いた。
声の中に少しだけ悲しい色が混ざっていた。
拳を強く握りしめ、下方に続く公園に視線を落とす。真ん中の枯れた噴水を眺めながら、俺は弱々しく言葉を吐いた。
「追っても追っても、肝心なところで逃がしてしまうんです」
「…………」
「自分の中に眠っていたこの力も、俺は」
「人間に分け与えてしまった」
「…………!」
まさか。
「貴方が何を心配しているのかは分かっています。あの子ならきっと大丈夫ですよ」
「まさか……」
「優しくて良い子じゃないですか。まるで私のよ……」
「知っていたんですね」
この人は何もかも全てわかっているのだろう。
俺が、人間に力を渡したことも。
俺が、何に悩んでいるのかということも。
それなら、全て打ち明けてしまった方が良いのかもしれない。
「……今のは貴方の突っ込みを期待していたのですが」
隣の女神様はガクリと肩を落としてから、いじける子供さながらの目線を俺に向けた。
瞬間、周囲の草木が騒めく。
冷えた空気が背中を押した。初めて下界に降りたあの日の出来事を思い起こし、俺は――
「ご存知の通りです。俺は下界の人間にこの力を分け与えてしまった」
あの日自分の身に起った違和感について、彼女に打ち明けることにした。
☆★☆
「あの人」に下界に送られたその日、俺は大罪人を追っていた。
幽かに感じる気配を辿りながら奴を探し回っていたとき、俺に突然あるものが見えた。
それはあまりに唐突で。
それは俺の目の前に広がった。
それは、少女が追われ、ナイフを持った男に切りつけられ死んでいく「未来」だった。
その時ふと、「少女が死ぬ」という未来の予想は、俺の手で変えることができるかもしれないという確信が沸き上がった。
(守らなきゃ)
ドクン、と心臓が跳ねる音。
次の瞬間、俺の身体は無意識のうちに動き出していた。
現実にそれが起こるまでの時間。
数分間――それが、俺に残された時間だった。
俺は必死に彼女を探した。
雨の中、
路地を走り、
少女の気配を追って、
気がつけば、俺は少女が男と対峙している場面に遭遇していた。
男が手に握ったナイフを振り上げる。
――今しかない、と思った。
俺は見も知らない君の事を、守らなければいけないと思った。
気がつけば、俺は彼女に力を与えていた。
死ぬはずだった彼女の運命を変えてしまった。
下界がどうなろうと、俺には関係なかった。
人間なんてどうでもいい、と思っていた。
《守らなきゃ》
でもあの時、俺は君を守りたいと思ってしまったから。
《私が死ぬときは、ミタに隣にいて欲しいな》
《一人で死んじゃうのは……怖いから》
君を死なせたりしない。
だから俺は、君をこちらの世界に巻き込む訳にはいかないんだ。
だから俺は、君に嘘をつき続けるしか――
「良いんじゃないんですか? それがたとえ嘘だとしても」
彼女が俺に優しく声を掛けた。
「だって貴方は、あの子のためにやったのでしょう」
彼女が隣で優しく微笑んだ。
「でも俺はきっと、彼女に背負い切れない程の十字架を背負わせてしまったんです」
「ふふ、悩んでいるんですね。ミタ」
彼女は夜空いっぱいに広がる星々を見上げた。
碧い瞳の中で幾つもの光の粒が瞬いていた。
「完璧なものなんて、ありませんよ。この世界のどこにもね。あるのは、いつまでも不完全な私達だけです」
「…………」
「ですから、貴方がそんなに悩む必要なんてないんです。貴方には貴方の思いがある。それだけで充分なんですから」
充分――その言葉を聞いた瞬間、俺は目を見開いた。
彼女はチラリと目線をこちらに向けると、ふわりと柔らかく微笑んだ。
(考えてもみなかったな、そんなこと)
一際強く吹いた風が、背中を押した。
飾らない彼女の言葉が、背中を押した。
《誰かを傷つけずに生きることはできない》
どちらを選択したとしても、どちらも傷つける結果となってしまうのなら。
人間の少女の命を守りたいと願った俺のそれは、充分といえるだろうか。
俺の選択は、間違ってなかったと言えるのだろうか。
「あの子なら、きっと大丈夫です」
彼女がキメ顔でウィンクすると、左目から小さな星々が散っていくのが見えて少しドキリとした。俺は「なるほど、これが美人の力か」などと心中で独りごちた。
不思議なことに、俺に重く圧し掛かっていた気持ちは彼女の言葉で幾分か和らいだようだった。
「あの子の心は、貴方が思っているよりもずっと丈夫なはずですよ」
「そう……ですよね」
「あの子は何だか似ている気がするんです。私と」
「そうですよね……って、え?」
(似ている、って何で)
嬉々とした様子で続ける彼女を、俺は口をパクパクさせながら眺めることしか出来なかった。そんな話をしていたものだから、星がキラリと夜空を流れ落ちていたことに気がつく由もなく。
「だから、きっと大丈夫です!」
「え……と、まず質問です。そのよく分からない根拠は何なんですか」
「根拠のない自信が、そこにはあるんです!」
はあ?
「あら、聞こえませんでしたか? あの子は……」
「もう良いですよ……」
俺は「この人の言うことに突っ込んだ自分が馬鹿だった」という結論に達し、肩を落とした。
(まあ、少し天然っぽいところが似てなくもないか?)
いや、やっぱ違うだろ。この人は筋金入りだからな。
そもそも言ってることがよく分からないし……。
やがて、夜が明けていく。
俺はすっかり冷え切ったミルクティーを飲み干してから、一晩付き合ってくれた彼女に謝辞を述べた。が、丁度同じタイミングで静けさを打ち破る音楽が流れ出したものだから、彼女に対する畏敬の念も少しずつ薄れていく。
今いいところだったんだけどな。流石に勘弁していただけないだろうか……。
「その音楽、どうにかできないんですか」
「ええ、別にいいじゃないですか。何というかこう、この場違いな感じが堪らなく面白いと思いません?」
全然面白くないですし、自覚してるなら尚更どうにかしてください。
「というか、流石にそろそろ出た方がいいんじゃないですか」
「うっ」
うっ、じゃないんだよなあと思いながら、俺は先程から何度も鳴り響く電信機を一瞥した。同時に、電信機の向こうで悪態を吐く死神の姿が脳裏を過ぎる。大方、サボりがバレたんだろうな。
彼女は渋々といった表情で応答ボタンを押し、黒い電信機を耳に当てた。
「……はい……はい……分かりました、今向かいますから」
会話を終えた女神様はハァ、と肩を落とし小さく嘆いた。
「残念です……天界から呼び出されました」
「何も残念ではないと思いますけどね」
あなたもちゃんと仕事しろってことですよ。
「私は今すぐ帰ります。貴方も、くれぐれも無茶はしないでくださいね」
薄闇に光が差し込む。
彼女は立ち上がりそう言うと、柔らかく微笑んだ。
遠くの方から差し込んだ日の光が彼女の横顔を照らした。
「分かってますよ。貴方も、あまり天界の死神に心配を掛けさせないであげてください」
白いワンピースに、金の髪に、透き通った華奢な腕と足に、幾つもの淡い光の粒が集まっていく。
彼女の輪郭は次第に朧げになっていき、形を失っていく。
白百合の女神様は「分かっています」と微笑んでから、金色の光の粒に包まれ、やがて完全に見えなくなった。
「……分かっていないから言ってるんですけどね」
ベンチに残された俺は一人、明けゆく街の景色を眺めながらハハ、と笑った。
遠くの金色が眩しくて、俺は僅かに目を細めた。
「本当にいつも、何を考えているのか分からない人だ」
俺は一人、空を見上げた。
群青はやがて白に呑み込まれていき、夜空に瞬いていた星々は次第に隠れていく。
《完璧なものなんて、ありませんよ》
《貴方には貴方の思いがある。それだけで充分なんですから》
スゥ、と息を吸うと、信じられない程身体が軽くなったような気がした。
久し振りに眺めた夜明けの空は、綺麗な綺麗な瑠璃の色をしていた。
第三章クライマックスまで、あと六話。
衝撃の展開に、貴方は戦慄する。




