第九十四話 壊れていく
「満咲……なんで……」
満咲は歯を強く食いしばり、両手を広げて真っ直ぐに花の方を見つめている。
涙を湛え未玖を庇おうとする彼女の姿を見て、花は声を震わせた。
「あたしらのことずっと騙してきたコイツのこと、赦せんのかよ……?」
満咲は動こうとしなかった。
「永美を殺したコイツのこと、赦せんのかよ!?」
一瞬、満咲の瞳が揺らぐ。
それでも、彼女は依然としてその場を動こうとしなかった。彼女の広げる両手が小刻みに震えていた。
「満咲がどう思おうと、あたしは絶対にコイツのこと赦せない」
花はキッと満咲を睨みつけた。
「コイツが全ての元凶なんだ……!」
立ち塞がる満咲を突き飛ばし、破片を強く握りしめて叫ぶ。
連続殺人犯は自らに迫りくる殺意を冷静に見据えながら、その身を翻し、凶器を握りしめていた花の腕を捻り上げた。
「く……っ!」
彼女を見下ろす冷え切った視線は、とても人間を見るものではなかった。
「残念ね。折角助けてあげようと思ったのに」
後頚部に強い衝撃を受け、一瞬の間に視界が急降下する。地面に倒れた衝撃で口内を切ったのか、彼女の口の中には錆び付いた鉄の味が広がった。
「その澱んだ黒い空気。その『悪意』を見るだけで、思い出す」
頭上から降り注ぐ低い声は、とても花の知る彼女のものとは思えなかった。
「私を騙し切り捨てた総督様」
花は背中に強い衝撃を感じた。それが彼女の足だということはすぐに理解した。
少しずつ体重が掛けられていく。肺が潰れるような心地がした。呼吸がまともにできなくなっていく。「やめ……」噎せ返るような湿った土の匂いが鼻についた。地面に頬を擦りつけたまま彼女は強く歯を喰いしばった。
「長い、長過ぎる時間。暗闇の中で私にできたことは、過去の記憶をなぞることだけだった」
花の頭上で、悪魔が何やら訳の分からないことを呟いていた。
温室の外では土砂降りの雨が降り始めた。
「そして理解した。私の追い求めてきた理想は全て、幻だったのだと」
彼女が何を言っているのか理解が出来なかった。
降り出した雨は止む気配がなく、ガラス張りの温室にくぐもった音が広がる。
雨音に混じって何度も満咲の叫ぶ声がした。
「……うるさい」
花の背中がフッと軽くなった。
見上げると、満咲を睨みつける未玖の姿があった。
「…………」
今しかない、と花は思った。
地面に落ちていた破片を再び握りしめる。
花は無防備になっていた彼女のふくらはぎに凶器の切先を勢いよく突き刺した。
白い靴下が次第に赤く滲んでいく。
「そんな……」
次の瞬間、彼女は目にした光景に言葉を失った。
傷口付近に、緑色の光が集まっていく。どこからともなくやってきた血が、細胞が、組織が傷を覆っていく。怪奇現象としか言いようが無かった。全ての事象が何事も無かったかのように取り消された、と表現した方が正しいだろうか。気がつけば凶器に付着していた血の跡も消えており、それはまるで、時間を遡っているかのようだった。
「なんでだよ……」
振り向いた未玖は虚ろな瞳で花を見下ろした。
そこに花の姿は映っていない。茶褐色の瞳は深い闇だけを映していた。
逃げなければと頭で分かっているのに、身体はピクリとも動いてくれなかった。
「はは、ハハハ……」
恐れや恐怖を通り越した可笑しな感覚だけが彼女を支配していた。
そこにあったのは、もう終わってしまったのだという諦念だけだった。
「あんた本当に人間じゃなかったのかよ」
悪魔の瞳が一瞬赤く輝いたように見えた気がした。まるで血の色だ、と思った。
《満咲、花。話があるのだけど》
《もしかしたら未玖は……》
ふと、脳裏に友人の台詞がよぎる。
これが走馬灯なのかもしれない、と花は思った。
(ごめん。永美)
《花ちゃんには、ずっと花ちゃんらしくいて欲しいなあ》
《大切な人を喪った時のあなたの顔、最高の余興だったもの》
(ごめん。将)
心の中で謝罪を唱えてから、彼女は静かに呼吸を整えた。
犠牲になった彼らの為に自分が出来ることなんて本当は何も無かったのかもしれない。彼女はゆっくりと目を閉じ、自らの死を受け容れようとした――
「やめて、未玖……!」
満咲の声を聞くまでは。
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第九十四話 壊れていく
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満咲は真っ直ぐに未玖を見上げていた。
自分にしがみつき離れようとしない彼女を見て、未玖は激しい嫌悪を覚えた。
「そんな顔で私を見るな……っ!」
気がつけば彼女は掌で力一杯満咲を殴っていた。ギリ、と強く歯を喰いしばる。「うるさい……」突然の衝撃に満咲は頬を抑え、地面に倒れ込んだ。「うるさい、うるさい……!」力無く彼女を見上げる満咲の胸ぐらを掴み、未玖は再び彼女の顔を掌で殴った。瞳孔は開かれ小刻みに揺らいでいた。
「ハァ……はぁ……」
土砂降りだった雨音がぽつりぽつりと止んでいく。空を覆っていた黒い雲が次第に晴れていく。
どれだけ殴られてもなお、満咲は真っ直ぐに未玖のことを見つめていた。
「どうして抵抗しないの……」
目の前の光景が信じられなかった。
「どうして……」
久しぶりに目にした世界は黒い靄で溢れていた。
それは彼女の望んでいた世界だった。
幻の本当の正体は悪意であると知った時から、彼女は望んでいた。
幻の正体に初めから気付いていればと願った時から、彼女は心から渇望していた。
再び下界で生を受けた彼女は、ようやく理想の世界に辿り着いたはずだった。
そこは、もう二度と幻に騙されることのない、彼女の目指した世界。
幻の正体を自らの目で見抜けるようになった、真実の世界。
「どうしてそんな顔が出来るのよ……?」
満咲の周囲に黒い靄は一切見えなかった。
すなわち、その言葉もその表情もそのすべてが、満咲の本心で。
「私は、あなた達をずっと騙してきた! あなた達の友達を殺した! そして、あなた達を何度も傷つけた」
彼女は否定した。
「他にも沢山の人を傷つけた! この手で数え切れないくらい、傷つけて、殺して、壊してきた……!」
でないと、彼女の中で何かが壊れてしまうような気がしたから。
「自分の命を守るために、友達を守るために、家族を守るために」
積み上げてきたものが、全て崩れ去ってしまうような気がしたから。
だから、何としてでも否定しなければならないと思った。
「あなたが私を赦せるはずない」
だから、自分が何度殴っても黒く染まらない満咲を、否定しなければならない。
だから、頬を腫らしてボロボロになっても真っ直ぐに自分を見つめる満咲を、否定しなければならない。
「そんな理想、あるはずがないのに……」
言葉尻に向かうにつれ、彼女の声は次第に細くなっていった。
「私、気づいてあげられなかった。未玖がずっと一人で苦しんでたこと」
未玖は一瞬、驚いたように瞳を丸めてから目を伏せた。彼女の表情を覆い隠した前髪は青白い光に照らされていた。
土砂降りだった雨はいつの間にか上がり、雲間から覗いた月明りがガラス窓から差し込んでいた。
「未玖」
いつか未玖がやっていたのと同じように、満咲は困ったような顔で笑ってみせた。口の中がひりりと痛むのも気にならなかった。
「ありがとう。あの時、命懸けで私を助けてくれて」
どれだけ突き放されようと、どれだけ傷つこうと、満咲の決意は変わらない。かつて自分を守ってくれた彼女の姿を思い出す度、不思議と勇気が湧いてくる。
「あなたは、私の救世主だった。私が初めて心から信じたいと思えた人だった」
ずっと、死んだように生きてきた。
乾いた世界で、何もない日々を過ごしていた。
「どうして、ちゃんと聞いてあげられなかったんだろう」
死んでしまおうと思っていた自分を救ってくれたのは、蒲田未玖だった。
「あの時、無理して笑っていることに気がついてあげられたら」
自分を救ってくれた彼女が苦しむ姿を見てきた。
「あの時、一人で悩んでいることに気がついてあげられたら」
自分を救ってくれた彼女が、少しずつ壊れていってしまう姿を見てきた。
今更気づいたところでどうにもならないことは解っているのに、後悔ばかりが溢れていく。
「ごめんね。ごめん……」
満咲は何度も謝罪を繰り返した。涙で視界がぐしゃぐしゃに歪んでいく。
「あり得ない……」
未玖は思わず後ろによろめいた。
取り繕っていた仮面が剥がれ落ち、苦悶に歪むその表情は実に人間らしかった。
「私、未玖のやっていることが正しいとは思えないよ」
「…………」
「でも、私は確かに救われた」
雨上がりの裏庭に風が吹き、ざあ、と草木のそよぐ音がした。
満咲は微笑んでいた。月の光を閉じ込めたガラスからぽろぽろと雫が滴り落ちていく。真っ直ぐな瞳の中には未玖の姿だけが映っていた。
「もうあなたを、一人で苦しませたくない」
その言葉は、永遠とも感じられる長い長い時の中で一人苦しんでいた彼女を救う言葉だった。
「たとえ周りに何と呼ばれようと、どんな罪を背負っていても」
「あり得ない……そんなこと、あるはずが……」
「もう、あなたをひとりにしないから」
赤く腫れ上がった頬を緩め、彼女はぐしゃぐしゃになって泣きながら笑っていた。
《たとえ周りにあなたが何と呼ばれようと、どんな罪を背負っていても》
《もう、あなたをひとりにしないから》
――それは、昔の彼女の言葉と同じだった。
「罪を償おう。未玖」
満咲の姿が一瞬、かつての自分と重なって見えた。
《何度選択を間違えたって、何度それを繰り返したって、いつか私達は前に進めるはずよ》
否定したはずのかつての自分がそこにいるような気がした。自分の苦しみが、今までの自分のしてきたことが、全て否定されるような気がした。
彼女はただ怖くなった。
だから、
……全て消してしまわなければならないと思った。
「え……?」
満咲の頬に、温かいものがこぼれ落ちる。
赤々と輝く彼女の瞳を見た瞬間、満咲は唐突に、自分の死期を悟った。
――次の瞬間。
「未玖……!」
聞き覚えのある声がして、未玖はガーデンテラスの入り口に視線を移した。
そこには、息を切らしてこちらを見つめる一人の死神の姿があった。




