第三話「イェガランス大森林」
シリース教を信仰する人族によって興され聖王を戴くシリース神聖国。
多くの種類の獣人族によって統治されるガリュンダ獣霊国。
両国の関係は長年に亘って険悪で、紛争が絶えない。
そんな両国の国境をなぞるように存在する森林―イェガランス大森林。
木々の葉が日光を遮り鬱蒼とした雰囲気を醸し出すその大森林を、鎧に身を包んだ騎士然とした人族の男六人が歩いていた。
全員が剣を腰に差しており、真っ白な鎧で統一されていた。また、全員が首に木で作られた逆三角形を模ったエムブレムを下げている。
「ここから先は我々にとって未知の領域だ。気を引き締めろ」
先頭を歩く騎士の声に、全員首を縦に振る。中には固唾を飲みこむ者もいた。
だがそれも無理はない。
シリース神聖国もガリュンダ獣霊国も何年もかけてイェガランス大森林の調査を続けているが、両国とも未だに大森林の全てを把握している訳では無い。
その広さにも原因はあるが、最大の原因は強力な魔物がいることだ。
イェガランス大森林には他とは比較できない程の力を持つ魔物が多く生息しており、国が送る調査団は悉く死者を出してきた。それが続くうちにやがて志願者も減っていき、今では大森林に送られる調査団のペースは減少していた。
「…止まれ!」
先頭の騎士の制止の声に騎士たちは足を止め、あまりの気迫に思わず剣の柄を握る。
「グレウン様、一体何が…」
「静かに」
先頭の騎士―グレウンは全身の感覚を総動員し辺りを警戒する。
何かがこちらへと向かっている。それにはグレウンしか気づいていなかったが、やがて騎士全員が気付く程大きい音が近づいてきた。
「来るぞ!」
グレウンの声に騎士たちは全員剣を抜き腰を下ろす。
木々がバタバタと乱暴に倒れる音が森中に響く。その音が近づくにつれ、騎士たちの体はガクガクと震えだす。
その音が目の前まで近づいたと思った瞬間、ソレは目の前に現れた。
「ウガアアアアアアアアアアア!」
全身がビリビリとする程の刺激を与える咆哮を上げるソレは、背丈は騎士たちの二倍を優に越える。肌は薄汚い黄色で、腕や足は周りの木を嘲笑う程太く殴られたらひとたまりもないだろう。
魔物の一種豚鬼である。
豚のような頭から覗く瞳が騎士たちを睨みつける。
「ひっ!」
その目に騎士の一人が情けない声を上げる。
グレウンはそれを見て憤慨するとともに諦念も覚える。
通常豚鬼は人族の生活圏ではまず見ない魔物だ。豚鬼は強い。例え訓練した騎士であろうと一人で戦うことはまず無謀だ。シリース神聖国の新米騎士の訓練でも、豚鬼と戦う際は十人程で囲んで戦えと教えている。新米騎士が一人前の証として退治する小鬼なんかとは訳が違うのだ。
「下がっていろ」
グレウンはそうだけ言うと一人で豚鬼の方へと歩き出す。
恐怖で竦んでいた騎士たちだったが、その行動の異常さには気付くことができた。
豚鬼は森の木々よりも大きい背丈でグレウンを見下ろしている。
騎士たちには、小さい子供が大男に挑んでいるようなそんな無謀な絵面に見えてしまう。
「グ、グレウン様!豚鬼相手に一人では!」
「心配無用」
グレウンは剣を抜く。
それは他の騎士たちのそれとは見るからに違う立派なものだった。
白を基調とした両手剣で、所々に逆三角形の紋様が入っている。柄は金で飾られており、その剣を見た騎士たちは豚鬼の事も忘れ思わず見惚れてしまう。
これこそがシリース神聖国が誇る聖剣の一つ、聖剣『グリュンダル』だ。
「ガアアアアアアアア!」
豚鬼が人族の男性よりも一回り大きい丸太のような棍棒をグレウン目掛けて振り回す。
しかしグレウンはそれを年齢を思わせない跳躍力で避けると、豚鬼の脳天目掛けて聖剣を振り下ろした。
「はあっ!」
グレウンの振り下ろした聖剣はまるでチーズを切るナイフのように、一切の淀みなく豚鬼を頭から体まで切り裂く。
「ア……アァ………」
「魔物風情が。死ぬがよい」
豚鬼は鮮血を体中から吹き出しながら体を半分にされ倒れる。
それを見ていた騎士たちから歓声が上がった。
「さ、流石グレウン様です!」
「まさにシリース神聖国が誇る聖騎士!」
シリース神聖国には聖剣と呼ばれる特別な剣が存在する。
女神が遣わした剣と伝説されるその聖剣は誰でも使えるわけでは無かった。
聖剣は自らの持ち主を選ぶ。聖剣に選ばれた者は類稀なる力を持ち魔物や人間問わず、何を相手取っても言葉通り百人力の力を発揮することが出来るのだ。
その聖剣の持ち主は、『聖騎士』と呼ばれ国民から崇められる存在となっていた。
騎士たちの目の前で剣に付いた血を払う彼こそ、そんな聖騎士の一人。
それがシリース神聖国聖騎士グレウン・エルス・リーダである。
「うむ。それでは引き続き注意しつつ調査を続けるぞ」
「「はっ!」」
騎士たちはグレウンの心強さに感動を覚え、きっと今回の調査はこれまでよりずっと上手くいく、誰しもがそう思った。
だが、悲劇とは何の前触れもなく起こるものだ。
―――
六人の騎士たちはそれからも豚鬼や強力な魔物と遭遇するも、それら全てはグレウンの一太刀によって斬り伏せられた。騎士たちの足取りはその順調さにどんどん軽くなっていく。
日が傾き始めた頃、騎士たちは森の中でも開けた場合に出た。そろそろ夜に備えて休息をとる場所を確保するためだった。
「………む?」
しかし、先頭を歩いていたグレウンが困惑の声を上げる。
この調査においてグレウンのそんな声を初めて聴いた騎士たちは彼の視線の先を見る。
そこには魔族が二人いた。
一人はまるで神話に出てくる魔王のような男だった。真っ黒なツノ、翼、尻尾は彼が魔族であることの何よりの証拠で、高価そうなこれまた真っ黒なローブを身に着けていた。だが、こちらを見る彼の表情は魔王のようなものではなく、想定外の人物に会ったような呆然とした顔だった。
もう一人は魔族の女性。しかしその翼や尻尾は魔族のそれではなく、竜のようだった。現代の出で立ちとは思えない、この辺りでは見かけない服装だ。顔はとても端正で、こんな森で会わなければ声をかけてしまいそうなほど。いや、それすら烏滸がましいとも思える程の美貌だった。しかし今はその顔は冷酷な殺人鬼のような表情に変えられ、油断なくこちらをじっと観察している。
「貴様たち、何者だ」
グレウンは思わず騎士たちが震える程の低く重い声で問う。
シリース神聖国において、魔族と言うのは人族の敵とされている。シリース教の女神シリースを幾度となく堕落させようとし誘惑したり攻撃したりした敵だと聖書に明記されていた。それ故信仰心の篤い者が多い神聖国の国民は生まれつき魔族に対して嫌悪感を持っている。
だが、これはただのとばっちりではない。イェガランス大森林の南には魔族が住んでおり大昔には争いが絶えなかったと言われている。そして、今でも人族の領地を奪い取ろうとしているとも。
「何者だ、そう言ったな」
魔族の男は不敵な笑みを浮かべた。先程までの呆然とした表情はどこにもなく、そこにあるのはまるで魔王の笑みだ。
「ならば答えよう!」
男は体を大袈裟に動かす。正直騎士たちには何が起こっているか分からないが、男の隣にいる女は羨望の眼差しで男を見つめていた。
「我が名はヴァルター・グルズ・オイゲン!全ての魔を統べる王の中の王!魔王ヴァルター・グルズ・オイゲンである!」
その声に、今度は騎士たちが呆然となる。
こいつは何を言っているんだろう、そんな感情だ。
だが、グレウンはヴァルターなる者の言葉に聞き捨てならない物が含まれていることに気が付いた。
「魔を統べる…だと?ならばこの森の魔物や我が国を襲っている魔物はお前の配下ということか?」
グレウンの怒りの混じった声に騎士たちはハッとする。
イェガランス大森林の調査が進まない要因となっている魔物、そして最近激化している都市への魔物の襲撃。これらが目の前の魔王を名乗る魔族の仕業だと言うのなら、自分たちの敵だ。
「おい」
だが、彼らの怒りはたった二文字で霧散する。
ヴァルターの隣に立つ魔族の女。彼女の全身が凍てつくような声は騎士たちの体を震わせるには充分だった。
騎士たちの怒りは一瞬にしてなくなり、全員が同じ人物に釘付けになる。
暴力の権化。
死神の鎌が首に当てられているような、次の瞬間には死んでしまうような恐怖を、たった一人の魔族から女に感じてしまう。
騎士の一人が無意識に後退ってしまうような、巨大な恐怖。
「陛下の御前でその無礼……死にてえようだな」
魔族の女の黄色い目に射抜かれ、グレウンは思わず身震いしてしまう。
女は手に持つハルバートを構え、いつでもこちらに襲い掛かれるような姿勢を見せている。
騎士のほとんどよりも高い背丈にその背丈ほどあるハルバード、竜のような翼や尻尾はまさに強者の出で立ち。
女の視線からは決して自分たちを逃さないという威圧感を感じる。
「っ!?」
あまりの威圧感に、グレウンと何人かの騎士は思わず剣を抜いてしまう。
だが、それが不味かった。
「陛下の御前で……剣を抜いたなぁ!?」
ヴィルヘルミーネが騎士たちの耳を叩くような大声を出す。
彼女の端正な顔は怒りで歪み、思わず体が震えてしまう。
「ひ、ひぃっ!?」
その途轍もない恐怖の前に、心が折れた者がいた。
騎士の一人が情けない声を上げ背中を向けて走り出す。
逃走だ。
本来、軍人である騎士に敵前逃亡は許されない。それは神に逆らう背信行為と同意とされ、後に軍法会議に掛けられしかるべき罰が与えられる。
だが、グレウンはその行為を咎めようとはしなかった。むしろ、彼の気持ちは分かる。
彼女の視線に射抜かれた時、グレウンもみっともなく剣を放り出して逃げ出したい気持ちになった。数十年聖騎士として国を守り続けた誇りでなんとか食い止めたが、彼女の睨みにはそれほどまでの恐怖があった。
しかし、グレウンが許しても女は許さなかった。
グレウンが気付くよりも先に、魔族の女は驚異的な身体能力で跳び上がる。
「……は?」
女は騎士団を悠々と飛び越えると、逃げ出した騎士の前に降り立った。
誰もがそれを呆然と見つめるしかできなかった。女の動きは人間のそれではない。
「な、な、な…!?」
「基本的に逃亡ってのは許されないことだ…。味方にとっても敵にとってもな。味方が逃亡すれば士気に関わるし…敵が逃亡すればみすみすと情報を持ち帰らせてしまうことになる」
「ま、待ってくれ!命だけは、いのちだけは!!」
あまりの恐怖に号泣しながら命乞いをする騎士を前に、女はハルバードを構え冷酷な表情を見せる。
「…お前がアタシと正面から戦えばまだ生きられた可能性はあっただろうが…。逃げることを選んだ時点でお前の死は確定した。恨むなら…自分の意思の弱さでも恨むんだな」
女は泣き腫らす騎士の首にハルバードを振り下ろす。
なんの淀みもなく振らされたハルバードによって、騎士は首と胴体を分けられあっという間に絶命した。
「そ、そんな……」
「女神様………」
あまりの惨状に、騎士たちは声を漏らす。
だが、グレウンには今の出来事で分かったことがあった。
自分たちが生きて帰るにはこの魔族の女を倒さなければいけないと。
「総員、剣を抜け!こいつを倒さなければ、我々に明日は無いと思え!」
その言葉によって、震えていた騎士たちに闘志が戻る。
この状況から抜け出さなければ、家族、友人、愛する人と会えない。
「覚悟は決まったか?…それなら、アタシを楽しませてみろ!」
魔族の女―ヴィルヘルミーネは絶対的捕食者のように、獰猛に笑った。