覚悟は決まった。……前言撤回!
何で、どうして。
あれはまさか、俺の知る明美なのか。
玉突き事故で死んで、俺への後悔を残したあの明美なのか。
そうだとしたら何をしに戻って来た?
「うげぇえええっ」
廊下に吐いた直後、意識が真っ暗になった。
生温かい何かに突っ伏している気がする。
その感覚を最後に俺は夢を見た、過去の夢だ。
明美と仲良くなったのは幼稚園の頃だ。
当時から引っ込み思案で、それに目をつけたガキ大将な性分の男の子に嫌がらせを受けていた。
俺は家の近い子として彼女を認識していて、よく泣いている姿を見ていた。
『どうしてやり返さないんだ?』
『だって、やり返したらあの子も痛い思いするから……それは嫌だ』
報復すれば相手も同じ苦しみを味わう。
俺としては、そんな目に遭わされて自分が耐えれば言いなんて小綺麗な事を言う彼女の正気を疑う気持ちがあったが、それ以上に何て強い子だろうって思った。
それから、そんな明美の優しさに甘えて彼女を虐めるガキ大将から明美を守るようになった。
誰よりも強い女の子。
俺はそんな彼女を守りたいと思っていた。
『カズ君、あの』
『悪い。俺これから移動教室だから』
だから、中学最後の時は突き放した。
悪評が立ち始めた時、俺と一緒にいて被害が及ばないように真っ先に突き放したのだ。
人と付き合うのを諦めた頃だが、それでも明美を思う気持ちはあった。
何で忘れていたんだろう。
結局、どんどん人嫌いになって気付いたら明美の事も遠ざけて忘れてしまった。
明美はずっと後悔していたらしい。
自分が広めた悪評で貶められた事を悔いて、ずっと謝罪したかったと山村慶次から聞いた。
てっきり彼女に伝える勇気が無くて、一人悶々として山村慶次の嫉妬心を刺激する結果に繋がったと勘違いしていた。
彼女が話せなかったんじゃなく、俺が話せないようにしていたんだ。
何で、忘れてたんだよバカ。
「んあれ?」
保健室のベッドの上で目が覚める。
保健室を目指して歩いて、途中で出会った明美と交わした会話までは憶えている。それから別れの挨拶をして、吐いて、そこからふっつりと記憶が途切れていた。
ん、吐いて?
俺は跳ね起きて自分の体を見下ろした。
「体操着だと!?」
「あたしが着替えさせた」
「うわっ、燐か!」
ベッドの隣のスツールに燐が腰掛けていた。
普段の彼女からは想像できないレンガ本を読んでいた。
読書を嗜む俺ですら若干手を出すのを躊躇いそうな文量と濃さなのに、涼しい顔で読んでいやがる……!
しかし、なぜ燐がここにいるのか。
いや、それよりもあたしが着替えさせたって?
「それどういう意味だ」
「互いに真っ裸を見せ合った仲だろ。通路で自分の吐瀉物に倒れて失神してたヤツが裸で怖気付くなって」
「起き抜けでパンクしそうなんですけど」
「暇だったから通路も掃除しといたぜ」
「もう一回失神して良い!?」
女子に自分の吐瀉物の掃除させるとか男としての尊厳を失った気がする。
因みに、体操着を捲ると下穿きまでは変わっていないことに密かに安堵した。ごめんな、まだ真っ裸は難しいです。
「もう体調は平気か?」
「スマン。まさか介抱してくれたとは」
「教室から追ってきて正解だったな」
「え?」
「あんな顔色でふらふらトイレ行く姿見たら普通に心配になるっつの」
「心配?」
「……あ!ち、違うし!」
心配してくれたのか。
それでうれしくなったが、直後に俺の指摘で恥ずかしくなった燐の照れ隠しレンガ本が眉間に炸裂した。
文庫本でも最強の凶器!!
もう一度失神しそうな鈍痛で再びベッドに沈む。
「今って何時?」
「まだ三限目やってる時間だな」
「……戻る気にならないな」
「ギリ特待生がこんな所で悠長に休んでて良いのかぁ?」
「無理して戻って、今度は教室にエクスプロージョンしたらどうするんだよ」
「もうあたしは掃除しねえ」
ですよね!
だから、今は休む事を優先した。
朝食ったうどんは悪くないが、昨日今日でストレスが半端ないし、これからも続くなら吐く事を想定して朝食は抜くべきかな。
ああ、ストレスといえば――明美。
アイツの言動は、『この高校にいない山村慶次』の名を口にした挙げ句、その存在を不安視していた俺の胸中を見透かした物だった。
明らかに、『俺の未来』を知っている。
だけど、それはまた奇妙な話だ。
明美は俺より先に死んだから、山村慶次に殺された事も知らないし、それによって彼を警戒している俺の心の内が読める筈もない。
未来の明美とも違う。
しかも、「戻ってきた」という口振りや昨日の未来を知らない素振りからして、変わったのは今さっきという事になる。
いつの、どこの明美が憑依したんだ?
一体、あれは『明美』なんだ?
「……いや、どっちにしても謝るべきか」
何者だろうと明美だ。
俺が突き放して、謝る機会すら失わせて後悔させた幼馴染。
彼女もまたタイムリープして来たのなら、自分の後悔を晴らす為に動くだろう。
肝心の俺は、もう折れそうだ。
まだ二日目だが、やっていける気がしない。
明美の一方的な好意と捻くれたアプローチの迷惑を被っていたと思ったが、思い出せば俺も俺だ。
何もかも山村慶次と明美の所為にしていたが、拗れたのには俺にも原因がある。
被害者面していい人間じゃなかった。
そんな俺が過去にいても良いのだろうか。
明美に謝っても良いのだろうか。
「なあ、燐」
「ん?」
「過去に戻ってさ、人生やり直すチャンスが突然降ってきたらどうする?やり直したいとも思ってないヤツに」
「はあ?」
俺の唐突な質問に、燐が顔を顰めた。
レンガ本を閉じて嘆息する。
「あたしはやり直したい派だし分かんない」
「国語の問題だよ。出題者の意に沿ってくれ」
「……他に条件とかは?」
「自分が変わる前から色々変わっちゃってる」
「えー、何それ余計に分かんないんだけど」
燐は嫌そうな顔を作った。
だが、案外他人を心配するほどには他人に気遣える子だから、結局は俺の質問も無視できず答えようとしている。
深い思考に入った燐が沈黙する。
静かになったことで保健室の壁にかかった時計の秒針の音が異様に大きく聴こえる。
体感として十秒か、それとも一分かは分からない時間の沈黙の後、再び燐が口を開いた。
「あたしだったら、自分も色々変えてやるって思うな」
「………?」
「どうせそこまで変わってるなら、未来だって変わってるじゃん。なら元には戻せないし、いっそ自分も好きに生きるしかないでしょ」
燐は言い切った後、これ以上の質問は受け付けないというように、また本に視線を落とした。
片や俺は、その燐の回答に衝撃を受けていた。
「そ、っか」
俺は初志を忘れていた。
元々は、死を回避する為に動いていたじゃないか!
燐に質問するくらいに迷っているのは、たぶん色々とショッキングな事が続きすぎて目的を見失っていたからだ。
まあ、たった二日目で情報量多すぎるんですけどね!
「見失ってたのか」
過去が激変しているのなら、未来もその先として相応しい形に変化している。
俺は今、『五月以前の俺』が生み出した未知の過去の中でひたすら戸惑っていた。これは間違っているとか、あれは可怪しいだとか差異ばかりを見て嘆くだけだった。
全くもって、何にもちゃんと向き合っていない。
向き合わないと、何も変わらない。
どんなに嘆いたって、死んでいるから未来に帰れないのだから明美だとか山村慶次への恐怖はどうでもいい。俺もこの過去をありのままに受け止めて、生きていくべきだ。
俺も、明美に謝りたい。
タイムリープの原因が何であれ、俺だってやり直せるんだ!
「ありがとう、燐」
「ん?」
「俺もようやく『今』に向き直れた気がするわ」
「え、何?吐いて失神したらスッキリするのは良いけど、急にポエマーになるのやめてくんない?反応に困るんだけど」
「辛辣すぎる反応も困るんだけど?」
それはそれとして、やっぱりタイムリープの原因については知りたい。
何の理由も無く過去に飛べるなんて話なら、俺だけでなく万人に起こっても可怪しく無いのだ。
俺だった理由が必ずある。
明美の事も勿論だが、過去との差異からきっと正体も掴める。
その為にも。
「まずは自分の事を知るべきだな」
まずは、『五月以前の俺』についてだ。
まだ確定ではないが、正体が別の人間だった場合、一体いつから『乙倉和稀』に憑依しているかを知らなくてはならない。
それは『五月以前の俺』が誰かを判別する手掛りになる。
正直、俺の全く知らない人間だったらお手上げだが、少なくとも調べる価値がある。
そして、どうして昨日の朝に俺と『交代』したのか。
「カズ」
「ん?」
「何か顔色良くなったな?」
「ああ。色々と希望が見えてきたからな」
「吐いてスッキリしたからだろ」
「うっさいなもうやめてよ!!」
一々そこをイジらないで頂けますか!?
でも、燐のお蔭で色々と吹っ切れた。
いつ未来に戻れるとかそんな事よりも今に向き直って動いていこう。元々その積もりで動いていたが、心の奥底で覚悟が足りていなかった。
今はそれが出来ているのだから、きっとこれまでの俺とは違う。
断固たる決意を持ち、これから来るどんな変化にだって適応してみ――。
「お、乙倉。起きたかー?」
がらりと音を立てて扉が開く。
白衣を着た保健室の先生が入ってきた。
メリハリのついた豊かなプロポーションと、切れ長の瞳、そして艶やかな長髪をした女性だった。
あっれー?
俺の知ってる保健室の先生は五十代のおっさんだったようなー?
「どうした?私に見惚れたか」
自信に満ちた一言と共に、先生が妖艶に笑う。
俺はそれを見て、頭を抱えた。
「どうした、カズ?」
「駄目だ、やっぱりこんなの可怪しいって!!」
やっぱり、ありのまま受け止めるとか無理ィイイイイイイ!!




