第三章 オモイノヨ
委員長に押されて画面に吸い込まれた僕は、何もない大地にいた。地面は湿気を含んだ土色の大地で、空は白い雲の隙間から時折青が見える、そんな何とも言えない景色が広がる。そんな中、ひときわ目立つものが視界の片隅にあった。一つの机の上に乗った、煙突の付いた教室の模型だ。そしてそれは、自分の通っていた小学校の教室に似ている。その模型と机以外は何もなく、あたりはひたすら地平線が続いている。教室に座る”僕たち”の存在に気づいたのは、あたりを一通り見た後に、最後にとっておいた机のあたりを調べたときだ。基本的に教室の中は、教室に付いた窓とドアに付いた小窓から確認することが出来る。中を確認すると、様々な時間を生きた自分が、きれいに並べられた座席に、きれいに座っていた。成長具合は違えど、自分の顔が教室を埋め尽くす光景は、時間が止まったかのような錯覚に陥らせる。しかしその”僕たち”はどこか眠そうに、体を揺らしたり目を白めにさせたりするほどうとうとしていた。その様子は、人形や機械のようには到底思えない程、どこか動物的な挙動をしていた。ただどんなに窓を叩いても、反応は何も帰ってこない。いったいどうすればいいのか、それに、ここは一体何なのか。頭が徐々にパニック状態になろうとした刹那、地平線の奥から動くものが見えた。それは地面と同化してしまっていて、姿を捉えることが出来なかったが、しかし確実にこちらに近づいてきていた。やがてそれが車であると分かったとき、車のフロントガラスから見えた運転手の顔を見て驚愕した。運転手は自分であった。過去の自分ではなく、今現在の自分の姿だ。そして助手席には、おそらく小学六年生の時の自分が乗っている。徐々にその車が等身大の大きさになると、僕の目の前で横向きに止まった。ロックが解除される音とともに、運転手と助手性のドアがほぼ同時に開く。目の前のドアから、こちらを見る小学六年生の頃の自分が下りてきた。ドアの閉まる音が重なって聞こえる。奥から声が聞こえた。
「どうも。はじめまして、はちょっと違うかな。」
現在の自分がこちらに歩み寄ってくる。返事をしようと息を吸ったその時、ものすごい速さの塊が、僕の視界の右端を埋め尽くした。それとともに強烈な痛みと重みを受け、僕は方向感覚を失ったまま地面にたたきつけられた。目の前が曇り空になったとき、自分が倒れていることと、殴られたことに気づいた。不安を感じる痛みが右頬にべったりとくっつき、土と湿気の匂いがやけに痛みに響いた。倒れこんだ俺を覗き込む小学生の自分は、心配の色を顔に浮かべながらも、どこかすっきりしたようにも見えた。当の殴った本人は、すっきりしたようにも見えたが、どこか殴り足りなそうにも見えた。ただそれは本人の中で腑に落ちなかったようで、手を差し伸べてくれた。僕はその手を掴み、勢いよく起き上がる。
「はあ、すっきりした~。どうしても、一発殴りたかったんだよな。」
「そう、なんだ。」
「ねえ、Yくん。殴った理由をちゃんと言わないとだめだよ。」
「いや、それは言わなくても…。」
「言わなきゃダメ!」
小学生の時の自分が声を上げる。一瞬びくっとしたが、殴った本人は僕以上に驚いていた。ただ、その子には逆らうことが出来ないのか、殴った理由を素直に話してくれた。
「ああ、分かったよ。…お前が、全てを諦めたせいで、俺たちは大変な目にあったんだよ。ここは、お前の記憶とかを貯める倉庫のような場所で、俺たちは、その時その時の、強い”オモイ”が形になったような存在ってわけ。つまり俺は、今のお前の”オモイ”を形にした存在なわけ。ただこの場所って、本人の心理状況でいろいろと変わるんだよ。お前がどんな感情かによって、天気が変わったり、何かが出来たりするんだよ、ここは。ただ、別にそのことに関しては何にも不満はないよ。でもお前は、人とのかかわりによるストレスから逃げるために、すべてを諦めた。そのせいで、俺たち”オモイ”のような暑苦しい存在は、邪魔でしかなくなった。だから俺たちは、あの教室のような場所に小さくなって閉じ込められた。幸い俺たちは、運よく抜け出すことが出来たが、他のやつはあそこに取り残されたまま。だからお前のことを、…正直、…少し恨んだ。ただ“おもい”の本人ではあるから、恨みが強いわけじゃない。ただ、もし会うことがあれば、一発殴らないと気が済まなかった。…ごめん。」
彼が話すことはどこか非日常で、なかなか受け入れられるものではなかったが、今の状況を説明する手立てが他に見つからない。今は彼の話を信じる以外に他はない、そう思った。そして彼の話を聞いて、殴られて当然だと思った。もし自分が同じ立場なら、自分も同じことを考え、行動していただろう。自分の”おもい”の擬人化なのだから、当然と言えば当然だ。
「そっか、いや、大丈夫だよ。今の話を聞いて、僕自身が殴られて当然だと思ってしまった。君のことを否定することはできないよ。」
彼の目を見ながら言うと、彼は視線を泳がせたかと思うと、小さく頷いた。先ほどの殴られる瞬間に見えた表情とは、明らかに違った。少し暖かい雰囲気になったが、彼が小さく咳ばらいをすると、
「それでさっきの話の続きだけど、教室の屋根に煙突が付いてるだろ?あれがふさがれたことで、俺たちは半ば消滅しかけてる。だから一刻も早く、塞いでいるものを抜く必要がある。ただ、ここで問題が起きた。あれは、俺達には抜くことが出来ないんだ。」
彼は声を張り上げ、強くその言葉を言った。そこには、どこか不甲斐なさと悔しさのようなものを感じた。そして、彼が俺の目を見る。その眼は、一本の杭が通っているようにまっすぐだった。
「あれは、お前にしか抜けない。この場所を変革できる、本人じゃないと抜けないんだ。」
先ほど彼が言っていたことを思いだす。「ここはお前の記憶とかを貯める倉庫のような場所」、「本人の心理状況でいろいろと変わる」、そんなことを言っていた。
「それで、僕は何をしたらいいの?」
様子を窺うように彼に質問する。すると答えは、予想していた高さよりも低い位置から帰ってきた。
「煙突から出ているあの細い紐を、引っ張ってほしいんです。」
「T君?」
なるほど、僕と同じ年の彼がYで、小さい彼がTという名前なのか。俯きながら、T君がか細い声で話し始めた
「たくさん引っ張ったんですけど、僕たちじゃ全然動かなくて。それでYくんとたくさん話して、本人に引っ張ってもらえば抜くことが出来るんじゃないか、ってことになったんです。」
自分の昔の姿ではあるのだが、Yくんとの協力があれど、自分の考えをしっかりと説明できているのに、素直に感心した。もし自分も自信を持てていたら、こんな小学生に慣れていたのだろうか。そんなことを考えていたら、二人が近づいてくる。
「なので、あの煙突を塞いでいる栓を抜いてほしいんです。お願いします。」
「殴った俺が言う資格はないと思うんだけど、お願いだ。どうか、あいつらを救ってくれないか?」
彼が見る方に顔を向けると、そこには教室の中でうつろになっている、”自分たち”の姿があった。その姿を見たとき、気が付いたら口が動いていた。
「分かった、やってみるよ。ただ、もしできなかったとしても、殴るのは止めてね?」
少し腰を低くして言ったつもりだったが、彼は身を震わせていた。本当に自分の中にいる存在なんだなと、そんな思考が頭の中を吹きぬけた。
紐を掴む僕を囲うように、Y君とT君が僕の手を見つめている。紐はクラッカーの紐のような固い材質で、細い形状ながらもしっかりとしている。紐を持つ右手が少し汗ばむ中、「せーの!」という掛け声とともに思いっきり引っ張った。体が勢いよく後ろへ倒れこむ。手には紐が握られている。視線を教室の模型に向けると、煙突の栓は抜けていた。全員が喜びの感情で顔を見合わせた次の瞬間、煙突からうめき声のような音がまるで轟音かの如く、あたり一面に響き渡る。全員が強力な磁石に引き寄せられる金属のように、音のする方を向く。少しの静寂が広がる。まるで嵐の前の静けさ、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。次の瞬間、それが事実になることも知らずに。
「なんだ、今の音!まるで詰まっていた下水道が流れるようになった時の音だった!」
「Y君、汚いことを言わないで!」
尻もちをついた中ではあるが、T君が前のめりになって必死にツッコミをする姿に、愛おしさを感じてしまった。自分自身なのに。これじゃまるでナルシストではないか、などと呑気な思考を巡らせていた時、当然目の前に黒い柱が現れた。それは物体ではなく、超高速で動くなにかの軌跡であった。急いで立ち上がり教室の模型に目をやると、そこには煙突から黒い柱として、次々と出ていく”僕たち”の光景だった。あの黒い柱は、僕の”おもい”によってできているのか、そんなことを考えていたら、隣から声がする。
「これ、ちょっとやばいんじゃないか!」
その焦り様と言い、今まではこんなことはなかったのだろう。
「分からないよ、でもここにいると危ないと思う!一旦逃げよう!」
どっちが年上かもはや分からない二人の会話を聞きながら、急いで二人が乗ってきた車に乗る。Yが運転席、T君が助手席に乗り、僕は後ろの座席に座った。シートベルトを締めるのが完了すると同時に、勢いよく発信し、急速に加速していく。正面から百八十度に広がる景色はどこか一辺倒で、永遠に地平線が続いていくように感じた。後ろを振り返ると、先ほどいた場所は仄暗い雲が覆いかぶさり、まるで意志を持っているように見えた。その薄黒い雲をよく観察すると、まるで象の鼻のようなものが見えた。さらに意識を集中させ、その鼻のようなものを観察する。空を包む仄暗く厚い雲から、筒のような、そして象の鼻のような可動性を持った雲が、地上に向かって伸びていた。そしてその鼻は、先ほど黒い柱を生み出した教室の模型を、机ごと吸い込んでいた。その過程を、僕は見てしまった。その雲はそれを吸い込み終わると、一瞬動きを止め、確実に僕たちの方に進んできているのを感じた。
「ねえ、何か雲が追っかけてきてるんだけど。」
「はっ、どういう状況それ!やばいことになったな。」
最初こそYは平常であったが、ルームミラー越しにその雲を見た途端、顔の光は失われていった。ここまで分かりやすい感情の変化を、僕は見たことがない。そんな時、昔感情が顔にでて分かりやすいね、と言われたことを思いだし、こういう風に見えていたのかと、この短い時間に自分ながら思い知った。
「えっ、どういうこと?何が起こってるの?」
T君も助手席からサイドミラー越しで確認する。すると瞬く間に後ろを振り返り、直接後ろに広がる光景を見る。人の絶望する顔を見たような気がした。
「どうするか?」
「どうしよう。」
二人の沈みゆく感情と車の物理的スピードの上昇で、きれいな反比例のグラフが書けそうだ。そんなことを、なぜか考えられるほど、僕はそれ程焦ってはいなかった。何故だろうか、分からない。あの雲の穴に吸い込まれていいと感じているのか。正直、あの吸い込まれた先にあるものに、興味があることは事実だが。ただ、ここで終わりたくはなかった。ゆっくり息の音が車の中に響き渡るほど大きく、深呼吸をする。そして、フロントガラス越しに見える、広大に広がる地平線を見つめる。するとまるでそれに答えるように、目の前に湖が現れた。茶色の湿った土でできた土地がそこで終わるかのように、それは存在していた。しかしこの湖、とても変わった特徴を持っていて、人を選ぶような見た目をしていた。その特徴は、水がマーブル模様なのである。それは、あの視聴覚室のテレビに映った、マーブル模様によく似ていた。するとY君はその近くで車を止め、Y君とT君がドアを開け車を出る。僕もそれに従うように車を出て。彼らの背中についていく。マーブル模様の湖の畔に、立った。
「安原智尋君、これでお別れだ。」
Y君がいきなりそんなことを言い出す。
「安原さん、ここでお別れです。」
T君もだ。先ほどの車の中で見せた、焦りや恐怖のようなものが、二人からはもう感じなかった。いや、気づく人はもしかしたら隠していると見抜くのかもしれない。ただ僕には、二人が嘘をついているようには思えない。
「えっ、どういうこと?ちょっといきなり過ぎて、よくわかんないんだけど?」
戸惑いと同時に、もしかしたらはめられたのかという、焦りや恐怖のようなものが押し寄せてくる。そう思うと、急に目の前の二人が気味の悪い姿になっていく。しかし、そんな印象の変化を見透かされたのか、寸でのところで止めらえた。
「違うんだ、話を聞いてほしい。」
Y君が僕の目を見据える。彼の淀みのない真っすぐな声色に、意識しなくても吸い寄せられた。
「君を、ここに連れてきたのは俺たちなんだ。理由はここ最近、ここ、”オモイノヨ”の天気が晴れるようになってしまったことだ。そんな理由で、って思うだろ?ただ、これが君にとって、オモイの持ち主にとっては深刻な問題なんだ。俺たちのような存在を、”オモイダケ”って読んでるんだけど、俺たちの役割は、このオモイノヨの悪天候の因子になる事。オモイノヨの悪天候は、オモイの本人に生きるための活力を与えてくれる。”浮いている”状態にしないために、地面に足を接地させる”ツナギ”になる。ちなみに、君にとってのツナギってなんだと思う?」
Y君が僕の目を、試すように見てくる。しかし僕は、その瞳に答えられない。
「分からない。」
塞ぎこむ僕に、T君が口を開ける。
「大丈夫ですよ、安原さん。そんなに落ち込まなくても大丈夫です。」
T君が僕の背中をさすってくれる。とても恥ずかしくなったが、今はその温かさに甘えた。
「僕たちの口からは、ツナギが何なのかは言えないんです。僕たちは常に『深い虚空』の支配下にありますから。」
深い虚空とは何なのか?その疑問を言わせないようにするかのように、T君は言葉を続ける。
「ただ安原さんは既に、自身のツナギに触れていますよ。一般的にツナギっていうのは、その人のオモイと同義であることが多いんです。」
T君はY君に一瞥を送ると、僕のことを上目使いで見ながらこう言った。
「僕たちは、オモイダケです。僕たちは、あなたの中にある一つの記憶、ある体験が僕たちを形作っています。何かあったら、僕たちのことを思い出してください。何かのヒントになるかもしれません。」
そういうと、二人は僕の前へ歩み寄る。それは、手を伸ばせば体に触れられるほどの距離だ。すると、二人の中でのタイミングがあったのか、二人の重なった手によって、胸のあたりを力強く押される。体勢を崩し後ろに倒れると、そこにはマーブル模様の水面が迫っていた。視界が水で埋め尽くされる中、一つの声が耳に聞こえた。
「許されることはありません。一度したことを消すことは、どんなものにも出来ないんですよ。」
気が付くと、元居た視聴覚室に戻っていた。目の前にはテレビがあるが、先ほどまで写っていたマーブル模様は消えていて、電源が切れているようだ。その画面を見ていると、画面に反射して自分の顔が見えた。そして後ろに、誰かがいるのが見えた。急いで振り返る。そこには委員長がいた。すると、僕のもとに歩み寄り、先輩の手が僕の肩に触れる。すると、そのまま僕は近くの壁に押され、もたれる。先輩に首筋を撫でられると、そのまま顎にいき、上げられる。すると先輩が口を開く。
「あなたの足を、地面に接地させているのは何?」
どこか余裕を感じさせ、艶やかさを感じさせる先輩の佇まいに吸い込まれるように、意識が薄れていく。僕を見る委員長のその顔を、僕はやはり知らなかった。